随心院 (京都市山科区)
Zuishin-in Temple
随心院 随心院
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総門















薬医門


薬医門


大玄関







長屋門




小野小町の歌碑、「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」


蓮弁祈願、和紙の蓮弁を水瓶に浮かべ、水に溶けることで祈願成就する。



蓮弁



庫裏





庫裏



庫裏



庫裏、 はねず踊りの人形


庫裏、小野小町


庫裏、小町が、深草少将が通った日数を数えるために糸を通した跡のあるという榧(カヤ)の実。



庫裏、請雨本尊石、平安時代、877年、一身上人が化粧の井戸で祈雨した際の本尊石という。



庫裏、小野カヤの切り株
  京都市の東南に位置する小野郷(おののごう)は、古来より小野氏の勢力地だった。随心院(ずいしんいん)は、その郷の南に位置し、小野小町の旧跡だったという伝承がある。 
 「小野随心院」、「小野門跡」、「曼荼羅寺御殿」とも称された。山号は牛皮山(ぎゅうひざん)という。
 小野真言宗善通寺派の大本山、本尊は如意輪観音坐像。
 美人祈願、恋文上達、所願成就などの信仰がある。
歴史年表 平安時代、991年、弘法大師の法孫・真言宗の仁海(にんがい)僧正の開基による。第66代・一条天皇にこの地を贈られ、修行のための一宇を建立したことに始まるという。当初は、牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざん まんだらじ)と称し、以来、真言宗小野流発祥の地になった。
 1110年、成尊は、曼荼羅寺に多宝塔を建て、塔内に等身大の大日如来像を安置した。(「江都督納言願文集」一)
 鎌倉時代、5世・増俊(ぞうしゅん)阿闍梨は、曼荼羅寺の塔頭(子房)として随心院を建立した。中興の祖とされる。法流は随心院流と呼ばれた。
 貞応年間(1222-1224)、6世・顕厳(けんごん)は法験により護持僧となり、第84代・順徳天皇、第86代・後堀河天皇、第87代・四条天皇の勅願所になる。
 1221年、承久の乱により焼失した。
 1229年、7世・親厳(しんがん)の時、後堀河天皇により門跡の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称したという。随心院は曼荼羅寺を領掌する。その後、九条家よりの入寺が続き、紀伊国井上本庄など多くを有した。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。その後、荒廃する。
 安土・桃山時代、1599年、九条家より入った24世・増孝により、曼荼羅寺旧跡に本堂などが再興された。幕府より612石の寺領を寄進される。(「京都御役所向大概覚書」)。以後、五摂家の九条家、二条家からの入寺も続いた。豊臣秀頼の寄進を受ける。
 江戸時代、1609年、徳川将軍家は312石の寺領を寄進する。後に300石に加増になる。
 寛永年間(1624-1644)、現在の薬医門、玄関、書院が建立された。
 宝暦年間(1751-1764)、能の間が九条家の寄進により建立された。
 1753年、現在の総門、庫裏が二条家より移築された。
 28世・増護の時、第121代・孝明天皇(1831-1867)の信仰を得て、数度の御願法要を奉修した。
 近代、1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止となり、門跡の称号も廃された。
 1885年、旧門跡は復称をゆるされた。
 1907年、1908年とも、独立して真言宗小野派30か寺の本山になる。
 1931年、善通寺派に改称し、総本山になる。
 現代、1966年、境内地は、文化財保護法による史跡に指定される。
 1991年、能の間の改修が行われた。
◆仁海 平安時代中期の真言宗の僧・仁海(にんがい、951-1046)。父は宮道(みやじ)惟平、和泉国に生まれた。高野山の雅真(がしん)に師事し得度、石山寺・元杲(げんごう)に灌頂を受けた。弘法大師の法孫で8代目にあたる。1018年、勅命により神泉苑での祈雨法を修し、権律師に任じられた。以後、長元年間(1028-1037)に2度、長久年間(1040-1044)に4度など9回の祈雨の効験により、雨僧正・雨海僧正と呼ばれた。宮門を輦車に乗ったまま出入りすることを許された。東大寺別当・東寺長者法務を歴任している。「胎蔵界礼懺」の撰者。醍醐寺の修験僧、稲荷山でも行した。真言宗小野流の祖、小野僧正とも称された。
