双林寺 (京都市東山区)
Sorin-ji Temple
双林寺 双林寺
  Home   Home

「大聖歓喜尊天雙林寺」の石標


「真葛ヶ原 楠弁財尊天」の石標


本堂(薬師堂)


「薬師如来 大聖歓喜天」の扁額


本堂









春日燈籠、六尺



草屋



十三重石塔



伝教大師童形像



地蔵堂、持病平癒地蔵尊として信仰を集める。



地蔵堂「持病平癒地蔵尊」の扁額



地蔵堂、地蔵菩薩



左より、頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔



法華塚



法華塚



西行庵
 双林寺(そうりんじ、雙林寺)は、円山公園の南に建つ。現在は本堂と飛地境内に西行庵を残している。 
 正式には霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院という。沙羅双樹林寺とは、この地が唐の沙羅双樹林寺に似ていたことに因むという。山号は金玉山という。
 天台宗、本尊は薬師如来、歓喜天を安置する。
 東山薬師は京都十二薬師霊場会第7番札所。
◆歴史年表 平安時代、805年、最澄が唐より持ち帰った天台密教疏500巻・仏具を第50代・桓武天皇に献上した。天皇は、左大史・尾張連定鑑(おわりむらじさだみ)に勅して、この地に伽藍を創建させた。寺には経典などを置き、日本初の護摩祈祷道場とした。霊鷲山沙羅双樹林寺と称し、当初は天台宗だった。
 823年、比叡山延暦寺の建立後はその別院になる。
 1141年、永治年間(1141-1142)とも、第74代・鳥羽天皇は、当寺を深く信仰し、宸筆法華経を奉納した。皇女・綾雲(あや)女王が住持になる。同年、双林寺宮と呼ばれた。1141年、西行は双林寺、長楽寺などに草庵を結んだ。
 鎌倉時代まで、数万坪ともいわれる広大な寺領に、17の塔頭があった。
 1196年、第83代・土御門天皇皇子・静仁法親王が当寺で得度し、双林寺宮と称したという。
 南北朝時代、1335年、足利尊氏と新田義貞の戦(延元の乱、建武兵乱)により荒廃した。
 1384年、至徳年間(1384-1387)とも、住持の勝行は、時宗の国阿に寺を譲り再興される。以後、時宗国阿派(双林寺派国阿派)の本山東山道場になり、中霊山ともいわれた。
 1386年、北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇の帰依により、「金玉山」の宸額を贈られた。
 室町時代、1436年、焼失している。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失し、その後、荒廃した。
 安土・桃山時代、1584年、羽柴(豊臣)秀吉が花見の宴を催し、後の豊臣政権五奉行の一人・前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てた。
 1585年、秀吉は、朱印地を寄進する。朱印地については、後の徳川氏も安堵(公認)している。秀吉により本堂が再建された。
 1589年、秀吉は、朱印地を寄進した。
 江戸時代、1605年、高台寺の建立に伴い、寺領が縮小された。
 1653年、東大谷廟の造営に伴い、寺領、寺域が縮小されている。
 1678年、円山の双林寺、長楽寺などは、「遊人の旅飯出して業とす寺家」になる。(『出来齋京土産目録』同年条)
 1784年、池大雅の門人、僧・月峯、凪夜らは、師の没後、遺墨品を整理し、双林寺に大雅堂を建立した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈が起こる。時宗より天台宗に復した。
 1886年、円山公園の設置により、寺地の多くを失う。
 1870年、上知により境内はさらに縮小し、塔頭も廃した。この年、再び天台宗に改宗したともいう。
 1927年、円山音楽堂の建設により境内地が縮小した。
 現代、2012年、平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活する。
◆最澄  平安時代前期の僧・最澄(さいちょう、767/766-822)。幼名は広野。近江(坂本の生源寺付近)に生まれた。父は中国からの渡来系豪族の子孫で三津首百枝(おびとももえ、浄足)、母は藤原藤子(妙徳)という。778年、12歳の時、出家、近江・国分寺で行表(ぎょうほう)に師事、780年、国分寺で得度し最澄と名乗る。785年、19歳で東大寺で受戒(具足戒・小乗戒)するが、同年、比叡山大嶺山中(本願堂付近)に草庵を結び、願文を作る。禅を修め、12年間にわたり修行を積んだ。天台三大部摩訶止観、法華玄義、法華文句を修めた。788年、草庵の近くに小堂「一乗止観院」を建て、薬師如来を祀る。797年、内供奉十禅師に任命される。798年、比叡山で法華十講を修する。801年、比叡山に奈良十大徳を招き法華十講を修した。802年、和気弘世主催により、神護寺で5カ月にわたる天台の教え「天台三部」を説いた。第50代・桓武天皇の信任、帰依を受ける。803年、短期の還学生(げんがくしょう)として、唐に渡航することが認められた。804年、遣唐使として義真を伴い、留学僧・空海(774-835)らと唐に渡る。霊地・天台山で、天台大師智顗(ちぎ)直系の天台山修禅寺・道邃(どうずい、?-805)より、天台教学と大乗菩薩戒、仏隴(ぶつろう)寺・行満座主より天台教学を、越州(紹興)の龍興寺で、順暁阿闍梨より密教を、翛然(しゃくねん)禅師より牛頭禅を学び、天台、密教、禅、戒を修した。805年、帰国し、多数の天台典籍、密教の教えを唐より持ち帰る。高雄山寺で日本初の灌頂を行う。宮中で日本初の護摩供を行う。請来された天台密教経疏500巻、護摩の器具を第50代・桓武天皇に献上した。天皇は、双林寺を建立し、最澄は開山になる。806年、日本天台宗が公認される。811年、弟子・泰範が空海の弟子となる。最澄は空海から経本を借り密教を学ぶ。812年、空海により灌頂を授けられた。その後、空海とは決別する。814年、九州巡化、815年、東国巡化、817年、徳一との論争が始まる。818年、小乗戒廃棄宣言、六条・八条天台宗年分学生式を制定、819年、四条の学生式上奏、822年、中道院で亡くなる。天台宗の祖。
