乙訓寺 (京都府長岡京市)
Otokuni-era Temple
乙訓寺 乙訓寺
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

表門(惣門、赤門)(長岡京市指定文化財)


表門

表門



裏門(東門、裏高麗門)(長岡京市指定文化財)


裏門


本堂(附宮殿、くうでん)(長岡京市指定文化財)




毘沙門天堂(長岡京市指定文化財)




日限地蔵尊


日限地蔵尊内




ボタン



ボタン



日限地蔵尊


鐘楼(長岡京市指定文化財)




鎮守八幡社



鎮守八幡社(長岡京市指定文化財)



三輪明神 





弘法大師立像



早良親王供養塔






十三重塔


クロガネモチの大木、長岡京市有形文化財(天然記念物)



空海の手植えというボダイジュ




柑橘樹



【参照】隣接する長岡第三小学校建設、乙訓寺旧跡が埋蔵保存されているという。
 乙訓寺(おとくにでら)は、乙訓地域で現存する最も古い寺院といわれている。乙訓(弟国)の旧郡名を残す唯一の寺院になる。
 境内に牡丹の花が多いことから「牡丹寺」、「今里の弘法さん」とも呼ばれている。山号は大慈山(だいじざん)、法皇寺(ほうこうじ)ともいう。 
 真言宗豊山派、長谷寺の末寺。本尊は合体大師像。
 京都洛西観音霊場第6番札所。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、518年、第26代・継体天皇は、筒城宮(つつきのみや、現在の京田辺市多々羅都谷)から、弟国宮(おとくにのみや、現在の長岡京市今里付近)に遷都したという。乙訓寺は当時の宮跡ともいう。
 603年頃/620年頃、第33代・推古天皇の勅命により、厩戸王(聖徳太子、574-622)が乙訓寺を創建したともいう。自刻の十一面観音を本尊としたという。(『乙訓寺縁起』)
 奈良時代、784年、第50代・桓武天皇による長岡京遷都に際し、「京内七大寺」筆頭となり、都鎮護の寺として大増築された。
 785年、第49代・光仁天皇皇子・早良親王(桓武天皇実弟)は、藤原種継暗殺に関わったとされ当寺に幽閉された。(『水鏡』)
 平安時代、811年、第52代・嵯峨天皇は太政官符により、弘法大師(空海)を当寺別当に任じた。真言宗になり、空海は寺院の修造を行う。空海は1年間別当職にあり、神護寺との間を往来する。(『高野大師御広伝』)
 812年、10月27日(旧暦)、最澄は奈良・興福寺の維摩会の帰途、乙訓寺に一泊し空海に会う。空海は最澄に、金剛界・胎蔵界尊像、曼荼羅などを見せたという。10月29日、空海は乙訓寺を去り高雄山寺に発つ。(「東寺長者次第」)
 850年、仁明天皇没後初七日の法要が宝皇寺で営まれた。宝皇寺とは当寺とみられている。
 897年、第59代・宇多天皇の譲位後、寺は行宮(あんぐう、仮宮)とされた。堂塔が整備され、寺号も法皇寺に改められた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)などにより衰微する。十二坊あったという。内紛により、足利義満は僧徒を追放した。寺は南禅寺・伯英禅師に与えられ、一時、禅宗に改宗される。その後、南禅寺塔頭・金地院の兼帯地になった。
 16世紀(1501-1600)中期、南禅寺・大寧院末の法皇禅寺になる。
