西行庵 (京都市東山区)
The Hermitage of Saigyo-an
西行庵 西行庵
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母屋「浄妙庵(西行庵)」


母屋「浄妙庵(西行庵)」






「西行法師蔡華園院之跡」の石標




母屋「浄妙庵」



母屋「浄妙庵」





花月庵(西行堂)



花月庵(西行堂)



茶室「皆如庵」、枝折戸



茶室「皆如庵」の木額
 円山公園の南に茅葺の西行庵(さいぎょうあん)が建つ。この地は、双林寺の飛地境内になる。
 平安時代の歌僧・西行は、双林寺塔頭・蔡華園院(さいけおういん/さいかおういん、西行草庵)に止宿し、終焉を迎えたともいう。 
◆歴史年表 平安時代後期、西行(1118-1190)は、この地の双林寺塔頭・蔡華園院(西行草庵)に止宿したという。その後、荒廃した。
 鎌倉時代、頓阿法師(1289-1372)は、西行を忍び、この地に庵を結んだともいう。
 江戸時代、芭蕉(1644-1694)が、西行を慕い、しばしば滞在したともいう。
 1731年、摂津池田・李孟寺の天津禅師が花月庵を移した。
 1770年、3月、冷泉為村が花月庵を修繕する。
 近代、1893年、第4回内国勧業博覧会の京都市開催を前に、再建人・宮田小文らにより浄財が募られ、西行庵は再興された。その後、小文は住持、堂守になる。
 1929年、宮田小文が没し、土地、建物は財団法人京都史蹟会が引き継いだ。その後、女性の門人・牧野宗翠が庵主になり住む。その没後、縁故者に引き継がれる。
◆西行 平安時代後期の真言宗の僧・西行(さいぎょう、1118-1190)。佐藤義清(のりきよ、憲清、則清、範清)、別号は大宝房、大本房、大法房、法名は円位。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使・左衛門尉佐藤康清。母は監物(けんもつ)源清経の娘。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられる。1137年、鳥羽院(第74代)の下北面(げほくめん)の武士になる。1140年、妻子を捨てて出家し、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1141年、東山の双林寺、長楽寺などに草庵を結んだ。1144年頃/1147年、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1156年、鳥羽法皇の葬送に参り、保元の乱に敗れ仁和寺に籠った崇徳上皇に参じた。1168年/1167年/仁安年間(1166-1169)、讃岐の崇徳院の墓陵参拝、弘法大師の遺跡巡礼を目的とし、中四国を巡る。1172年、平清盛主催の千僧供養に参加した。その後、高野山で聖生活に入り上人になる。1177年、高野山の蓮華乗院の移築に関わる。治承年間(1177-1181)、伊勢国二見浦に移る。神祇信仰を深め、内宮祠官荒木田氏と交わった。1186年、俊乗房重源に委嘱され、東大寺再建のため平泉での砂金勧進を奥州藤原氏に行う。この2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国・弘川寺(大阪府河南町)に庵を結ぶ。弘川寺で亡くなる。73歳。墓は弘川寺にある。
 和歌に秀でた。平清盛、平忠盛、平時忠、待賢門院、崇徳院、徳大寺実能らと交わる。大原三寂(寂念、寂然[藤原為業])、寂超)、藤原俊成、待賢門院堀河、上西門院兵衛と親しくした。家集に『山家集』、勅撰集の『千載集』、『新古今和歌集』には94首が入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残した。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
 1141年より、西行は国阿を慕い、西山よりこの地(庵の向かいとも)にあった双林寺の塔頭・蔡華園院に止宿したという。