 没後7日後に、大乗戒壇設立の許勅が下りた。以後、奈良の南都仏教から独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようになった。866年、日本最初の大師号、伝教大師の諡号が贈られた。通称は叡山大師、根本大師。
◆双林寺宮 平安時代の第74代・鳥羽天皇の皇女・双林寺宮(?-?)。詳細不明。綾雲(あや)女王。綾雲尼、双林寺宮阿夜御前、あや御前。賀陽宮とも。母は紀氏で、石清水別当光清の娘美濃局、高陽院泰子の養女ともいう。1141年、双林寺で得度した。
◆静仁法親王 鎌倉時代の第83代・土御門天皇の皇子・静仁法親王( じょうにん ほうしんのう、1216-1296)。土御門天皇の第4皇子、母は源通子(つうし)。1230年、出家した。1244年、親王になる。第89代・後深草天皇の護持僧、園城寺長吏、熊野三山検校。
◆国阿 鎌倉時代-室町時代の時宗の僧・国阿(こくあ、1314-1405)。播磨・円教寺で当初は天台を修めた。後、託何(たくが)の弟子になり、時宗に転じた。 1383年、京都の正法(しょうぼう)寺、双林寺で布教を行う。霊山派、国阿派の祖。
 時宗国阿派はその後、正法寺の霊山正法寺派(霊山派)と双林寺の双林寺派(国阿派)に分かれた。
◆平康頼 平安時代末-鎌倉時代前期の武士で歌人・平康頼(たいら の やすより、?-?)。衛門府官人、検非違使、後白河院近習になる。1177年、平家打倒を企てた鹿ケ谷事件により、俊寛らとともに鬼界ケ島(硫黄島)に流される。その途中で出家し、性和と号した。1179年、帰洛、1186年、源頼朝により阿波国麻殖保の保司に任じられた。
 『平家物語』では、康頼は鬼界ケ島より戻り、東山・双林寺辺りの山荘に住んだ。説話集『宝物集』を著し、この地(双林寺の東、東大谷廟付近とも)で亡くなる。
◆西行 平安時代末期の真言宗の僧・西行(さいぎょう、1118-1190)。佐藤義清(のりきよ)。紀州生まれともいう。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使の職にあった。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられる。1137年、鳥羽院の下北面の武士になる。1140年、妻子を捨て出家し、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1141年、東山の双林寺、長楽寺などに草庵を結んだ。1144年頃(1147年とも)、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1168年、中四国、高野山、1177年、伊勢国二見浦、1186年、東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため、2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵を結ぶ。当寺で亡くなる。墓は河内国・弘川寺にある。
 平清盛と親交したという。歌人・寂然(藤原為業)、歌人・藤原俊成と親しく、和歌に秀で『新古今和歌集』に94首入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残す。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
 当寺に住したという庵は、双林寺の堂傍西方にあったとされる。蔡華園院(さいかおんいん)に止宿したという。詞書「野辺寒草といふことを双林寺にてよみける」「さまざまに花咲きけりと見し野辺の同じ色にも霜枯れにけり」と詠っている。(『山家集』上、冬歌)。現在は、本堂南西の飛地境内に西行庵が建てられている。
◆頓阿 南北朝時代の歌人・頓阿(とんあ/とんな、1289-1372)。比叡山で出家した。高野山で修行し、後に時衆になる。二条為世門の和歌四天王に数えられた。足利尊氏・直義の信任も厚かったという。金蓮寺、仁和寺辺、三室戸寺、伊賀国三田村に住した。歌論書『愚問賢注』(1363)などを著した。
 西行を慕い双林寺に止住した。西行の忌日には回向し、歌会を開いて遺徳を偲んだ。
◆仏像
 ◈本尊の「薬師如来坐像」(85.5㎝)(重文)は、平安時代前期(10世紀半)の作という。最澄(766/767- 822)自作ともいう。天台七仏薬師の一つに数えられる。短頸、右手は与願印を結び、左手に薬壺を持つ。右足上の結跏趺坐、全体として大ぶりの作風になっている。翻波式衣文が際立つ。木造、一木造、内刳なし、漆箔、彩色。
 脇壇に平安時代の「武装大国天像」、鎌倉時代の「聖徳太子養像」を安置する。
 ◈「歓喜天」は、1967年に生駒山宝山寺より勧請された。
  ◈地蔵堂の「地蔵尊」は、1872年、追善のために法華塚修繕の際に、土中より見つかった。通りかかった人が、長年の持病平癒を祈願したところ全快したとして、以後、持病平癒地蔵尊として信仰を集める。
 
