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周山城跡 (京都市右京区京北) Site of Shuzan-jo Castle |
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周山城跡 | 周山城跡 |
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![]() 案内の道標「京北十景 周山城址」とあった。山頂までの案内は詳しい。 ![]() 北山杉林の中の山道 ![]() 本丸の東、出丸的な小規模の石垣、土留めになっている。 ![]() 二の丸、削平部分 ![]() 石段 ![]() 東の城の虎口、本丸登城口は尾根を利用しており上り坂になっている。突きあたりが本丸になる。 ![]() 登城口にあった瓦片。 ![]() 本丸 ![]() 天守台の石垣 ![]() 本丸の窪地、周囲には石垣が積まれている。 ![]() 現地にある説明板、東西が逆になっているため、地図を反転している。上が北になる。 赤い線の部分が石垣で、緑の線の部分が盛り土・土塁。通常の登山口から上ると右手から入る。東端(右端)に「二ノ丸」、中央部分が東の城の「本丸(主郭)」、南に「鷹屋ノ丸」「馬屋ノ丸」、西に「小姓丸」と呼ばれる郭がある。本丸と西の郭の付け根部分に、虎口が見えている。 ![]() 井戸跡、開口部は1.5mほど。 ![]() 本丸南西尾根の郭 ![]() 本丸西の郭 ![]() 西方端の郭石垣、野面積み(3m)が良好に残っている。 ![]() 本丸西の石垣、石材はチャート、自然石の野面積による。 ![]() 城山より樹間の北の眺望、日本海の小浜に続く周山街道(国道162号線)が見えている。 ![]() 本丸西にある堀切の一つ、尾根部分をかなり深く掘り込んでいる。 ![]() 【参照】栗尾峠からの京北の町、桂川 |
京北周山町の西に位置する黒尾山(標高509.4m)の東峰、城山(標高480m)の山頂付近一帯の杉林の中に、山城・周山城(しゅうざん-じょう)の遺構が残されている。明智光秀が築城し、ほぼ築城時の状態で残されている。 城は桂川と弓削川の合流地点の西、山の頂にあり、南北に走る周山街道(西の鯖街道)を一望することができる。周山の名は、光秀が名付けたという。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1578年、明智光秀は亀山城を築城する。 1579年、明智光秀の丹波攻略により宇津(うづ)城は開城する。同年/1579年-1581年、周山城が築城されたともいう。 1580年/1581年頃、明智光秀は宇津氏らの土豪と、京都と若狭を結ぶ周山街道の抑えのために周山城を築く。明智光忠を城主に配した。 1581年、旧8月、光秀は、茶人・津田宗及とともに、山上の本丸天守で十五夜の月見の茶会を催した。(『津田宗及茶湯日記』) 1582年、本能寺の変後、光秀の死後に、城は光秀残党により焼かれ廃城になったという。また、羽柴(豊臣)秀吉の持ち城になり、加藤光泰が城代として入城したともいう。 1584年、旧2月、秀吉が城を視察したという。(『兼見卿記』)。この頃まで、城は秀吉配下の武将により使用されていたともいう。 天正年間(1573-1592)、廃城になったとみられている。 現代、2017年度より、京都市は調査を行う。 2024年、京都市は、城門跡を発見したと発表した。 ◆明智 光秀 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・明智 光秀(あけち-みつひで、1528?-1582)。男性。名は十兵衛、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)。美濃(岐阜県)の生まれ。父・明智光綱。美濃の土岐氏支流ともいう。娘は細川ガラシャ。初め斎藤氏に仕えた。越前・朝倉義景に仕え、1566年、織田信長に仕えた。1567年、滝川一益に従い北国征伐に加わる。1568年、信長入京に当たり、政務に当り足利義昭のために公家側に働きかけた。1569年、公家寺社領仕置などに携わる。信長と義昭の対立を仲介する。1570年、信長の摂津、近江の出陣に従う。1571年、近江・坂本城主になる。1572年、浅井氏の小谷城包囲に参加する。