補陀洛寺 (小町寺)  (京都市左京区静市市原) 
Fudaraku-ji Temple
補陀洛寺 (小町寺) 補陀洛寺 (小町寺) 
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本堂


本堂


阿弥陀三尊像、阿弥陀如来、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩




小野皇太后供養塔という宝篋印塔


小野小町供養塔


深草少将の墓という江戸時代の宝篋印塔。



仏舎利塔(文殊塔)






「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行」。


小野小町の「姿見の井(すがたみのい)」 との伝承がある。名水として知られていたという。現在は空井戸になっている。


小野楓








13本の幹が出る十三本檜



石仏群


小野小町歌碑「はなの色はうつりにけりないたつらに 我身よにふるなかめせしまに」


境内よりの眺望
 静市市原に、江戸時代に拓かれた「篠原の切り通し」といわれる断崖の篠坂峠がある。切り立つ崖の上に補陀洛寺(ふだらくじ/ほだらこうじ)はある。「普陀洛寺」「福多楽寺」とも記された。通称は「小町寺(こまちでら)」という。山号は如意山(にょいさん)という。
 天台宗延暦寺派尼寺、本尊は阿弥陀如来。
 京の通称寺霊場第34番、小町寺。文殊菩薩は知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の第5番。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 古く、一帯は葬送地であり、死者を葬る惣墓(そうばか)があったという。寺はこれらの無縁仏を管理していたともいう。広く市原、野中、二ノ瀬、鞍馬、貴船の村々の埋葬地であり、御所の飲料水である鴨川を死穢より避けるためだったという。(『山州名跡志』)。かつて、この地には、墳墓地の墓寺である常涛院(じょうとういん)があり、これを前身にしたともいう。 
 平安時代、945年/959年、清原深養父(きよはらの-ふかやぶ)が建立し、開山は天台僧・延昌(えんしょう)という。廃絶していた明燈寺(みょうとうじ)を再興した。本尊・千手観音の霊場として知られた。寺は、静原の里の北東、半里の山麓とも、通称の後山(うしろやま)の山中とも、江文峠と静原の間とも、また、江文峠の西の谷上だったともいう。クダラコージ山(常嘗山、とこなめさん)にあった山岳寺院ともいう。(『門葉記』『扶桑略記』)
 959年、4月、僧200人で供養が行われた。
 962年、延昌の請願により、第62代・村上天皇の御願寺になる。
 鎌倉時代、1186年、後白河法皇(第77代)が大原の建礼門院を訪ねる際に、補陀洛寺に立寄ったという。(「大原御幸」)。(『平家物語』)
 1189年、奥州・藤原基衡が奥州平泉・毛越寺(もうつうじ)の吉祥堂建立に際し、補陀落寺本尊・千手観音像を写したという。(『吾妻鏡』)
 その後、延焼する。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、廃寺になる。
 室町時代、応永年間(1394-1428)、栄範により、現在地(市原)に再興された。補陀洛寺は、小野寺に寺籍を移したともいう。
 現代、1988年、通称クダラコージ山(静原町北東)の南東山腹斜面で遺跡調査が行われた。平坦地8カ所などが見つかり、補陀落寺跡ともされる。
◆清原深養父 平安時代前期-中期の歌人・清原深養父(きよはら-の-ふかやぶ、 ?-?)。父は豊前介・清原房則、孫・清原元輔、曾孫・清少納言。908年、内匠少允、923年、内蔵大允などを歴任した。930年、従五位下に叙せられる。晩年、岩倉に補陀落寺を建立し、隠棲したという。
