慈眼寺 (京都市右京区京北)
Jigen-ji Temple
慈眼寺 慈眼寺
 Home  Home





釈迦堂


釈迦堂に掲げられている「大雄尊」の扁額、原坦山筆


鐘楼


明智光秀木坐像


明智光秀位牌「主一院殿前日州明叟玄智大居士」




金光明最勝王経、大乗仏典の一つ、成立は4世紀とみられている。




境内にあった「鮎放流発祥地」の碑、大正期(1912-1926)初期




境内の近くを流れている上桂川


寺の近くにあった篠山藩周山代官所の跡の碑
 上桂川流れる京北周山(しゅうざん)の山間に、慈眼寺(じげんじ)は建つ。 
 室町時代-安土・桃山時代の武将・明智光秀ゆかりの寺として知られている。山号は慧日山(えにちさん)という。
 曹洞宗、永林寺の末。本尊に聖(しょう)観世音菩薩を安置している。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、草創ともいう。
 江戸時代、1670年、功山花(華)心和尚が再興したという。(寺伝)
 1776年、本寺・永林寺の4世・自興にいたり、「伝法1世」と称したという。(寺伝)
 1858年、前住・天梁和尚により、朴龍自興和尚が伝法開山になった。自興は、「妙法蓮華経8巻」「諸経雑集1巻」の血書で知られるという。 
 近代、1912年?、現在の釈迦堂が、廃寺になった密厳寺(みつごしんじ)から移築されたという。密厳寺(周山の観音寺山、現在の周山中学の東)は、光秀が創建したという。
 現代、1967年、現在の本堂が再建される。
◆朴龍自興
 江戸時代の曹洞宗の僧・朴龍自興(?-1760)。詳細不明。永林寺3世。大和尚位に昇る。
◆明智光秀 安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち-みつひで、1528?-1582)。美濃の土岐一族とされる。越前の朝倉義景、織田信長に仕え、足利義昭にも仕えた。1568年、織田信長の入京にも関わる。信長と義昭対立の際にも斡旋した。1570年、信長の摂津、近江の出陣以来、各所での戦に関わる。1571年、信長により坂本城を与えられた。1575年、九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。 1575年、信長に丹波攻略を命じられ、口丹波、亀山、八木、山国を攻略一国支配を認められた。1580年、備中、1581年、因幡鳥取城攻撃の秀吉を助ける。1582年、信長の命による中国攻略中の秀吉支援に反した。1万3000の明智軍は備中に向かわず、亀山城から老ノ坂を経て本能寺を急襲した。信長は自刃、二条御所の信忠も自滅させた。取って返した秀吉との山崎の合戦に敗れ、一旦、勝竜寺城に入る。坂本に落ち延びる途中の小栗栖で、土民の襲撃により負傷し自刃したという。
 1578年、光秀はこの地を訪れている。北桑南部では、宇都右京大夫が四代に渡り支配し、暴力による悪政を行っていたという。1579年、光秀は宇都城を攻め、戦うことなく宇都を降伏させる。戦略拠点にするため、現在の寺の西方向の山にあった城の修復を急いだ。この際に、周辺の神社仏閣の石垣や墓石も徴用し、資材として使ったという。城は、周山城と名付けられた。また、亀山にも別の城郭を構えている。
◆原坦山  江戸後期-明治時代の僧・仏教学者・原坦山(はら-たんざん、1819-1892)。陸奥生まれ。藩士・新井勇輔の長男。1833年、15歳で江戸・昌平黌(しょうへいこう)で儒学を学ぶ。20歳で浅草・総泉寺の栄禅について出家し、大中京璨(だいちゆう きようさん)の法を嗣ぐ。1840年、多紀元堅の塾で西洋医学を学ぶ。浅草・総泉寺26歳で出家。1856年、京都・心性寺に住した。1872年、教部省から教導職に任命された。1874年、出版法違反の責により免職、僧職剝奪された。1879年、東京大学で初の印度哲学科の講師になる。1880年、復籍した。1885年、学士院会員。1891年、曹洞宗大学林(現駒沢大)総監。1892年、管長事務取扱になる。著に『心識論』など。
◆仏像 ◈本堂の本尊「聖観世音菩薩立像」は、飛鳥時代の上宮太子(厩戸王、聖徳太子、574-622)の作という。かつて、兵火により堂宇焼失の際にも難を逃れ、人々の篤い信仰を集めたという。像高1尺1寸(33.3㎝)。
 脇仏は「毘沙門天」、「地蔵菩薩」を安置する。
 
