周山城跡 (京都市右京区京北) 
The ruins of Shuzan-jo Castle
周山城跡  周山城跡
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案内の道標「京北十景 周山城址」とあった。山頂までの案内は詳しい。


北山杉林の中の山道


本丸の東、出丸的な小規模の石垣、土留めになっている。


二の丸、削平部分


石段


東の城の虎口、本丸登城口は尾根を利用しており上り坂になっている。突きあたりが本丸になる。



登城口にあった瓦片。



本丸



天守台の石垣



本丸の窪地、周囲には石垣が積まれている。
 京北周山町の西に位置する黒尾山(509.4m)の東峰、城山の山頂付近一帯、杉林の中に、明智光秀が築城した山城・周山城(しゅうざん じょう)の遺構が残されている。
 城は桂川と弓削川の合流地点の西、山の頂にあり、南北に走る周山街道を一望することができる。この周山の名は、光秀が名付けたという。周(しゅう)の武王の善政に因んだという。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1578年、明智光秀は亀山城を築城する。
 1579年、明智光秀の丹波攻略により宇津(うづ)城は開城する。
 1580年、1581年頃とも、明智光秀は宇津氏らの土豪と、京都と若狭を結ぶ周山街道の押さえのために周山城を築く。明智光忠を城主に配した。
 1581年、光秀は、茶人・津田宗及とともに山上で月見をする。
 1582年、本能寺の変後、明智の死後、城は光秀残党により焼かれ廃城になった。
 1584年頃まで、豊臣秀吉配下の武将により使用されたともいう。 
◆明智光秀 安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582)。美濃の土岐一族とされる。越前の朝倉義景、織田信長に仕え、足利義昭にも奉仕した。1568年、信長入京にも関わる。信長と義昭対立の際にも斡旋した。1570年、信長の摂津、近江の出陣以来、各所での戦に関わる。1571年、信長により坂本城を与えられる。1575年、九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。1575年、信長に丹波攻略を命じられ、口丹波、亀山、八木、山国を攻略し一国支配を認められた。1580年、備中、1581年、因幡鳥取城攻撃の秀吉を助ける。1582年、信長の命による中国攻略中の秀吉支援に反した。1万3000の明智軍は備中に向かわず、亀山城から老ノ坂を経て本能寺を急襲した。信長は自刃、 二条御所の信忠も自滅させた。取って返した秀吉との山崎の合戦に敗れ、一旦勝竜寺城に入る。坂本に落ち延びる途中の小栗栖で土民の襲撃によって負傷し自刃 したといわれる。
 1578年、光秀はこの地を訪れている。北桑南部では、宇都(宇津)右京大夫が四代に渡り支配し、暴力による悪政を敷いていたという。1579年、光秀は宇都(宇津)城を攻め、戦うことなく降伏させる。戦略拠点とするため、城の修復を急いだ。この際に、周辺の神社仏閣の石垣や墓石も徴用 し、資材として使ったという。城は、周山城と名付けられた。また、亀山にも別の城郭を構えた。
◆明智光忠 戦国時代-安土桃山時代の武将・明智光忠(あけち みつただ、1540?-1582)。光秀の叔父・明智光久(明智光安とも)の子、明智光秀の従弟。美濃国の農民出身ともいう。妻は光秀の娘。娘は細川忠興の側室。明智光秀に仕えた。丹波国・八上城主。1575年、丹波過部城攻めにより織田信長より感状を下された。1582年、本能寺の変で、信長の子・織田信忠らが籠った二条御所を攻撃した。だが、鉄砲で重傷を負い知恩院で療養する。同年山崎の戦いで、光秀が羽柴秀吉に敗れた報を知り、近江・坂本城で自害した。
◆周山城 安土・桃山時代、1579年、明智光秀の丹波攻略により宇津城は開城した。翌1580年に宇津氏ら土豪の活動と、周山街道の押さえ、さらに支配する領民に対する政治、経済的な意味も含めて周山城は築城された。光秀は、丹波支配の居城として亀山城を築城し、福知山城に明智秀満、黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守を配した。要衝地の縄野村の山城(周山城)には明智光忠を配する。光秀は中国・周の武王の善政に倣い、地名を縄野から周山に改めさせ、城も周山城と命名した。紀元前1000年代、周の武王・姫発は、殷の悪政に対して牧野の戦いで破っている。(殷周革命)