◆頓阿 鎌倉時代後期-南北朝時代の歌人・僧・頓阿(とんあ/とんな、1289-1372)。俗名は貞宗、法号は泰尋、感空。下野守・二階堂光貞の子。24歳頃、比叡山で出家した。のち諸国を行脚する。高野山で修行し、時宗の京都・四条道場金蓮寺の真観(初代・浄阿)の門下になる。仁和寺辺、三室戸寺、伊賀国三田村に住した。晩年は洛西の蔡花園(さいけえん)に住んだ。
 和歌を二条為世に学び、派を再興する。為世の没後、その孫の為定・為明に仕え、『新拾遺集』の撰集を継いで完成させる。為世門の和歌四天王(ほかに吉田兼好、浄弁、慶雲)の一人に数えられる。「内裏千首歌」(1335)、「高野山金剛三昧院奉納和歌」(1344)、「新玉津島歌合」(1367)など多くの歌会・歌合に参加した。足利尊氏・直義の信任も厚かった。著は家集『草庵集』、歌論書『愚問賢注』、「続千載和歌集」以下の勅撰集に入集。84歳。
 西行を詠じた歌、「跡しめて 見ぬ世の春を しのぶかな そのきさらぎの 花の下陰」。
◆冷泉為村 江戸時代中期の公卿・歌人・冷泉為村(れいぜい-ためむら、1712-1774)。上冷泉家。前権大納言・冷泉為久の子。1738年、従三位。1721年、霊元上皇(第112代)より古今伝授を受けた。玉津島法楽月次御会で登壇する。1729年、宮廷歌会に出詠した。1744年、参議。1759年、正二位権大納言・民部卿を兼ねる。1770年、落飾し、澄覚と号した。著『樵夫問答』、歌集『冷泉為村卿家集』など。63歳。
 為久、烏丸光栄、中院通躬らに学んだ。冷泉家中興の祖であり、関東の武家歌人を多く門弟にした。門人に小沢蘆庵、石野広道、屋代弘賢、慈延、涌蓮など数多い。京都での和歌遺跡の保存を行った。
◆各務支考 江戸時代前期-中期の俳人・各務支考(かがみ-しこう、1665-1731) 。本姓は村瀬、号は東華坊、西華坊、獅子庵、野盤子(盤子)、諡号は梅花仏など。美濃の生まれ。幼時に仏門(禅宗)に入る。後に還俗した。1690年、近江で松尾芭蕉に入門した。1692年、奥羽に行脚する。晩年の芭蕉に随侍し、大坂で臨終の師を看病した。1694年、師没後、美濃を本拠に地方行脚し、美濃派と呼ばれ一大勢力になる。蕉門十哲の一人。著『笈日記』『葛(くず)の松原』など。67歳。
 西行庵(東山区)に「かな書の碑(芭蕉翁碑、仮名塚)」がある。
◆仙石廬元坊 江戸時代前期-中期の俳人・仙石廬元坊(せんごく-ろげんぼう、1688/1691-1747) 。本名は佐野八三郎、通称は仙石与兵衛、号は里紅、黄鸝園、茶話窟、獅子庵、茶話仙、各務支考門人など。美濃生まれ。各務支考(かがみ-しこう)の門人になる。美濃派の基礎を築く。支考に勧められ北陸、西国を旅し、それぞれ『桃の首途(かどで)』『藤の首途』を著した。支考の追善集『文星観』を編した。57/60歳。
 西行庵(東山区)に供養塔がある。
◆宮田小文 江戸時代後期-近代の文人・宮田小文(みやた-こぶん、1852-1929)。山岸安治郎。福井鯖江の横越生まれ、幼くして宮田家の養子。11歳で京都の紅花問屋「小杉屋」に奉公に出る。1872年、呉服小売商として独立した。1893年、西行庵再興責任者になる。画家・儒学者・富岡鉄斎が勧進文を書き、小文が浄財を募り再建された。小文は僧籍を得て住持になり、生涯堂守になる。1924年、中井三郎兵衛主催の聚老会に参加した。
 自由民権を唱え、京都新聞社友、新聞無料閲覧所を開設した。道路の側溝蓋設置を府知事に建白したという。遠州流茶道を学ぶ。「京都三奇人」の一人とされる。77歳。
 妻子なく、墓は横越町の共同墓地にある。
◆西行庵再興 近代、1893年、第4回内国勧業博覧会の京都市開催を前に、廃仏毀釈後に荒廃していた庵の再興が計画された。京都市役所が再建人を公募し、宮田小文が選ばれ、再興責任者に就く。画家・儒学者・富岡鉄斎は趣意書「東山西行庵再建文」(原文は小文)を書いた。
 京都市長・内貴甚三郎、有識者らが尽力し、小文が浄財を募り西行庵は再興された。その後、小文は住持、堂守になる。
◆建築 母屋「浄妙庵(じょうみょうあん)」、「花月庵(西行堂)」、茶室「皆如庵(かいにょあん)」が建つ。いずれも西行当時の建物ではない。