1573年、越前朝倉氏攻略に加わった。1574年、大和多聞山城を守備し、美濃、河内に転戦した。1575年、功により惟任日向守と称した。信長の命で丹波の攻略に着手し、福知山城を築城した。年貢を軽減するなど民に慕われた。1577年頃、亀山城を築造する。1579年、強く抵抗した八上城の波多野秀治らを下して丹波平定した。福知山と命名、城を改修する。1581年、因幡鳥取城攻めに羽柴(豊臣)秀吉を援け、丹後の検地を断行する。1582年、甲州・武田勝頼攻撃に従う。信長より徳川家康の慰労を命じられ、さらに、秀吉の備中高松城包囲に救援を命じられる。光秀は反発し、亀山城(亀岡市)に入り、愛宕山に詣り謀反を決意した。備中出陣の名目により、6月1日、兵1万3000を率い、亀山城を発した。老ノ坂で天下取りを表明する。2日、本能寺を急襲し、信長を自刃に追い、二条御所の信忠を自滅させた。(本能寺の変) 。13日、取って返した秀吉との山崎の戦いに敗れる。一旦、勝竜寺城に入る。坂本城に落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃により傷を負い、自刃して果てたという。「三日天下」といわれた。故実、典礼に通じた。法名は秀岳宗光。56歳。 1578年、光秀はこの地周山を訪れている。北桑南部では、宇都(宇津)右京大夫が四代に渡り支配し、暴力による悪政を敷いていたという。1579年、光秀は宇都(宇津)城を攻め、戦うことなく降伏させる。戦略拠点にするため、城の修復を急いだ。この際に、周辺の神社仏閣の石垣や墓石も徴用 し、資材として使ったという。城は、周山城と名付けられた。また、亀山にも別の城郭を構えた。 ◆明智 光忠 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・明智 光忠( あけち-みつただ、1540-1582)。男性。通称は次右衛門、二郎、二郎四郎。父・明智光久(明智光秀の叔父)。光秀の従弟。妻は光秀の2女、父とともに光秀に仕えた。光秀の城攻略に伴い、1577年、亀山城に留守居として入る。1579年、丹波八上城の落城で城代として入城した。1580年/1581年頃、周山城の城主になる。1582年、6月、本能寺の変で二条城を攻め、鉄砲で重傷を負い知恩院で療養したという。山崎の戦いで、敗戦を知り近江・坂本城で一族とともに自害した。剃髪し、長閒斎(ちょうけんさい)と号した。43歳。 明智五宿老の一人。 ◆津田 宗及 安土・桃山時代の豪商・茶人・津田 宗及(つだ-そうぎゅう/そうきゅう、?-1591/1592)。男性。隼人、屋号は天王寺屋、通称は助五郎、更幽斎、道号は天信。堺の生まれ。父・豪商・津田宗達の嫡男。天王寺屋の3代目を継ぐ。畿内の武将、本願寺坊官・下間氏などと関係した。茶を父・宗達、武野紹鴎(たけの-じょうおう)に学び、後に織田信長・豊臣秀吉に仕え、御茶頭(おさどう)になる。1558年、名物茶入の切型を作る。政商として畿内・九州で活動したとみられる。山城宇治に領したという。1566年より、宗及と改称した。1568年、信長の入洛後に信長に傾く。1574年、相国寺の茶会で、千利休と共に正倉院の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を与えられた。1582年、本能寺の変の際には、堺で徳川家康を供応していた。1587年、秀吉の九州出兵に同行する。北野大茶湯で利休・宗久らと亭主をつとめた。1590年、秀吉の関東攻めに同道した。著に津田宗達・宗及・宗凡の祖父子3代の茶会記、当時の政治も記した『津田宗及日記(天王寺屋会記)』16巻(1565-1587)がある。 堺派。堺の会合衆(えごうしゅう)天王寺屋の総領、三十六人会合衆の一人。堺で60余人の弟子がいたという。「天下三宗匠(ほかに、千利休、今井宗久)」の一人。武術、生花、聞香、歌道にも秀でた。本願寺門徒として法眼の称を得た。南宗寺の大林宗套(だいりん-そうとう)に参禅し、天信の道号を授けらた。 墓は南宗寺(堺)にある。 ◆加藤 光泰 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・加藤 光泰(かとう-みつやす、1537-1593)。男性。通称は作内、権兵衛、遠江守。美濃国(岐阜県)の生まれ。父・斎藤龍興(たつおき)の家臣・景泰。