明智光秀の位牌は「主一院殿前日州明叟玄智大居士」とある。
 ◈釈迦堂の本尊に「烏枢沙摩(うすさま)明王」が安置されている。「うすしまさん」と親しまれている。古代インドでは炎の神であり、密教の五大明王の一尊に数えられている。江戸時代、1805年、6世・大年禅師が勧請し、その没後は、開山堂の堂奥に秘められていた。
 近代、1917年に「奇跡的な霊験あらたかな事」が起こり、知られるようになったという。特に、女性の守り本尊として多くの信仰を集める。失禁、痔などの効験があるという。
 ◈11世・瑞堂は、周辺の廃寺になった諸仏を蒐集したという。
 釈迦堂の「降魔釈迦木造坐像」は、弓削村より遷された。上体が藤原時代(694-710)の作という。江戸時代、享保年間(1716-1735)に膝の部分が修理された。像高2尺8寸5分(86.4㎝)、光背の高さ4尺7寸(1.42m)。
 釈迦堂の「赤栴檀(せんだん)文殊像」は、細野村蔵春庵より遷された。室町時代(1336-1573)作という。獅子上に跨る。総高6尺2寸5分(1.89m)。
光秀木像 釈迦堂には厨子内に、「明智光秀坐像」(京都市指定登録文化財)と位牌が安置されている。光秀坐像は墨を塗られた憤怒の木像になる。烏帽子姿で坐した木像は、安土・桃山時代、1582年の光秀没後、遠くない頃に制作されたとみられる。光秀の特徴を表しているという。表情は、眉をつり上げ、水晶をはめ込んだ眼を見開く。像高1尺1寸2分(33.9㎝)。
 木像はかつて、光秀が建立したという密厳寺(みつごんじ)にあったという。近代、1912年の廃寺にともない、位牌、釈迦堂とともに当寺に遷されたという。
 木像は、光秀の徳を慕う村民が、密かに祀ったという。人々は、文武両道で治世にも秀でた光秀を崇敬した。だが、逆臣の汚名を着せられていたため、木像は墨で黒く塗り潰された。右肩下の明智家家紋「桔梗」も隠された。腰の刀も抜き取り、金具も外されたという。
◆密厳寺 密厳寺(みつごんじ)は、周山の東北、観音寺山にあった。当寺と上桂川を挟んだ対岸になる。大覚寺末の寺だったという。光秀が建立したともいう。かつて、丹波西国三十七所第24番札所が置かれた。札所本尊は聖観世音を安置した。
 近代、1912年に廃寺になり、明智光秀木像など所蔵品は慈眼寺に遷された。
◆建築 ◈「本堂」は、現代、1967年に再建されている。コンクリート造。
 かつての本堂は、単層、入母屋造、草葺だった。
 ◈「釈迦堂」は、廃寺になった密厳寺より、近代、1912年?に移築された。
 ◈「鐘楼」が建つ。
◆文化財 『妙法蓮華経』8巻、『諸経雑集』1巻は、朴龍自興の血書という。
 本堂奥の開山堂には、格子天井に182枚の花絵が描かれている。歴代住職と檀家先祖の霊碑が安置されている。
 本堂には、画伯・尾上玉浦が2年半を費やして描いたという襖絵「白蓮」「紅蓮」がある。
 釈迦堂に掲げられている「大雄尊」の扁額は、近世の僧侶・原坦山(1819-1892)筆による。
◆イチョウ・紅葉 秋には、境内の大銀杏と紅葉が見られる。
 裏山のイチョウ(京都市指定天然記念物)は、雌木になる。胸高幹周は3.8m、樹高30m。
◆年間行事 大祭(4月28日)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。

*参考文献 『京都府の地名』『京都府北桑田郡誌』『丹波西国三十七所道中記』『古都歩きの愉しみ』 、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺周山城跡    関連・周辺周山廃寺    関連・周辺福徳寺    周辺    関連白川    関連水尾    関連谷性寺(亀岡市)        
慈眼寺 〒601-0251 京都市右京区京北周山町4  0771-52-0213
  Home     Home  
 © 2006- Kyotofukoh,京都風光