 光秀は周山城築城に際して、領民に厳しい労役を課し、神社仏閣での資材の強制徴発を行い、石垣、墓石なども徴用した。これに対し1579年、山国郷民が抗して縄野坂で蜂起し、鉄砲を携え築城中の周山城に向かおうとした。だが、光秀軍の鉄砲隊により制圧され、村は焼き打ちされた。
 城は当時としては最新の織田信長系の築城技術を用いたという。京都の城郭史上の歴史的位置づけとして、1569年築城の織田信長の旧二条城、1587年築城の豊臣秀吉の聚楽第の間に位置しているという。周山城は山城としてはこの時代の最後のものになった。
 比高220mの周山城は大きく二つの部分に分けられている。城山(標高480.7m)を中心にした大規模な主郭である東の城(東城)と、その北西にある峰(標高482.1m)を中心にした小規模な西の城(西城)がある。二つの城の間には、防御機能として尾根筋の東西方向の谷を南北に切断する形で、大規模な大堀切(標高428.2m付近、幅5m、深さ3m)といわれる堀が2つ築造されている。
 東の城は本丸、天守台を中心にして8方向に伸びる支尾根を巧みに利用し、細い郭(くるわ、曲輪)が築かれ各所が削平されている。北に3つ、西に1つ、南に2つ、東に2つあり、城域は東西700m、南北600mの規模になる。
 本丸周辺は大きく3つの郭に分かれ、各面が削平され総石垣により防備している。初川家所蔵『周山城図』によると山全体が城として機能していた。本丸の東の郭は「二ノ丸」、本丸の西は「小姓丸(小姓郭)」といわれ、数段の削平によりなる。本丸の南西方向は「鷹屋ノ丸」「馬屋ノ丸」などと呼ばれた。ほかにも、「兵糧倉」「かじや丸」「野村丸(見張丸)」「武家屋敷」「大手門」なども設けられていた。
 本丸はほぼ方形で、総石垣が築かれ、天守台南半分に穴蔵(地下)、入口は3か所に設けられていた。本丸・天守台の北西すぐに水を溜めたとみられる石垣積みの窪地(直径10m)、大井戸が残されている。本丸の北西、崖下にも石垣で囲った井戸跡が残る。
 東の支尾根から本丸に向かう所に東西方向に100mの細い郭が伸びている。郭の西半分の登城道は見通しのきく急な坂になっており、南北両側に石垣・土塁が築造されている。中央南側にも攻城勢の側面から弓・鉄砲などでの攻撃を可能にする横矢掛(よこやがかり)の石塁を持つ内枡形虎口がある。これは虎口(出入り口)の前面に方形の空間を設けることで、一端、敵の侵攻を妨げ、守勢の迎撃を容易にするための工夫だった。南の支尾根、西の支尾根から入るにも一つか二つの内枡形虎口を通らなければならなかった。
 西の城は東の城とやや離れて築城され、支城として存在した。峰北西に主郭があり、南東方向の尾根筋に土塁、堀切が築かれている。ただ、石垣が築かれておらず、東の城よりやや時代は古く、中世(鎌倉時代-室町時代)の土塁や土堤から形成された「土の城」跡とみられている。規模は東西100m(230mとも)、南北200m(140mとも)を有している。 


*ウッディ京北で地図が配布されています。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京北町誌』『京都市文化財ブックス第22集 杣の国-京北・文化財のしおり-』『図説中世城郭事典』『京都府の歴史散歩 上』『古都歩きの愉しみ』『京都の地名検証 3』


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現地にある説明板、東西が逆になっているため、写真の地図を反転している。写真では上が北になる。
 赤い線の部分が石垣で、緑の線の部分が盛り土・土塁。通常の登山口から上ると右手から入る。東端(右端)に「二ノ丸」があり、中央部分が東の城の「本丸」、南に「鷹屋ノ丸」「馬屋ノ丸」、西に「小姓丸」と呼ばれる郭がある。本丸と西の郭の付け根部分に、虎口が見えている。

井戸跡、開口部は1.5mほど。

本丸南西尾根の郭

本丸西の郭

西方端の郭石垣、野面積み(3m)が良好に残っている。

本丸西の石垣、石材はチャート、自然石の野面積による。

城山より樹間の北の眺望、日本海の小浜に続く周山街道(国道162号線)が見えている。

本丸西にある堀切の一つ、尾根部分をかなり深く掘り込んでいる。

【参照】栗尾峠からの京北の町、桂川
 周山城跡 京都市右京区京北周山町  
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