  ◈ 「母屋」は、道に沿って建てられている。大徳寺塔頭・真珠庵の別院「浄妙庵」を移した。「西行庵」とも呼ばれる。草庵であり、東の茶室「皆如庵」とは廊下で繋がる。南西に瓦敷の席、その東に二畳台目の席、さらに奥に四畳半茶室、水屋、二畳、六畳などがある。寄棟造、茅葺、四注屋根に瓦葺下屋。
  ◈ 現在、「花月庵(西行堂)」の建てられている地には、かつて双林寺の塔頭・蔡華園院があった。江戸時代、1731年、摂津池田・李孟寺の天津禅師が現在地に花月庵を移した。洛西双ヶ丘麓の頓阿の蔡華園院を移して再興したという。1770年、公家・歌人・冷泉為村(1712-1774)が修繕を施した。
 板敷、方10尺(3m)、三方に縁、蔀戸。
 堂内の中央厨子内に西行法師僧像、右に僧・歌人・頓阿法師僧像、左に小文法師の木像が安置されている。厨子扉に冷泉為村歌「二もとの言葉のかげに名に高し正しき風を代々に残して」「花は根にかへりし後の影古りて見ぬ世を偲ぶ三月(やよい)二月(きさらぎ)」が記されている。中央に冷泉為村筆「花月庵」の横額が掲げられている。
  ◈ 茶室「皆如庵(かいにょあん)」は、安土・桃山時代の名席とされ、1894年に北野の久我(こが)別邸(衣笠村)より移され、再興された。武将・宇喜多(浮田)秀家(572-1655)の息女が、大納言への輿入れの際に、引き出物として持参した茶室という。その後、儒学者・春日潜庵(1811-1878)の休息処になる。また、潜庵は、久我家を動かし反幕により茶室に蟄居される。茶室を「吟月弄月庵」と名付けた。大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛らが集ったという。
 現存する草庵風茶室としては最古級という。道安囲いの席(手前座1畳分を壁で仕切り、火灯口を開ける)、四畳半切向切。中央に躙口、左に板縁、貴人口(障子2枚立)、長四畳、道安囲いの点前座と客座(三畳)との間に一枚引きの襖で仕切る。「夜噺(よばなし)の席」とも呼ばれた。円窓(引分障子、中央縦に小幅板)の床は、夜の茶席で隣室の灯火が客座を照らし出す趣向になっていた。床の間の右に、引違の給仕口がある。切妻屋根、檜皮葺の庇。
◆文学 平安時代、1141年より、西行は双林寺の塔頭・蔡華園院に止宿したという。その時に詠まれたといわれる歌が残されている。 
 詞書「野辺寒草といふことを雙林寺にてよみにける」「さまざまに花咲きけりと見し野辺の同じ色にも霜枯れにけり」(『山家集上 冬歌』)
 「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」(『山家集上 春歌』)  
◆碑・供養塔 堂前に「かな書の碑(芭蕉翁碑、仮名塚)」がある。西面し、序銘が刻まれている。俳諧師、蕉門十哲の一人・各務支考(かがみ-しこう)が、1710年の芭蕉一七回忌に立てた。1711年、墨直している。高さ1.2m、幅45㎝。
 傍らに梅花仏(支考)、俳人・蘆元(仙石盧元坊、1688-1747)の供養塔が立つ。
◆桜 庵の裏に、西行桜が植えられている。「花見むと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」(西行)。
◆年間行事 西行忌茶会(皆如庵で供養の釜がかけられる)(3月中旬)、小文忌(10月13日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 案内板、『京の茶室 東山編』、『京都隠れた史跡100選』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『京都大事典』、ウェブサイト「新島八重と宮田小文 - 鯖江市」、ウェブサイト「コトバンク」

 
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西行庵 〒605-0072 京都市東山区鷲尾町525-1 円山公園音楽堂南  
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