◆成尊 平安時代中期の真言宗の僧・成尊(せいぞん、1012-1074)。仁海について出家、小野曼荼羅(まんだら)寺の2世。第71代・後三条天皇の信頼篤く護持僧となる。1072年、東寺一長者となる。通称は小野僧都。著作に「小野六帖(ろくじょう)口決」「真言付法纂要抄(さんようしょう)」。小野の僧都と呼ばれた。東寺一長者、後三条院の護持僧となる。
◆増俊 鎌倉時代の僧・増俊(生没年不詳)。詳細不明。随心院5世、中興の祖とされる。子院・随心院に住した。法流は随心院と呼ばれた。
◆小町小町 平安時代の女流歌人・小野小町(おの の こまち、815?/826?-898?)。詳細不詳。小野氏の出身で、出羽郡司・小野良真の娘で小野篁の孫(娘とも)ともいわれる。小町とは禁中の局の名称であり、本名は小野比右姫ともいう。平安時代、第58代・仁明天皇(在位833-850)に宮廷に仕え、寵幸を受け更衣(こうい、後宮の女官)となったという。天皇亡き後、852年、この地に移り隠棲したという。六歌仙、三十六歌仙のひとり。
 紀貫之は「あわれなるようにて強からず、いはばよき女の悩めるところにあるに似たり」(「古今集序」)と書き記した。
◆仁明天皇 平安時代前期の第54代天皇・仁明天皇(にんみょう てんのう、810-850)。正良(まさら)親王、深草帝。第52代・嵯峨天皇の皇子。母は橘嘉智子(檀林皇后)。823年、14歳で立太子、833年、即位、第53代・淳和天皇皇子・恒貞親王を皇太子とした。842年、承和の変で、伴健岑(ともの こわみね)、橘逸勢らが謀反により、藤原冬嗣の娘・順子との間の子・道康親王(後の第55代・文徳天皇)を皇太子とした。承和年間(834‐848)、唐風儀礼、漢詩文の文化が盛んになる。
 深草少将のモデルともいう。学問、弓射、鼓琴吹管、書、医学にも通じた。清涼殿で亡くなる。851年、文徳天皇により解体され、陵の傍らに移建され嘉祥堂と呼ばれた。
◆牛皮山 開山・仁海にまつわる伝承がある。仁海の夢に、亡くなった母が現れる。母は鳥羽あたりの赤牛と化していた。仁海は牛を連れ帰り、牛になった母への孝養を尽くした。牛はほどなくして死ぬ。
 その後、牛の皮を剥いで両界曼荼羅を描き、本尊とした。これは、印度の聖牛思想の慣わしによるという。その後、一宇を築き曼荼羅寺とした。また、牛の尾を背後の山上に埋めて菩提を弔い、山は牛尾山と呼ばれたという。山号も牛皮山(ぎゅうひざん)としたという。(『密宗血脈抄』)
◆小野氏 小野氏は、第5代・孝昭天皇(B.C.506?-B.C.393?)を出自とする春日氏の裔とされ、妹子は近江国滋賀郡小野村に住み「小野」姓を称したという。山城国愛宕郡小野郷(左京区)、近くの醍醐天皇陵の東に、小野寺という小野氏の氏寺の遺蹟が見つかっており、小野郷も小野氏の勢力地だったとみられている。
 遣隋使となった小野妹子ほか、遣唐使、渤海使などの外交官、官人・峰守、官人・学者・歌人の篁(たかむら)、貴族・能書家の道風、小町なども輩出した。
◆真言小野流
 真言密教の真言小野流は、広義には醍醐寺・聖宝より起きた流派であり、聖宝を始祖(元祖)、仁海は流祖とする。聖宝の後、観賢、仁海、成尊と続く。その後、範俊、義範で2流に分かれ、後に、さらに3流ずつに分かれた。流派により事相(じそう)といわれる行法(灌頂、護摩、観法など)の実践が異なる。口頭で教義などを伝授する口伝為本(くでんいほん)とした。
 真言小野流とは、狭義には根本6流、また、随心院流のみとされる。また、狭義の小野流として「小野三流」があり、「勧修寺三流」(随心院流、安祥寺流、勧修寺流)とされる。広義の小野流として「小野六流」があり、これに「醍醐三流」(三宝院流、理性院流、金剛王院流)が加わる。
 別流として、仁和寺を中心とした洛西の広沢流がある。小野流、広沢流の両流を合わせて「野沢(やたく)十二流」と呼ばれた。野沢もまたさらに36流、100流ほどに分かれた。