 室町時代-安土・桃山時代、永禄年間(1558-1569)、織田信長の兵火により焼失、一時衰微した。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院により再興された。また、中興第1世・隆光は、南禅寺塔頭・金地院と文殊院屋敷(東山の豊国神社付近)との交換により寺地を入手した。隆光は再興し、真言宗に改宗した。
 1693年、綱吉は寺領を寄進、堂宇を再建した。以後、徳川家の祈願(祈祷)寺になった。隆光は、真言宗に改め、「乙訓寺法度」を制定している。
 1695年、大師堂上棟になる。(棟札)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈による影響を受けた。
 現代、1966年、長岡第三小学校建設に伴う発掘調査で、長岡京遷都当時の乙訓寺講堂跡が発見された。
 1997年、合体大師像が開帳される。
◆厩戸王 飛鳥時代の皇族・政治家の厩戸王(うまやど-の-おう、574-622)。聖徳太子(しょうとく-たいし)、上宮太子(じょうぐうたいし)、豊聡耳(とよとみみ)皇子。第31代・用明天皇の皇子、母は皇宮・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。593年、皇太子になり第33代・女帝推古天皇の摂政。594年、仏教興隆の詔を出した。600年、新羅征討軍を出し交戦したともいう。601年、斑鳩宮を造営する。602年、再び新羅征討の軍を起こしたともいう。603年、冠位十二階を定め、604年、十七条の憲法を発布、君、臣、民が和し仏法に則る立国の根本義を明らかにした。605年、斑鳩宮に遷る。607年、小野妹子を国使として遣隋使を派遣、以後、対等外交が成る。609年頃、天皇と皇太子は鞍作鳥(くらつくりのと り)作の丈六仏像を法興寺金堂に納める。620年、馬子と議し歴史書編纂の初例『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を録した。49歳。墓は磯長墓(しながのはか) と呼ばれ大阪府南河内郡太子町にある。
 595年、高句麗の僧・慧慈、百済の僧・恵聡が渡来し法興寺に住して仏教を広めた。皇太子は593年、四天王寺、607年、法隆寺を建立し、仏教経典の注釈書『三経義疏』を著し、仏教普及に尽力した。
◆早良親王 奈良時代の皇族・早良親王(さわら-しんのう、750-785)。崇道(すどう)天皇。第49代・光仁天皇(白壁王)の第2皇子、母は高野新笠(たかの-の-にいがさ)。山部親王(第50代・桓武天皇)の同母弟。京都に生まれた。768年、出家し東大寺に住した。770年、父・光仁天皇の即位により親王になる。781年、兄・桓武天皇の即位に伴い、父の意図により皇太弟に立てられた。785年、桓武天皇の寵臣だった造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件が起きる。早良親王は首謀者であり、天皇擁立計画があったとされた。連座して、大伴継人、竹良、佐伯高成、大伴家持らも官位などを奪われた。早良親王は皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉される。淡路に流される途中、無実を訴えながら河内国高瀬橋付近で絶食死したという。遺骸は淡路島に運ばれた。35歳。