龍興に仕え、滅亡後に浪人を経て、織田信長、1570年頃より、近江長浜城主・羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。1582年、山崎の戦の功により播磨、丹波周山城、近江貝津・高島城、美濃大垣城主などを歴任した。蔵入領の代官をも務め、一時、秀吉の勘気を受ける。羽柴(豊臣)秀長に預けられ、後に赦免される。従五位下、遠江守に叙任された。1590年、小田原攻め後に甲斐甲府城主になる。1592年、文禄の役で朝鮮出兵し、帰国途中の、1593年、朝鮮西生浦で病死した。毒殺されたともいう。57歳。 ◆周山城 安土・桃山時代、1579年に、明智光秀の丹波攻略により宇津城は開城した。また、同年に周山城が築城されたともいう。 1580年に宇津氏ら土豪の活動と、周山街道の抑え、さらに支配する領民に対する政治・経済的な意味も含めて周山城は築城されたともいう。また、光秀は周山城を当初、信長の御座所として築城したともいう。周山の地は山陰にも通じている。信長には、1581年に毛利輝元が奪還した鳥取城攻略の計画があった。 光秀は、丹波支配の居城として亀山城を築城しており、支城として中丹波の福知山城に明智秀満、西丹波の黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守を配した。東丹波の要衝地、縄野村の山城(周山城)には明智光忠を配した。光秀は中国・周の武王の善政に倣い、地名を縄野から周山に改めさせ、城も周山城と命名した。なお、BC1000年代に、周の武王・姫発は、殷の悪政に対して牧野の戦いで破っている。(殷周革命) 光秀は周山城築城に際して、領民に厳しい労役を課した。神社仏閣での資材の強制徴発を行い、石垣・墓石なども徴用している。これに対し1579年に、山国郷民が抗して縄野坂で蜂起した。鉄砲を携え築城中の周山城に向かおうとした。光秀軍の鉄砲隊により制圧され、村は焼き打ちされている。 1584年旧2月に、秀吉が周山城を視察したという。(『兼見卿記』)。この頃まで、城は豊臣秀吉配下の武将により使用されたという。秀吉は丹波支配の拠点を亀山城とし、周山城の意味は失われていった。 ◆周山城の構造 周山城は、当時としては最新の織田信長系の築城技術を用いたという。城郭史上の歴史的位置づけとして、室町時代後期、1569年に築城の信長の旧二条城、安土・桃山時代、1576年の安土城、1583年の秀吉の大坂城、1587年の聚楽第の間に位置している。この間に、山城から平城・定型した城へ移行しており、周山城は山城としてはこの時代最後のものになった。 比高220m/230mの周山城は、大きく2つの部分に分けられている。城山(標高480.7m)を中心にした大規模な主郭である東の城(東城)と、その北西にある峰(標高482.1m)を中心にした小規模な西の城(西城)がある。前者は「石の城」、後者は「土の城」になり、周山城では両者が共存している。2つの城の間には、防御機能として尾根筋の東西方向の谷を南北に切断する形で、大規模な大堀切(標高428.2m付近、幅5m、深さ3m)といわれる堀が2つ築造されている。 東の城は本丸、天守台を中心にして、8方向に伸びる支尾根を巧みに利用し、細い郭(くるわ、曲輪)が築かれ、各所が削平されている。北に3つ、西に1つ、南に2つ、東に2つある。縄張りは総石垣造で、北・南・東尾根の郭は石垣天端の崩壊が著しい。西尾根の石垣天端は比較的残る。城域は東西700m/490m、南北600m/300mの規模になる。 石垣石材は、自然石・荒割石を使用し「野面積(のづら-つみ、加工しないで割ったままに積む)」にしている。隅角部は強度を増すために「算木積(さんぎ-づみ)」にしている。短辺・長辺の石を用い、本来は短辺・長辺を互い違いに積み上げる。短辺隣には隅脇石(すみわきいし)を置き、上下の長辺で挟み込む。当城では角石の左右の引きが長短交互にはなっていない。一部に、角が鈍角の「シノギ積(シノギ角積)」も見られ、織豊期初期の技法になる。 本丸(主郭)は中央にあり、本丸周辺は大きく3つの郭に分かれ、各面が削平され総石垣により防備している。初川家所蔵『周山城図』によると、山全体が城として機能していた。本丸の東の郭は「二ノ丸」、本丸の西の郭は「小姓丸(小姓郭)」といわれ、数段の削平によりなる。特徴的なことは、二ノ丸と小姓丸の2つの郭間は、短い登り石垣になって繋がれていた。本丸の南西方向は「鷹屋ノ丸」「馬屋ノ丸」などと呼ばれた。