 勅撰歌人であり、『古今和歌集』に多く入集している。家集『深養父集』。藤原兼輔・紀貫之・凡河内躬恒などの歌人と親交あり、琴にも秀でたという。
◆小野小町 平安時代前期の歌人・小野小町(おのの-こまち、?-?)。詳細不明。小野氏の出という。出羽国の郡司良真(よしざね)・当澄(まさずみ)・常澄・篁(たかむら)・小野滝雄・藤原常嗣(つねつぐ)・洛北・市原の小野良実の娘、美材(よしき)・好古(よしふる)らの従妹、篁の孫娘などともいう。小町とは禁中局の名称とされ、本名は小野比右姫ともいう。采女(うねめ)とも、第54代・仁明天皇、第55代・文徳天皇の更衣(こうい)、氏女(うじめ)、中(ちゅうろう)女房ともいう。文徳・清和・陽成年間(850-884)、承和・貞観年間中頃 (834-868頃) に活動した。文屋康秀、凡河内躬恒、在原業平、安倍清行、小野貞樹、僧遍昭らとの歌の贈答がある。恋の歌に特徴あり、漢詩の表現に通じた。『古今集』以下の勅撰集に 60首余入集、『三十六人集』の一つ後人撰家集『小町集』がある。絶世の美女として歌舞伎、義太夫、謡曲など「小町物」の題材になった。六歌仙・三十六歌仙の一人。
 この地が終焉の地ともいう。
◆延昌 平安時代前期-中期の僧・延昌(えんしょう、880-964)。通称は平等房和尚、諡号は慈念。 加賀(石川県)に生まれた。比叡山で玄昭らに学ぶ。939年、法性寺座主、940年、内供奉十禅師、946年、天台座主、958年、僧正。第61代・朱雀天皇、第62代・村上天皇の帰依を得た。諡号は慈念。85歳。
 補陀洛寺開創について、延昌が修行中に一夜の宿にした、老夫婦の願いにより創建したという。(『今昔物語』巻15)
◆藤原歓子 平安時代後期の第70代・冷泉天皇皇后・藤原歓子(ふじわら-の-かんし/よしこ、1021-1102)。別称は小野の后、小野皇太后。藤原教通の三女。1047年、入内、1048年、女御、1049年、皇子を出産するが皇子はすぐに亡くなる。1051年頃より、兄・静円の僧坊がある洛北小野に籠居した。1068年、皇后に冊立、天皇には皇太后章子内親王・皇后歓子・中宮寛子と3人の正妃が並ぶことになる。同年、天皇が没する。1074年、皇太后、小野の山荘を改め常寿院を建立、1077年、出家した。1091年、白河上皇(第72代)は歓子の山荘を訪れたという。(「小野御幸」「雪見御幸」)。1095年、小野堂を供養した。小野山荘で亡くなり、宇治木幡の宇治陵に埋葬された。琵琶、絵画に秀でた。 82歳。
◆仏像 ◈当初の本尊の「千手観音」は、平安時代後期、1189年、奥州平泉に藤原基衡により建立された毛越寺、吉祥堂の本尊に写されたという。
 ◈現在の本尊、「阿弥陀三尊像」は鎌倉時代作になる。
 ◈「阿弥陀如来」は、小野皇太后の念持仏だったという。
 ◈「観世音菩薩」「勢至菩薩」が安置されている。
 ◈ほかに「千体地蔵尊」「楊柳観世音菩薩」を安置する。
 ◈文殊塔(仏舎利塔、10m)の内部には、釈迦三尊の掛軸が安置されている。江戸時代作で、脇士は文殊菩薩、普賢菩薩になる。
◆小町老婆像 本堂内に「小野小町老婆像(老衰像、奪衣婆[だつえば]像)」が安置されている。
 晩年にこの地に辿り着いた小野小町の像という。80歳の姿であり、痩せ衰えている。右手に杖を持ち、岩座に左足を踏み下げる。鎌倉時代作とされる。
◆建築 本堂、庫裡、楊梄観音堂がある。
 ◈「本堂」は、鞍馬寺の護摩堂を移したという。1999年に再建された。
◆延昌の伝承 補陀洛寺を創建したという比叡山西塔の僧・延昌についての伝説がある。
 延昌は、北山で修行中に大原山の北西で道に迷った。日が暮れ、やむなく小さな家に泊めてもらう。家には年老いた法師と妻が暮らしていた。夫妻は夕食に肉を食していた。深夜、法師は起きて、裏の庵に入り弥陀念仏を唱えた。夜が明けて、法師は身の上を語る。食するものが無く、牛馬を屠(ほふ)る餌取(えとり)の残した肉をもらい受けて食しているという。自らが死ねば延昌に告げるので、この地に寺を建てて欲しいと願った。 
