洛翠庭園 (京都市左京区)
Rakusui-teien Garden
洛翠庭園 洛翠庭園 
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画仙堂


画仙堂




三重塔、かつては五重塔だったという。


庭から見た不明門



表から見た不明門






茶室「渓猿亭」


「臥龍渡り」の敷石



飛石


平安神宮の庭園にある臥龍橋に似た石橋と飛石



琵琶湖大橋の位置にある石橋



近江大橋の位置にある石橋



滝口



西にある沢渡



西の浅瀬部分



くずれ組



東にある琵琶湖疏水の取り入れ口



小さな石標に「郵政省用」とあった。
 「植治(うえじ)の庭」で知られていた宿泊施設「ゆうりぞうと京都 洛翠(らくすい)」は、2009年に閉館した。
 庭園は現在、非公開になっている。
◆歴史年表 近代以前、この一帯は、南禅寺境内だったという。 
 近代、明治政府の上知令(1871、1875)後、13万坪(42.9㎡)の境内が政府に没収され、4万坪(13.2㎡)に減じた。境内跡地は払い下げられ、政治家、経済人などの別荘が次々に建てられる。
 1909年、現在地に実業家・藤田小太郎)の私邸が建てられた。作庭家・7代・小川治兵衛により庭園が作庭される。
 現代、1958年、旧郵政省共済組合の所有になり、職員の保養施設として利用された。
 1987年、運営が地元の「洛翠」に委託され、建物の一部も改修される。その後も、宿泊施設として利用され、庭園も公開されていた。
 2003年、11代・小川治兵衛により庭園が改修される。
 2007年、郵政民営化後、引き継いだ日本郵政共済組合(東京)が所有した。
 2009年、5月10日、「利用率低下」などを理由に閉館が決定し、売却される。
◆藤田 小太郎 江戸時代後期-近代の実業家・藤田 小太郎(ふじた-こたろう、1863-1913)。男性。大阪の生まれ。父・藤田鹿太郎。藤田本家当主。非鉄金属精錬の藤田組(後の藤田財閥、現在のDOWAホールディングス)を束ねる財界人だった。小坂鉱山事業に参画、引退後は鮎川義介の戸畑鋳物の創立を後援した。久原鉱業の監査役に就く。50歳。
 なお、藤田組の創始者は、関西財界の重鎮といわれた伝三郎(1841-1912)による。長州・萩に生まれ、高杉晋作の奇兵隊に参加した。その人脈から、新政府の政商になった。南海電鉄、関西電力、毎日新聞を創設する。小坂鉱山、児島湾干拓なども手掛けた。藤田組は伝三郎のほか、鹿太郎、久原庄三郎が出資した。小太郎は伝三郎の甥にあたる。
◆7代・小川 治兵衛
 江戸時代後期-近代の造園家・小川 治兵衛(おがわ-じへい、1860-1933)。男性。源之助。山城国(京都府)乙訓郡の庄屋・農家に生まれた。父・山本弥兵衛。1877年、岡崎の庭匠・小川家(「植治」「田芝屋」)の養子になる。6代に付く。遠州流を学んだ。法然院・大定に薫陶を受けた。7代目治兵衛を継ぎ「植治(うえじ)」と称した。天才的と謳われ山県有朋、西園寺公望らの後援を得た。今日の「植治流」造園技術を確立する。
 碧雲荘、無鄰庵、平安神宮神苑、清風荘、円山公園、京都国立博物館庭園、対龍山荘庭園など100あまりの庭園を手掛け、「植治の庭」と呼ばれた。京都御所、修学院離宮、桂離宮などの復元修景にも関わる。
 辞世は、「京都を昔ながらの山紫水明の都にかへさねばならぬ」だった。73歳。
 墓は佛光寺本廟(東山区)にある。
◆建築 ◈西にある「不明門(あかずのもん)」は、安土・桃山時代の伏見城の城門遺構ともいう。表には菊華紋がある。天井にはかつて龍が描かれていたという。内側には待合も造られている。不明門といわれるのは、西南の裏鬼門にあたるため、また、門が使われる事が無かったためともいう。ただ、貴賓の来客に際して使われていたという。
 ◈庭内東に建つ京都三仙堂(ほかに詩仙堂、歌仙堂)の一つ「画仙堂」は、280年前に中国・清から伝来したという。堅田の浮御堂を意識したともいう。宝形造。
◆庭園 庭園の広さは3300㎡ある。「植治」の7代目・小川治兵衛(おがわ-じへえ、1860-1933)の1909年の作庭による。7代は、「近代日本庭園の先駆者」といわれた。現代、2003年より11代・小川治兵衞(1942-)による改修と管理が行われている。11代は当庭について「眺めているだけで心が癒され、あくびの出るような庭」と述べている。
 庭は、池の東より琵琶湖疏水の水が引き入れられ、東山を借景とする池泉回遊式庭園になる。ただ、借景については考慮されていないともいう。大池は、琵琶湖そのままの形に造られ、東の竹生島、石橋なども実際の琵琶湖に架かる橋と同じ位置に配置し、架橋されている。
 池の西には、植治の特徴の一つである浅い流れが造られている。西に琵琶湖の瀬田の唐橋に呼応した「沢渡り」がある。浅瀬には飛石が置かれている。付近に、自然石の石組を思わせる「くずれ組み(くずれ積み)」が見られる。これは、山崩れした石が自然に止まった様に似せ石が組まれている。
 近江大橋の位置にある貴石(青石自然石)の石橋、琵琶湖大橋の位置には彫りの一枚石(一文字橋)の切石橋が架けられている。その近くに大津港を表すという大石が据えられている。なお、実際には、作庭当初には、まだ琵琶湖大橋は存在していなかった。後の1964年に現実が庭を追い、琵琶湖に架橋されている。植治が作庭した平安神宮庭園の臥龍橋に酷似した、最も長い石橋も架けられている。ここでは、長形の板石と円形の石臼を池途中で繋ぐ。
 池の東端に竹生島に呼応した小島があり、岩より樹齢100年の細い松が生えている。蓬莱山ともいう。
 東側には画仙堂が建ち、近くに長浜港を表現したという舟泊り石が据えられている。また、低い雌滝があり、緩やかな流れが段を経て池に落されている。疏水の取り入れ口からの水の流れは、龍の背びれを連想させるという框(かまち)石で組まれている。
 東端に、11代が復元した「臥龍渡り」の特徴的な敷石も見られ、緩やかな曲線を描く。これは、池に架かる臥龍橋にも呼応している。また、築山も11代によって復元された。以前よりあった三重石塔(もとは五重塔)に、根締め、杉苔が加えられた。さらに、庭内で最も高い奥の築山部分も復元されている。
 植栽は松、槙、光養杉などによる。春の枝垂れ桜、秋の落ち紅葉でも知られていた。
◆茶室 西に茶室「渓猿(けいえん)亭」がある。


❊現在、ある法人の所有になっており施設・庭園は非公開です。今後も公開の予定はないとのことです。(2012年現在)
❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

❊参考文献・資料 『植治の庭を歩いてみませんか』、『京都秘蔵の庭』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』 、ウェブサイト「近代日本人の肖像-国立国会図書館」、ウェブサイト「コトバンク」


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洛翠 〒606-8434 京都市左京区南禅寺下河原町67,二条通白川角 
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