 事件は、桓武天皇の第1皇子・安殿(あて)親王(第51代・平城天皇)の擁立に伴う謀略とみられている。以後、藤原氏の地位が低下し、桓武天皇の権力が強化された。その後、高野新笠、藤原乙牟漏の死、皇室・藤原氏の病死者も相次ぎ、災害、悪疫の流行も続いた。陰陽師は、安殿親王の病弱の原因も、早良親王の怨霊による祟(たた)りとした。800年、桓武天皇は、早良親王に崇道(すどう)天皇の号を追贈する。墓も改葬させ、淡路に寺を建立し、大和の八嶋陵に改葬した。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれる。以後も、親王の怨霊は長く平安貴族を悩ます祟りの一つとして畏れられた。
 乙訓寺(長岡京市)境内に供養塔が立つ。
◆空海 奈良時代-平安時代前期の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。俗姓は佐伯氏、諡号は弘法大師、灌頂名は遍照金剛。讃岐国(香川県)に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。空海が寺に迎えられたのは、自害した早良(さわら)親王の怨霊を鎮めるためだったともいわれている。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなる。62歳。東峰に葬られた。
◆隆光 江戸時代前期-中期の新義真言宗の僧・隆光(りゅうこう、1649-1724)。字は栄春。大和国(奈良県)に生まれた。1658年、仏門に入り、長谷寺・唐招提寺、奈良・醍醐で密教を修め、儒学・老荘も学ぶ。1686年、5代将軍・徳川綱吉の命により将軍家祈祷寺・筑波山知足院住職、綱吉の帰依を得た。1688年、知足院を神田橋外に移し護持院と改称し開山になった。1695年、大僧正。1707年、隠居し、駿河台成満院へ移る。1709年、綱吉没後失脚、大和で没したという。京都・奈良の寺社再建を綱吉・桂昌院親子に奨めた。75歳。
◆仏像 ◈本堂宮殿(ぐうでん)に本尊「合体大師像」(重文)を安置する。体は空海で首は八幡大菩薩であるという。伝承として、空海は八幡明神の霊告を受け、秘仏の合体大師像、毘沙門天立像を刻んだという。
 ◈脇壇に「十一面観音像」(長岡京市指定)を安置する。鎌倉時代作、大和国長谷寺観音を写した。
 ◈毘沙門天堂に安置されている「毘沙門天立像(幽愁の毘沙門天)」(重文)は、平安時代後期作、右手に宝棒、左手に宝塔を持つ。眉をひそめている。極彩色、桧材、寄木造、像高100㎝。
◆建築
 仁王門、裏門、本堂、不動堂、毘沙門天堂、地蔵堂、書院、客殿、鐘楼、庫裡、鎮守社などが建つ。
 ◈「表門(惣門、赤門)」(長岡京市指定文化財)は、江戸時代、1695年に建立された。中井家が監督した。一間一戸、四脚門、切妻造、本瓦葺。
 ◈「裏門(東門、裏高麗門)」(長岡京市指定文化財)は、江戸時代、1695年に建立された。中井家が監督した。一間一戸、高麗門、切妻造、本瓦葺、両脇練塀付。
 ◈「本堂(附宮殿、くうでん)」(長岡京市指定文化財)は、江戸時代、1695年に建立された。中井家が監督した。かつては大師堂といわれた。3間5間、一重、宝形造、本瓦葺、前拝1間、後門1間。
 ◈「毘沙門天堂」(長岡京市指定文化財)がある。
 ◈「鐘楼」(長岡京市指定文化財)の建立年は不明、牧野成貞寄進ともいう。
 