 延昌は比叡山に戻った。後に夢告がある。西の方から音楽が聞こえ戸を叩く音がする。あの時の法師が現れ、極楽からの迎えが来たので告げにきたという。延昌は弟子とともに北山の家に向かうと、悲しんでいる妻がいた。夫・法師は夜半に念仏を唱えながら亡くなったという。
 延昌は、村上天皇にこのことを告げ、法師との約束守り補陀洛寺を開いたという。寺号は、南方海上にある補陀落山に因んだ。観音が住む山とされた。(『今昔物語』巻15)
◆小町の伝承・物語 寺には小町についての伝承が残る。
 小町の父・出羽守小野良貞の邸宅がかつてこの地にあった。父没後、宮仕えを退いた小町のもとに、恋心を抱いた深草少将が百夜通を始める。小町もその来訪を毎夜数えて心待ちにした。だが、成就する前日に、少将と父は、父の旧罪(御所への放火の咎)により、伊豆へ配流されその地で亡くなる。小町は少将への操をたて、菩提を弔いこの地で果てた。
 西行がこの地を訪れた時、小町の髑髏(どくろ)からは芒(すすき)が生え、亡霊は「秋風の吹くにつけてもあなめあなめの小野とはいはじ芒生ひたり」と詠んだ。
 深草少将は、室町時代の能作者・世阿弥らにより創作された。「小町物」の謡曲「通小町(かよいこまち)」では、八瀬の里で夏安居(けあんご)する僧のもとへ女が毎日通う。女は、木の実、爪木(つまぎ)を届けていた。僧が女に名を聞くと、洛北市原野に住む小野小町とほのめかす。僧は女が小町の霊であると見抜き、市原野に出向いた。果たして小町の霊が現れ、僧が霊を祓いたいと申し出ると、小町の霊はそれを願う。だが、生前の小町を愛した深草少将の霊も現れ、これを妨げようとする。僧は両人に懺悔を勧めた。二人は百夜通いの物語りを再現し始める。最後は、仏道成りにけりと唱え、僧の弔いによりともに成仏する。
 謡曲「関寺小町」では、老いた小町が大津の関寺にあり、ある男の妻になる。
 「卒都婆小町(そとばこまち)」は能楽作品の一つになる。金剛流では「卒塔婆小町」と書く。「そとわこまち」(観世流)、「そとわごまち」(喜多流)とも読む。
 高野山の僧は、京都に上る途中で、乞食なりの老女に出遭う。女は倒れ朽ちかけた卒塔婆に腰を掛けて休んでいた。卒塔婆とは仏体そのものであることから、僧は老女を立ち退かせようと諭した。老女は逆に法論により僧を言い伏せた。僧は恐れいり、地に頭をつけ三度礼拝した。僧が名を尋ねると百歳近くになった小町という。小町には深草の少将の霊が憑依しており、百夜通いのことなどを語る。小町は狂乱し、やがて本心に戻る。小町は、「悟りの道へと入らうよ」と僧に語り合掌する。
 寺伝によれば、恵心僧都(源信、942-1017)は、野晒しになった小町の亡骸を哀れみ、この地に葬ったという。小町は「吾死なば焼くな埋むな野にさらせ痩せたる犬の腹肥やせ」と詠んだとされる。堂内に小町老衰像、境内に小野小町塔、小町の亡骸から生えたという「穴芽の薄(あなめのすすき)」、小野楓、小野小町姿見の井戸、深草少将塔などが残されている。
 京都にある小町の墓としては、ほかに、随心院(山科区)、欣浄寺(伏見区)がある。
◆小野氏・常寿院 かつて市原野は、小野氏の領地だった。寺には、平安時代の第70代・後冷泉天皇皇后・小野皇太后(藤原歓子、1021-1102)の供養塔が立つ。皇太后の宮(山荘)(岩倉長谷町)から移されたとみられる。(『平家物語』) 
 1068年に天皇が亡くなり、皇太后は1077年に出家落飾し、山荘を天台宗の常寿院とした。勅願寺になる。皇太后の没後に衰微し、南北朝時代には廃絶した。常寿院は、墳墓地の墓寺だったという。
◆石造物 ◈「宝篋印塔」は、小野皇太后供養塔という。鎌倉時代後期作という。基礎に、基壇、単弁反花座、四方塔身に金剛界梵字、笠石の隅飾突起は三弧別石式、相輪は補われている。花崗岩製、2.4m。
 