◆小町の史跡・伝承 境内には、絶世の美女といわれ、数々の伝承ある小野小町の史跡が残されている。小町はこの地に宅地があったという。この地での暮らしについて小町は、「ひぐらしのなく山里の夕ぐれは風よりほかにとふ人のなき」と詠んだ。ただ、実際には小野郷の地名に因み生まれた伝説とみられている。伝承は平安時代末の『玉造小町壮衰書』により広まったという。
 小町に寄せられた千束もの手紙が埋められているという本堂裏の五輪塔「小町文塚」は、恋文上達祈願の信仰もある。
 小町の屋敷跡にあり、小町が朝夕に洗顔化粧していたという「化粧の井戸(けわいのいど、小町姿見の井戸、小町井)」がある。
 小町に寄せられた多くの文を下張りにしたという張子の地蔵「小野小町文張(ふみはり)地蔵菩薩」も安置されている。像は罪障消滅、有縁菩提を弔うものという。小町の晩年の姿を映したという老いさらばえた「卒塔婆小町座像」は、左足を立てて坐り、膝に左手を添える。
 「深草少将百夜(ももよ)通いの道」は、化粧の井戸の西にある。小町を愛したという深草少将(モデルは第54代・仁明天皇とも)が、百日間通い続けた際には、結婚を許されるものと思い、通いつめた。だが、九十九目の雪の夜に亡くなったという伝承による。少将の屋敷(欣浄寺、伏見区)からは大岩山越えで5kmほどの行程になる。
 小町は少将の通った回数をカヤの実で数え、99個の実を糸でつないでいたという。現在でも、院の近辺に二本のカヤの木(小町カヤ)が残されている。百夜通いの日数を数えたという員塚(かぞえづか)がある。「化粧の井戸」の井水の流れは天田川に注ぐ。その川に架かる「化粧橋」などがある。かつて、樹齢1000年という「文塚の松」があった。1934年の室戸台風により倒木した。
 少将を失った小町は旅立ったという。旅の空の下で「人もなき旅にやならむ草枕旅なる君が夢にみえつる」と詠んだ。「須磨の浦の浦こぐ舟の楫よりも寄るべなき身ぞ悲しかりける」とも詠む。最後は陸奥の八十島で倒れた。やがて遺骸は髑髏と化し、美貌と謳われた目の穴よりは、1本の薄が伸びていたという。
◆仏像
 本堂に安置の本尊「如意輪観音坐像」(97.4㎝)は秘仏とされている。鎌倉時代作による。輪王坐の姿勢をとり、右膝を立て、両足の裏を十字に合わせて坐る。首を少し右に傾げ、右手第1手を頬にあてて思惟する。6臂で輪宝、蓮、宝珠を持つ。数珠はいまは失われている。木造、寄木造、彩色。
 鎌倉時代の快慶作の美仏、「金剛薩捶(さった)坐像」(重文)(110㎝)は、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を持つ。胎内銘により安阿弥様とされ、高い丈の宝髻をもつ。
 平安時代の定朝作の「阿弥陀如来坐像」(重文)。平安時代後期、知証大師作の「不動明王立像」。平安時代後期作の「薬師如来像」。
 江戸時代作の「弘法大師坐像」、江戸時代作の「仁海僧正坐像」。
 釈迦三尊像で室町時代作の「釈迦如来坐像」、平安時代後期作の「普賢菩薩像」、南北朝時代作の「文殊菩薩坐像」。
◆地蔵 能之間に「文張地蔵(ふみはりじぞう)」という小野小町ゆかりの地蔵尊が安置されている。多くの言い寄る男性から小町に送られた艶書を集めて張られたため、この名が付けられたという。右手に錫状、左手に宝珠を掲げた立像で、円形頭光の光背を背負う。像高1m。
 また、傍に晩年の小町の姿を映したという「卒塔婆小町坐像」が安置されている。100歳の姿といい、左膝を立てて右足で胡坐をかく。坐像は、鎌倉時代作という。また、平安時代後期の恵心僧都(源信、942-1017)作ともいう。
◆建築 「薬医門」は、江戸時代、寛永年間(1624-1631)に建立された。九条家ゆかり天真院尼の寄進による。
 「総門」は、江戸時代、1753年に二条家より移築された。
 「大玄関」は、江戸時代、寛永年間(1624-1631)建立、九条家ゆかりの天真院尼の寄進による。右に使者の間、左に小玄関が設けられていた。
 「本堂」は、安土・桃山時代、1599年に建立された。四柱造、寝殿造風、桟瓦葺。
 「書院」は、江戸時代、寛永年間(1624-1631)に九条家の天真尼(徳川秀忠の妻)の寄進という。玄関、表書院、能の間、奥書院からなる。近年、大改修されている。畳みを上げて老松の襖により鏡板となり、能舞台、また月見の宴にも使った。
 「能の間」は、江戸時代、宝暦年間(1751-1764)、九条家の寄進により建立された。1991年に改修が行われている。