◈「鎮守八幡社」(長岡京市指定文化財)は、江戸時代、1695年に建立された。中井家が監督した。かつては檜皮葺、1723年より杮(こけら)葺、近代以降に桟瓦葺、1989年より軒一部を杮葺、銅板葺。一間社、流造、銅版葺。
◆文化財 『乙訓寺縁起』は、江戸時代、1696年、隆光により誌された。創建から、空海、隆光までの経緯を記した。
 江戸時代、1695年の「乙訓寺再興棟札」(高さ136.9㎝、幅33㎝)。
 室町時代、「明応二年(1493年)」の修理銘のある「狛犬」1対。
 鐘は、江戸時代、1696年に鋳造された。精海により三条釜座信州大掾藤原国次に造らせた。第二次世界大戦時に戦時供出になり、1968年に再鋳造された。
◆長岡京・平安京 奈良時代、770年、女帝の第46代・第48代・称徳天皇没後、皇統は天武天皇系から天智天皇系に移り、第49代・光仁(こうにん)天皇が立てられた。771年、光仁天皇の第4皇子で天武天皇系の井上内親王との間の子・他戸(おさべ)親王が皇太子として立てられた。772年、井上内親王は、光仁天皇呪詛の罪で廃位になり、他戸内親王も皇太子の地位剥奪になる。775年、2人は幽閉され非業の死を遂げた。
 781年、山部王は、第50代・桓武天皇に即位する。早良親王は桓武天皇の弟になる。早良親王は皇太子に立てられた。783年、桓武天皇により長岡京造営が始まる。既存の南都仏教勢力排除が遷都の目的とされた。
 785年、遷都造営の指揮をとっていた藤原種継が暗殺され、黒幕は早良親王とされた。早良親王は皇太子の地位を剥奪され、乙訓寺に幽閉された。その後、流罪になり、785年、無実を訴えて絶食死した。
 その後、桓武天皇の周辺に異変が続き、皇太子とした安殿(あて)親王も病になる。天変地異、災害も頻発した。10年余りで長岡京は棄京になり、794年の平安京遷都につながる。
◆最澄と空海 平安時代、804年、最澄は短期の還学生(げんがくしょう)として、留学僧・空海らとともに唐に渡り、805年に帰国する。809年、最澄も20年の予定を2年に切り上げて帰国し、高雄山寺に入る。最澄は、帰国1カ月にもならない空海に、 空海が唐から持ち帰った経籍12部を借り、その後も借り続ける。
 最澄は年下の空海により、812年に高雄山寺で金剛界、813年に胎蔵界の結縁灌頂を受けている。最澄は、空海に伝法灌頂(阿闍梨灌頂)も授けるように申し出るが、空海は3年の実践修行が必要であるとした。やむなく、最澄は、811年に最愛の高弟・泰範を空海の元に送り、密教を学ばせる。だが、泰範は、 空海の弟子となり最澄の元には戻らなかった。最澄が申し出ていた『理趣釈経』の借覧を空海は断った。その後、最澄は空海と決別する。
◆乙訓 地名、寺名となっている乙訓(おとくに)は、今から1500年前、葛野(かどの)郡から分離し新しい郡がつくられた際に、葛野を「兄国(あにくに)」とし、新郡を「弟国(おとくに、乙訓)」としたことによるともいわれている。
◆遺跡 1966年の長岡第三小学校建設に伴う発掘調査で、長岡京遷都当時の乙訓寺講堂跡が発見された。その規模は東西27m、南北12m、両端には回廊が付いていた。北側には5棟の小建物があり、弘法大師が住したとみられる僧坊も発掘された。
 当時の境内は、東西約327m(三町)、南北218m(二町)、現在の6倍もあったという。遺跡は、隣接する小学校敷地に埋蔵保存されている。
 出土した奈良時代の墨書土器には、郡名「弟国」と記されていた。
◆柑橘樹  境内に柑橘樹が植えられている。
 空海が、平安時代、812年、恒例により、境内の蜜柑を摘み、漢詩を添えて外護者の第52代・嵯峨天皇に献上したという。「献柑子表 沙門空海言。乙訓寺有数株柑橘樹。依例交摘取来。」(『性霊集』)
◆花暦
 牡丹寺といわれ、境内には、本山の長谷寺から移植された30種、2000株の牡丹が、4月下旬-5月上旬頃に花を咲かせる。
 かつての境内は、表門から本堂まで松並木があった。1934年の室戸台風で倒木したため、1940年頃より長谷寺第68世能化(住職)・海雲全教和上より、2株の牡丹を寄進されたのに始まる。
 シャクナゲ500株がある。
◆供養塔 早良親王供養塔が立つ。
◆樹  クロガネモチ(長岡京市有形文化財、天然記念物)の大木は、幹回2.93m、根元周り3.55m、高さ9m、樹齢は400-500年になる。1934年の室戸台風で被害を受けた。クロガネモチとしては、京都府内でも屈指の大きさといわれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、「特別展 南山城の寺社縁起」、『京都の仏像』、『日本の名僧』、『事典 日本の名僧』、『京都古社寺辞典』、『京都歩きの愉しみ』、『京都府の歴史散歩 下』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都おとくに歴史を歩く』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』 、ウェブサイト「コトバンク」   


関連・周辺楊谷寺(柳谷観音)(長岡京市)  関連・周辺長岡京跡(長岡宮大極殿公園)(長岡京市)  周辺  関連神護寺  関連祟道神社    
乙訓寺  〒617-0814 京都府長岡京市今里3-14-7  075-951-5759
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光