ほかにも、「兵糧倉」「かじや丸」「野村丸(見張丸)」「武家屋敷」「大手門」なども設けられていた。 本丸の平面はほぼ方形(やや「く」字形)で、周囲に石垣を巡らした総石垣が築かれた。これらの石塁囲みは倭城に類例が多いという。石は階段状の「段組み(段築)」(高さ7m)により積まれている。石を2段に積み上げ、つなぎ目には踊り場を設けた。天守台西側の石垣は、出角(一面5m)になっており、3段に積みにし一段高くなっている。これらの工法は、後の算木積への過渡期にあたる。高石垣積の技術が確立しておらず、滑り防止のために段組みにしていたとみられている。石材は現地の黒尾山産チャートを用い、加工を施さない野面積にした。石垣上には土塀・木塀も併用された。 本丸は瓦葺だったとみられている。丸瓦は切断面が全て、古式の「コビキA手法(糸切り技法)」だった。瓦原材料の粘土板を粘土塊から切り出す際に、撚り糸を使い切り離した。このため、瓦の凹面に撚り糸の粗い斜め方向の痕跡が残さる。「コビキB(鉄線切り/鉄線引き技法)」も見られた。鉄線を使って切り離したため、瓦の凹面に滑らかな水平方向の痕跡が残る。後者は、安土・桃山時代、1583年以降に登場した技法であり、後世に行われた城の再興時のものとみられる。ほか軒丸瓦(右巻巴文)、軒平瓦(三葉三転唐草文)は、当城特有の文様とみられる。 天守台南半分に穴蔵(地下)があり、石塁の上面は9間・8間あった。入口は3カ所に設けられ、通路幅のみが開けられ、地下室と天守が繋がっていた。ほかに類例はないという。本丸・天守台の北西すぐに水を溜めたとみられる石垣積みの窪地(直径10m)・大井戸が残されている。本丸の北西、崖下にも石垣で囲った井戸跡が残る。 東の支尾根から本丸に向かう所に、東西方向に細い郭(100m)が伸びる。郭の西半分の登城道は、見通しのきく急な坂になっていた。防御壁(登り石垣)であり、南北両側に石垣・土塁が築造されている。安土・桃山時代、1592年-1598年の豊臣秀吉による文禄・慶長の役時に、現地南岸地に築城された倭城の先駆とみられている。ただ、倭城の登り石垣は、山麓の駐屯地を囲い込んでいた。周山城は山頂と中腹の郭を連結している。 中央南側にも、攻城勢の側面から弓・鉄砲などでの攻撃を可能にする、横矢掛(よこやがかり)の石塁を持つ「内枡形虎口」がある。これは虎口(出入り口)の前面に方形の空間を設けることで、一端、敵の侵攻を妨げ、守勢の迎撃を容易にするための工夫だった。南の支尾根、西の支尾根から入るにも、1つか2つの内枡形虎口を通らなければならなかった。 西の城は、東の城とやや離れて築城され、支城として存在した。峰北西に主郭があり、南東方向の尾根筋に土塁・堀切が築かれている。石垣が築かれておらず、東の城よりやや時代は古く、中世(鎌倉時代-室町時代)の土塁・土堤から形成された「土の城」跡とみられている。規模は東西100m/230m、南北200m/140mを有している。 ◆月見 安土・桃山時代、1581年旧8月に、光秀は、堺の茶人・津田宗及を周山城に招いた。山上の本丸天守では十五夜の月見を愛で、一晩中茶会が催されたという。(『津田宗及茶湯日記』)。その翌年に光秀は亡くなる。 ◆発掘調査 現代、2017年度より、京都市は城跡の調査を行い、2024年に大型の城門跡を発見したと発表した。 城門は本丸東の二ノ丸遺構とされ、石積階段11段が発見された。9段目には平面が広がり、建物を支えた礎石の一部も確認された。大きな屋根構造だったとみられている。薬医門、幅5.4m、奥行1.8m。 城門に接続する南面には石垣(長さ7m、高さ2.5m)が発見された。階段接続部には、宝篋印塔台座が転用され埋め込まれていた。視覚効果を意図したという。 *ウッディ京北で地図が配布されています。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京北町誌』、『京都市文化財ブックス第22集 杣の国-京北・文化財のしおり-』、『図説中世城郭事典』、『織豊系城郭とは何か-その成果と課題』、『京都府の歴史散歩 上』、『古都歩きの愉しみ』、『京都の地名検証 3』 、『あうる京北 友の会だより №182』、「朝日新聞 2024年12月18日付」ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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