福徳寺 (京都市右京区京北) 
Fukutoku-ji Temple
福徳寺 福徳寺 
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山門


山門






本堂


本堂、「浄極廟」の扁額



保存庫



鐘楼



鐘楼、梵鐘









如意輪観世音菩薩



如意輪観世音菩薩
 京北下中町、周山街道(国道162号線)の東、山腹に福徳寺(ふくとくじ)が建つ。奈良時代の僧・弓削道鏡に所縁ある寺ともいわれている。境内西に視界が開け、本堂前に樹齢380年という桜の大木が植えられている。山号は玉泉山という。  
 曹洞宗。本尊は薬師如来坐像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 奈良時代、711年、第45代・聖武天皇の勅願により、行基により創建されたという。当初は、現在地の北数100m、大谷山の口(大谷口)にあり、法相宗だったという。僧・弓削道鏡が七堂伽藍を創建したという。薬師七重塔が建立され、弓削寺(ゆげでら)と呼ばれたともいう。(寺伝)。
 室町時代、1396年、焼失する。本堂と本尊は焼失を免れ、この時に庵に改めた。
 安土・桃山時代、1579年、明智光秀は周山城築城の際に、近在の社寺を破却し用材を徴発した。当寺も破却され、以後、廃絶したという。
 江戸時代、1615年、1681年とも、現在の境内の南西にある永林寺(京北町塩田)2世・居山桂宅が請われ、桂宅禅庵を富春庵(ふしゅんあん、中村富春庵)に改めたという。居山は中興開山とされた。以後、永林寺末8か寺の一つになる。
 延享年間(1744-1747)、永林寺8か寺の一つとして中村富春庵とある。(「延享度曹洞宗寺院本末牒」)
 1779年、焼失している。
 1780年、現在の建物が再建された。
 近代、1882年、福徳寺として再興された。
 現代、1950年、薬師如来坐像が重文指定される。
行基 飛鳥時代-奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749) 。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し太宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられた。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆道鏡 奈良時代の法相宗の僧・道鏡(どうきょう、700?-772) 。弓削道鏡。河内国の物部氏一族の弓削氏、弓削櫛麻呂の子。法相宗・義淵の弟子になり、良弁に梵語を学ぶ。内道場(宮中仏殿) の禅師に列せられた。762年、病の女帝・第46代・孝謙上皇(後の第48代・称徳天皇) に侍して看病し、以後、寵愛をうける。763年、少僧都、764年、孝謙天皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇が対立した藤原仲麻呂の乱後、太政大臣禅師に任ぜられた。765年、法王。宇佐八幡宮神託事件では、宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったとされたが、和気清麻呂により神託が虚偽とされ、道鏡の即位は阻止された。770年、称徳天皇病没後、造下野薬師寺別当(下野国) に左遷され、その地で没した。
◆居山桂宅 江戸時代の僧・居山桂宅(きょざん いたく、?-?)。詳細不明。永林寺2世。1615年、宅禅庵を富春庵(中村富春庵)に改めたという。中興開山とされた。
◆仏像 保存庫に、平安時代後期作の「薬師如来坐像」(重文、もと国宝)が安置されている。右手は施無畏印、左膝上の掌に薬壺を載せる。宣字形裳懸座、舟形の板光背。胸部に翻波式衣文。桧材一木割矧造、漆箔。104.8㎝。
 「持国天立像」(119.9㎝)(重文)、「増長天立像」(121.4㎝)(重文)が安置されている。ともに平安時代後期、12世紀(1101-1200)作の特徴(垂髷、鮨袖縁に花弁状切り込み、天冠台上縁が花形)が見られる。左手を上げ、右手を腰に当て、邪鬼を踏む。一木割矧造、かつては彩色が施されていた。もとは四天王像が揃っていたとみられる。