 「庫裏」は、江戸時代、1753年に二条家より移築された。二条家の政所だった。
 「小町堂」は、かつて経蔵だった。2015年に永代の女性専用納骨堂に改修された。壁面には六歌仙が描かれ、納骨壇(289基)が設けられている。
◆文化財 平安時代-室町時代の「随身院文書」5巻(重文)が知られている。
 鎌倉時代初期の絹本著色「愛染曼荼羅図」2幅(重文)、平安時代の小野道風筆「古今集序」、室町時代の「三十六歌仙 小野小町歌仙切」など。
 江戸時代の狩野山雪筆「蘭亭曲水図屏風」八曲二双(重文)、江戸時代の鶴沢探索筆「四詩人図」(六曲一双)、江戸時代 狩野探信筆「舞楽図屏風」(六曲一隻)、江戸時代 岸駒筆「鶴亀図」双幅。
 室町時代の荘園絵図「紀伊国井上本庄絵図」(重文)。
 平安時代後期の仁海僧正御筆「不空索羂明」、仁海僧正所持の「独鈷杵」「三鈷杵」、門跡相承「念珠」「五鈷杵」。平安時代後期の仁海僧正作(福勝寺)「牛皮華鬘」、江戸時代後期の孝明天皇寄付の「扇面蒔絵料紙箱(二四孝図)」、安土・桃山時代の「片身替蒔絵手拭掛」。
◆障壁画 表書院に狩野派の「四愛図」「四季花鳥図」「舞楽図」。
 奥書院に江戸時代、狩野派の「舞楽図」「宮廷人物図」、江戸時代初期の狩野派「宮廷人物図」、狩野派の「賢聖障子絵」「竹虎図」。
 表玄関の杉戸絵「樹下双鶴図」「波に鶴図」。
 京都の絵描きユニット・だるま商店による「極彩色梅匂小町絵図」がある。基調は「はねず色(赤色)」であり、小野小町の生涯とともに逸話・神話世界、現在の随心院を多彩で描く。2009年制作。
◆はねず・はねず踊り 「はねず」は、庭梅、木蓮、庭桜の古名ともいう。石榴の花ともいう。はねず色とは、その花弁の色から、白味を帯びた紅色をいう。移ろいやすさを意味する。朱華、棠棣、唐棣とも書く。境内の梅花は「はねずの紅梅」といわれていた。
 はねず踊りは、大正期(1911-1926)末まで、里の子供たちの間で「百夜通いの童歌」に合わせた踊りがあった。里の家々を回りながら踊りを披露した。その後、廃れる。
 1973年以来、新たに創作した踊りが3月の頃に披露されている。作曲は大橋博、振付は森本博子による。菅笠に紅梅の造花を差し、薄紅色(はねず色)の小袖姿の8人の少女は、小町と少将に扮して舞う。また、白拍子による今様も披露される。
◆庭園 庭園には、心字池が造られ、一面を覆う大杉苔が知られている。古くは、「洛巽(らくそん、都の東南)の苔寺」と呼ばれていた。
 小松の群落は、「九品(くぼん)の松」といわれ、九体の阿弥陀仏を表している。浄土への往生を九の行法(ぎょうぼう)により分けた。上品上生(じょうぼんじょうしょう)・上品中生(ちゅうしょう)・上品下生(げしょう)は大乗の善、中品(ちゅうぼん)上生・中品中生は小乗の善、中品下生は世俗的な善、下品(げぼん)上生・下品中生・下品下生は罪悪の凡夫とする。
◆蓮弁祈願 蓮の花をかたどる紙に願い事を書いて、手を合わせ3度唱える。蓮弁は、小町化粧井戸より汲み上げた瓶の水に浮かべる。
◆樹木・花暦 境内の小野梅園には、150本の「はねずの梅」(2月末-4月上旬)といわれる遅咲きの紅梅が植えられている。
 桜・シャクナゲ・霧島ツツジ(4月)、平戸ツツジ・サツキ(5月)、杉苔・大杉苔・ノウゼンカズラ(6月)、紅葉(11月)。
 仁海僧正供養塔近くにカヤ、イチョウ、文塚近くにカゴノキ、コウヤマキ、シキミの大木がある。
◆修行体験 写仏室で写経、写仏ができる。写仏では、本尊・如意輪観世音菩薩、不動明王、小野小町を描く。毎日9:00-15:00、随意。
 毎月17日に写経・写仏奉納法会がある。
◆年間行事 清瀧権現社法要(1月1日)、修正会(1月1日-3日)、金光明経読誦会(1月13日)、常楽会(2月22日)、観梅祭(小野梅園開園)(3月1日-30日)、春季彼岸会(3月23日)、はねず踊り奉納舞・はねず踊り奉納法会(3月最終日曜日)、開山忌法要(5月16日)、小町忌法要(6月第二土曜)、お盆施餓鬼法要(8月16日)、放生会(9月16日)、秋季彼岸会(9月20日)、広樹展(小品盆栽京都支部広樹園主催)(10月18日-20日)、土砂加持法会(10月19日)、小町開白法会(11月9日)、小町祭(11月9日-12月1日)、隨心院ミス小町コンテスト(12月23日)、小町忌(12月1日)。
 写経・写仏奉納法会(毎月17日)、清瀧権現社月並法会(毎月1日・15日)。