◈「伝教大師童形像」は、1953年来、少年補導所前庭にあった。2010年に移された。伝教大師遺訓に、生来、子を打ったこともなく、抓(つね)ったこともなかったという大師に倣ったためという。
◆塔頭 鎌倉時代までは、数万坪ともいわれる広大な寺領に、17の塔頭があった。
 近代以前は、塔頭として妙喜寺(景雲庵後継)、長喜庵、勝林院、蔡華園院、円頓院、発心院、蓮華院、通玄庵、松泉庵などが点在していたという。現在は一つも残っていない。
◆墓 ◈「法華塚」が本堂前にある。平安時代、1141年、永治年間(1141-1142)とも、第74代・鳥羽天皇皇女・綾雲(あや)女王が、天皇の没後、その菩提を弔うため宸筆(天皇直筆)の金字8巻を納める法華塔を建立したという。
 室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)により、塔は法華経とともに焼失した。その後、その灰を集めて一塊の塚としたという。現在は五輪の塔が立てられている。
 ◈左「頓阿法師供養塔」、中央「西行法師供養塔」、右「平康頼供養塔」の供養塔3基が東面してある。三者はこの地に庵住したともいう。
 当初は、頓阿、西行の塔があり、後の江戸時代に康頼の塔が立てられた。塔は、後世にいずれも好事家により立てられたという。
 ◈江戸時代の画家・渡辺南岳(1767-1813)、俳人・和田蕉嵐(?-1792)の墓がある。書家・亀田窮楽(1690-1758)、画家・池田東籬の墓があるという。
◆真葛ヶ原 
「真葛ヶ原 楠弁財尊天」の石碑が立つ。この付近一帯の原野をかつては真葛ヶ原といった。
 現在の円山公園を挟んで、北は知恩院三門前、南は双林寺、東山山麓一帯を指した。かつて、真葛や薄、茅などが生い茂り、萩の名所だったという。中世以降、双林寺境内は桜の名所として知られるようになる。
◆西行庵 西行庵は境内の南西にある。安土・桃山時代、天正期(1573-1593)、双林寺の塔頭・蔡華園院の跡地に建てられたという。その場所は不明という。
 江戸時代、1731年に摂津池田・李孟寺の天津禅師により現在地に移され再興された。1770年に公家・歌人の冷泉為村(1712-1774)により修復された。堂中央に、為村筆「花月庵」の額が掲げられている。近代、1892年に宮田小文法師により浄妙庵、皆妙庵が移築された。
◆月行事 聖天日・十一面観音護摩祈祷(毎月1日)、薬師日・薬師護摩祈祷(毎月8日)、地蔵日(毎月24日)、十一面観音護摩祈祷(毎月第3日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京の石造美術めぐり』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京の花街ものがたり』『京都の仏像』『日本の名僧』『京都古社寺辞典』 、サイト「コトバンク」

 

 関連・周辺安養寺(東山区)    関連・周辺円山公園     関連・周辺大雅堂旧跡     関連・周辺高台寺    関連・周辺大谷祖廟     関連・周辺西行庵    周辺大雲院     関連       
 双林寺 〒605-0072 京都市東山区下河原鷲尾町527   075-561-5553
  Home     Home  
    © 2006- Kyotofukoh,京都風光