 「阿弥陀如来坐像」(54.2㎝)は定印、浅い翻波式衣文、大半は一木造、内刳はない。漆箔。平安時代、10-11世紀(901-1100)作。「伝薬師如来坐像」(像高54.4㎝)も同様で、両手を欠失する。同じ作者の作とみられている。
 「阿弥陀如来立像」(97.2㎝)、地蔵菩薩立像(95.6㎝)は、同時期に同一工房で造仏されたとみられている。一木割矧造、古色仕上げ、衣文は浅く簡素。平安時代、11世紀(1001-1100)作。なお、両肩、両体側、両手先、足先は後補による。
◆石塚 境内背後にある「五輪塔(石塚)」は、弓削道鏡の墓ともいわれている。逸話が残る。道鏡は祈願のために春日明神を参詣し、そのお告げにより当寺にも祈願した。だが、3年の満願にも霊験がないとして、寺の仏像、経巻などを庭に放り、放尿するなどの乱暴狼藉を働いた。その後、病に陥ったため懺悔したところ回復した。だが、一時のようには戻らず故郷の河内に帰り養生した。称徳天皇の頃、宮中に召された際に、道鏡は許しを得て、この地に堂を建て薬師如来を安置したという。里人は堂を「失尿堂」と呼び、道鏡に因みこの地を弓削の庄と呼んだ。道鏡が流罪後亡くなると、人々は堂前に五輪塔を建て供養したという。
 明智光秀の周山城築城の際に、五輪塔は堂舎とともに用材として奪われたため、その後、再建建立された。下の病に霊験あるという。
◆袋負い地蔵 背に布袋を背負う地蔵菩薩は、「袋負い地蔵」と呼ばれ、参道脇の小祠にほかの地蔵尊とともに安置されている。
 伝承がある。安土・桃山時代、1579年、明智光秀が宇津城を開城し、京北周山町には周山城を築城した。この際に、近在の社寺を破却し部材を徴発した。弓削寺(福徳寺)も破却され、この時に廃絶したという。寺は、地蔵尊を石段参道脇の池に投げ込んで隠した。
 大正期(1911-1926)中期、海老瀬ゆきという人があり、その夢告に、地蔵尊を池より早く引き揚げるようにとあった。村人が池中を捜すと、この地蔵尊が見つかったという。以来、現在地に安置されている。
◆弓削 福徳寺は弓削道鏡と関わりがあると伝えられている。また、寺の南に弓削の地名も残されている。弓削では、かつて弓を製作していた弓削部(ゆげべ)が置かれていたとされ、大阪府八尾にも同様な弓削の地名がある。
 この弓削部とは、646年の大化の改新前代、弓の製作に携わり朝廷に仕えていた品部(しなべ)をいう。
◆文化財 かつて周山城で使われていたという障子がある。
◆桜 本堂前に樹齢340-380年という枝垂れ桜の巨木(京都市指定天然記念物)がある。江戸時代、1614年に移植されたという。常照皇寺の桜との関連があるともいう。
 太い幹の単木で、地域では「かすみ桜」と呼ばれている。一重の枝垂れ(ヒガンシダレ)という。胸高幹周2.72m、樹高10m、それぞれ2.55m、8mとも。
◆墓 境内に弓削道鏡の塚と伝えられる五輪塔が立つ。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 案内板、『京都府古社寺辞典』『京都府の地名』『京都市文化財ブックス第22集 杣の国-京北・文化財のしおり-』『京都府の歴史散歩 上』『京北町誌』『京都大知典』『京都府北桑田郡誌』『謎の丹波路』『日本の名僧』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺周山城跡    関連・周辺常照皇寺    周辺春日神社(京北宮町)     関連     

かすみ桜

かすみ桜

弓削道鏡の墓、「大僧正道鏡禅師御霊供養塔」とある。

弓削道鏡の墓、五輪塔

地蔵尊が安置されている祠

袋負い地蔵

句碑

境内よりの景色、京北の里


「和同開珎(わどうかいちん)」の大きな石碑、境内下の公園入口に立てられていた。京北との関連は目下不明。
 708年武蔵国より銅が献上され「和銅」と改元になる。律令制下で催鋳銭司が置かれ和同開珎銀銭が発行された。同年、近江国で銅銭が鋳造されている。続いて銅銭が発行された。
 和同開珎は日本最初の通貨といわれていたが、1998年の飛鳥池遺跡での発掘調査により、和同開珎以前に無文銀銭、富本銭が使われていたことが分かった。和同開珎の鋳造遺跡として、京都では加茂町に鋳造銭司遺跡がある。
福徳寺 〒601-0533 京都市右京区京北下中町寺ノ下15  075-854-0971
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