*行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
一部室内の撮影禁止。行事は日時などの変更、中止の可能性があります。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『洛東探訪』『おんなの史跡を歩く』『新版 京のお地蔵さん』『続・京都史跡事典』『伏見の歴史と文化』『京都発見三 洛北の夢』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『京都の仏像 入門』『京都大事典』『京都隠れた史跡100選』『京都歩きの愉しみ』『京都ご利益徹底ガイド』『京都の寺社505を歩く 下』『京都 神社と寺院の森』『こころ美しく京のお寺で修行体験』、当院サイト


  関連・周辺勧修寺     周辺     関連欣浄寺     関連補陀洛寺(小町寺)      関連退耕庵〔東福寺〕          

中庭



奥書院

奥書院前の庭、飛石

本堂、本尊・如意輪観音坐像、右脇士に金剛薩埵坐像、薬師如来坐像、釈迦三尊像、左脇士に阿弥陀如来坐像、不動明王像、弘法大師坐像、仁海僧正坐像が安置されている。


本堂扁額「豁如(かつじょ)」、心落ち着けて仏菩薩と対峙する事の意という。

本堂



本堂


表書院、能の間、奥は大玄関



表書院(中央の建物)

能の間

能の間

能の間、文張り地蔵尊、小野小町白描画、卒塔婆小町坐像(小町百歳像)が安置されている。

能の間からの庭の眺め







奥書院、江戸時代初期に建造、狩野派による障壁画「舞楽図」「宮廷人物図」「賢聖障子絵」「竹虎図」

十三重塔

居間

小町堂

小町堂

能の間から見た庭園

心字池

庭園の大杉苔

九品(くぼん)の松

小野梅園、「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるなかめせしまに」小野小町。

カヤ、イチイ科カヤ属の常緑針葉樹。碁盤、将棋盤などにも使われる。種子は食用となる。葉や枝は燻して、「蚊遣り」にされ、カヤの語源となったともいう。小野小町は、少将が通った数を実で数えていたという。


塔頭・大乗院

大乗院

清滝権現

清滝権現
清滝権現
清滝権現

鎮守社

化粧の井戸「小野小町化粧井戸」の石標





化粧の井戸、小町姿見の井戸という。

井戸の周辺にある竹林、小野小町邸宅跡ともいう。

井戸の西にある「深草少将百夜通いの道」ともいう。


仁海僧正供養塔


小野庭苑の入り口「史跡 小野庭苑」の石標と鳥居がある。

小町塚という。

小町塚

小町の侍女の塚

文塚

五輪塔「天真院住二位本光圓成大姉」とある。

金堂跡に立つ宝篋印塔、慶長年間(1596-1614)に九条増孝門跡がこの地に金堂を建てた。1868年、旭雅和尚により、大乗院再興の際に移築したという。


境内東の景観

【参照】小野カヤ
 随心院 〒607-8257 京都市山科区小野御霊町  075-571-0025  9:00-16:30
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