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安養寺・大日山 (京都市左京区) Anyo-ji Temple |
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安養寺・大日山 | 安養寺・大日山 |
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![]() ![]() 寺号石標 ![]() 寺号石標、「住職 村上辨識」 ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 木鼻 ![]() 安養寺本堂の「青龍山」の扁額 ![]() 不動明王 ![]() 「不動明王」の扁額 ![]() 「東巌倉不動明王」の扁額 ![]() ![]() 「天台慈覚大師、法然上人直作尊像 常行念仏之蹟」の碑 ![]() 走祟水 ![]() 百度石 |
安養寺(あんよう-じ)は、大日山西麓、日向大神宮の参道脇にあり、山号は青竜(龍)山という。 西山浄土宗、本尊は阿弥陀如来坐像も安置する。 ◆歴史年表 平安時代、円仁(えんにん、794-864)により、神明山の東南、一切経谷(慈覚谷、山科区日ノ岡一切経谷町)に、天台宗の寺として開かれたという。延暦寺の別所であり、一切経堂と呼ばれた。 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。 延徳年間(1489-1492)、比丘尼智照が現在地に庵を結び、再興している。 安土・桃山時代、1590年、道観により浄土宗に改宗された。2世・一忠の時、安養寺を寺名とした。 1682年、良恩寺に属した。 1723年、青蓮院に属する。 近代以降、浄土宗粟生光明寺派に属した。 ◆円仁 平安時代前期の天台僧・円仁(えんにん、794-864)。男性。慈覚大師。下野国(栃木県)の生まれ。9歳で大慈寺・広智に師事、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て心身回復し、法華経書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立した。836年、837年と渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。また、悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。854年第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。『顕揚大戒論』、9年6カ月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。東京・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。著『顕揚大戒論』『金剛頂経疏』。70/71歳。 没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。 ◆仏像 ◈ 本尊「阿弥陀如来」を安置している。恵心作という 開祖・円仁像も安置する。 ◈ 不動堂に安置の「石造不動明王像」は、江戸時代作になる。かつて、大日山山中にあった観勝寺の遺仏という。 ◆岩倉 平安時代前期、平安遷都の794年、都の東西南北に岩倉が設けられ、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武の四神を祀ったという。また、皇城鎮護のためとして、桓武天皇は都の四方に経典(経筒)を埋めたという。 このうち東岩倉は大日山(左京区)、南岩倉は明王院(下京区)、または男山(八幡市)、西岩倉は金蔵寺、北岩倉は山住神社(左京区岩倉)ともいわれている。当不動明王が、四岩倉のうちの東岩倉と関連があるかについては不明。 ◆大日山・東岩倉寺・観勝寺 境内の東に小さな不動明王が祀られている。堂内に、「東巌倉不動明王」の扁額が掛けられている。 境内の北東に大日山(東岩倉山、288m)がある。粟田山の支峰であり、山頂近くには、いまも安井門跡性演僧正など50基ほどの墓が残されている。 飛鳥時代、行基(668-749)は、この山中に東岩倉寺を開いたとの伝承がある。 平安時代前期、794年、平安京遷都に際して、東西南北に岩倉が設けられ、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武の四神を祀ったという。また、皇城鎮護のためとして、第50代・桓武天皇(737-806)は都の四方の経塚に経典(経筒)を埋めたともいう。東岩倉山は、その「東の岩倉」の地ともいう。 神明山の東南に一切経谷(慈覚谷、山科区日ノ岡一切経谷町)があった。平安時代後期、1167年、明雲(1115-1184)は、天台座主に就いたが、讒言により伊豆に流罪になり谷を経過した。(『百錬抄』) 中世(鎌倉時代-室町時代)、三井寺の行円(?-?)が観勝寺を建立し、東岩倉寺の寺号を継いだ。その後、衰微する。鎌倉時代中期、1268年、三井寺の大円上人は、観勝寺を再興し、本尊・阿弥陀三村を安置する。傍らに真性院を再興し、本尊・聖観音像を安置したという。亀山上皇(第90代、1249-1305)は、禅林寺殿(南禅寺)より観勝寺に度々臨幸し、後に勅願寺にした。1281年、蒙古来襲の時、院宣により戦勝祈願させる。室町時代後期、1467年、赤松の軍勢が東岩倉山山中に布陣、山名・大内の軍勢と戦う。この戦乱により観勝寺は焼失する。 江戸時代には、大日堂に石造大日如来が安置され、大日山の山名の由来になる。江戸時代前期-中期の元禄年間(1688-1704)、観勝寺、真性寺は、東山・安井の蓮華光院に移された。旧地は歴代の墓地になり、近代、1873年に京都市共同墓地になる。 ◆文学 ◈近現代の俳人・小説家・高浜虚子(1874-1959)が寺を訪れ、「山門のぺんぺん草や安養寺」と詠んだ。 ◈現代の作家・村上春樹(1949-)は、『猫を棄てる』(2020)の中で、祖父・村上弁識(むらかみ-べんしき、?-1958)について少し触れている。 弁識は愛知県の農家に生まれ、近くの寺に修行僧として出された。その後、各地の寺で小僧・見習い僧として修行を積む。京都の光明寺などを経て、安養寺に住職に迎えられる。檀家4-500軒を持つ京都としてはかなり大きな寺だった。 弁識は、自由闊達な人で、豪快に酒を飲み、一見豪放磊落、一種カリスマ的な要素を持ち合わせた。通る声で弁も立ち、僧侶としては有能であり人望もあったという。 現代、1958年8月25日の台風の雨降る朝、弁識は、檀家を訪れた帰り道だった。傘を差し、京津線(京都・御陵-大津)の警手のいない山田踏切りを横断中に、列車にはねられて亡くなった。70歳。 祖父が亡くなった後、寺の後継について話し合いが行われた。春樹の父・千秋(1911-2008)が継ぐことはなかった。 ◆石標・碑 ◈境内に、「天台慈覚大師 法然上人直作尊像 常行念仏之蹟」の碑が立つ。 ◈「青龍山 安養寺」の寺号石標は、近代、「昭和六年(1931年)十二月」に建立された。施主は「新橋林下町 酒井捨吉」、「住職 村上辨(弁)識」と刻まれている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』 、『山科事典』、『猫を棄てる』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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