◈「小野小町供養塔」は、鎌倉時代後期作になる。五重層塔、基礎三方格狭間に開蓮弁、四方形の初層塔身に四方仏の薬師、釈迦、弥陀、弥勒を彫り、最上部の笠石は別石、最上部の相輪は後に補われた。花崗岩製、3m。
 ◈1960年頃よりの発掘調査では、境内裏地より鎌倉時代の地蔵尊など800体が出土した。これらは、この地がかつて共同墓所だったことを意味するという。諸仏は、1984年に観音堂で法要された。
 ◈「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行」の石碑が立つ。言葉は次のように続く、「是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」。
 平安時代の良忍(1072-1132)が、大原で念仏行の最中に、顕れた阿弥陀仏により授けられた言葉という。一人は単独で存在せず、全ての人が関係しあう。一人の念仏は単独ではなく、全ての人の念仏に通じ、全ての人の念仏は一人の念仏に通じる。
◆文学 ◈当寺は『平家物語』にも登場する。後白河法皇(第77代、1127-1192)が秘かに訪問したとされる。平氏滅亡後、大原に出家・隠棲した建礼門院(1155-1214、平徳子)を訪ねた「大原御幸」の前だった。
 ◈「百日紅やや散りがての小町寺」、与謝蕪村。
◆姿見の井 小野小町の「姿見の井(すがたみのい)」がある。名水として知られていたという。現在は空井戸になっている。
◆篠坂 門前に峠があり、洛中から鞍馬・貴船に向かう鞍馬街道が通じている。「篠坂(しのさか)峠」、「志野坂」ともいう。江戸時代に断崖を切り崩しており、「篠原の切り通し」ともいわれている。
 峠には、平安時代の空也(903-972)自筆の法華経を納めた経塚もあったという。
 室町時代、公家・歌人・三条西実隆(1455-1537)は、応仁・文明の乱(1467-1477)を避け、母とともに鞍馬に逃れた。1472年、母没後、「一原野(いちはらの)志野坂」に葬り、命日には墓参していた。(『実隆公記』)
◆墓 当寺には、周辺5か村の共同墓地である惣墓の総供養塔があり、鎌倉時代のものになる。惣墓は室町時代以降のものが多いという。
 かつて、鴨川が御所用水として用いられたため、鞍馬川流域(高野川水系)の静市、鞍馬などの人々は、死者を埋葬することを忌み、分水嶺の南側に埋葬した。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都発見三 洛北の夢』、『京都の地名検証 2』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都隠れた史跡100選』、『洛東探訪』、『史跡探訪 京の七口』、『古都歩きの愉しみ』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京の福神めぐり』 、「京都新聞2011年8月27日-京の山寺・山城跡を行く 補陀洛寺跡」、ウェブサイト「コトバンク」

 
   恵光寺  鞍馬寺  貴船神社  厳島神社  随心院    
補陀洛寺(小町寺) 〒601-1123 京都市左京区静市市原町1140  075-741-3662
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