天智天皇 山科陵 (京都市山科区)  
Imperial mausoleum of Emperor Tenji
天智天皇 山科陵 天智天皇 山科陵 
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「天智天皇 山科陵」の石標







琵琶湖疏水


日時計碑
 山科区御陵上御廟野町(みささぎ かみごびょうの ちょう)に山科陵(やましな の みささぎ)がある。飛鳥時代の第38代・天智天皇(てんじ てんのう)を葬っている。
◆歴史年表  飛鳥時代、672年、12月3日(新暦1月7日)、天智天皇は近江大津宮(山科とも)で亡くなる。御廟野(ごびょうの)古墳(天智天皇陵)に葬られたとみられている。近江朝廷は、築陵のために美濃、尾張の人夫を集め、同年の壬申の乱の発端になった。
 699年、山科陵修営の官が任命された。陵が修復された。
 奈良時代-鎌倉時代、外交使節来日、外敵来襲、天皇の不予(病)、即位、元服、皇太子の廃位、災異、祥瑞(吉兆)などの際には、陵に使が遣わされていた。
 平安時代、山科陵は「十陵八墓」の第一になる。
 754年、山科陵にのみ唐国から信物が献じられた。
 鎌倉時代初期、陵所は荘園化していた。
 南北朝時代以降、諸陵寮の所管になる。
 江戸時代、禁裏御陵とされていた。
 元禄年間(1688-1704)、享保年間(1716-1736)、修陵されている。
 1797年、天智天皇廟陵として記されている。(『伊勢参宮名所図会』)
 1863年、8月、修陵が行われた。11月、完成する。陵道が整備拡張された。
◆天智天皇 飛鳥時代の第38代・天智天皇(てんじ てんのう、626-672)。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのみこと) 、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、葛城(かずらきの)皇子などとも称された。第34代・舒明(じょめい)天皇の皇子、母は宝皇女(後の第35代・皇極天皇、第37代・斉明天皇)。644年、中臣鎌子(なかとみのかまこ、藤原鎌足)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)と共に、蘇我氏の横暴に対して打倒を図る。645年、大極殿において蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した。皇極天皇は初の生前譲位により、軽(かる)皇子(第36代・孝徳天皇)が即位した。自らは皇太子として実資的な執政を行う。646年、大化の年号が始まり、大化の改新を断行する。出家し吉野に隠棲していた、異母兄・古人(ふるひと)大兄皇子を討つ。甘樫丘(あまかしのおか)の蘇我蝦夷を威嚇し自殺する。(乙巳[いつし]の変)。改新の詔が発せられ、公地公民制の実現を図る。649年、冠位十九階が制定された。蘇我倉山田石川麻呂を自決させた。652年、班田収授法を施行した。戸籍が作成される。653年、第2回遣唐使が派遣される。(都合5回)。654年、第37代・斉明天皇が重祚(退位した天皇が再び皇位につく)し即位する。中大兄は皇太子にとどまる。658年、孝徳天皇の子・有間(ありま)皇子を謀反の名目で処刑した。蘇我赤兄(そが の あかえ)の謀りによる。蝦夷征伐する。661年、斉明天皇の没後、即位せずに7年間政務を執る。(素服称制[そふくしょうせい] )。662年、新羅に軍船を送る。663年、日本の水軍27000は新羅を攻める。倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との白村江(はくすきのえ)で敗れ、戦後処理などを行う。664年、二十六階の冠位制を設け、氏上(うじのかみ)など官人の整備を行う。対馬、壱岐、筑紫国に防人(さきもり)、烽(とぶひ)を置く。筑紫に水城(みずき)、九州-奈良盆地に朝鮮式山城を築いた。665年、百済よりの亡命渡来人400人を近江国神前郡に定住させた。667年、大和・飛鳥より近江・大津京に遷都し、弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟とした。668年、即位する。大津京鎮護のために、大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神(大物主大神)を大宮(現在の日吉大社西本宮)に勧請した。初の法律の成文化された法典・近江令(おうみりょう)全22巻を施行したともいう。公的には近代まで存続した。670年、初の戸籍、庚午年籍(こうごねんじゃく)を作る。671年、大友皇子を太政大臣とし、政権確立を意図した。
 天皇制的中央集権の強化のため、中国の制度、文物を移入した。百済より亡命の鬼室集斯(きしつ しゅうし)を学職頭に任じた。自ら製造したという漏刻(ろうこく、水時計)を初めて用いる。『万葉集』に4首の歌を残している。
◆陵墓 学界としても問題のない天皇陵とされている。現在の陵の所在地も「御陵」であり、山科盆地に天皇陵級の終末期古墳はほかにない。飛鳥時代の古墳としての価値は高いという。
 終末期古墳の上円下方墳(じょうえんかほうふん)であり、上円部分は平面八角形をしている。下方部は二段築成になる。表面は礫石(小石)で覆われている。上段一辺長さ45m、四隅に大型の切石、下段は南辺が高く、北辺が低い。南辺の長さ62m。上円部の裾径42m、高さ7m。南辺中央テラスに、礼拝用とみられる切石の沓石(くついし、2m×3m)が置かれている。周濠はない。
 飛鳥時代、672年12月3日(新暦1月7日)、天智天皇は近江大津宮(山科とも)で亡くなる。御廟野(ごびょうの)古墳(現在の天智天皇陵)に葬られたとみられている。『日本書紀』には陵名の記述はなく、『延喜式』諸陵寮に「山科陵」とある。兆域は東西14町、南北14町、陵戸(りょうこ/みささぎべ、陵守の世襲の古代賤民)6烟とされた。「山科山陵」「山階山陵」とも呼ばれていた。伝承として、天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になった。そのため、沓が落ちていた場所を陵にしたともいう。(『扶桑略記』)
 近江朝廷は、672年の築陵のために美濃、尾張の人夫を集めたため、672年の壬申の乱の発端になった。699年、陵が修復される。奈良時代-鎌倉時代、外交使節来日、外敵来襲、天皇の不予(病)、即位、元服、皇太子の廃位、災異、祥瑞(吉兆)などの際には、陵に使が遣わされた。鎌倉時代初期、陵所は荘園化し、預職(あずかりしき)が置かれた。(『諸陵雑事注文』)。南北朝時代以降、諸陵寮の所管になり、沙汰人(さたにん)が置かれる。江戸時代、禁裏御陵とされ、沙汰人の子孫が守護した。江戸時代、元禄年間(1688-1704)、享保年間(1716-1736)に修陵されている。1863年8月、修陵が行われた。11月に完成する。陵道が整備拡張された。
 なお、近代、明治天皇陵(伏見区)の造営に際して、天智天皇陵の陵形状が参考にされている。ただ、上円部は円形とされた。実際には八角形だった。かつて、八角堂があり、宸影が安置されていたともいう。欽明天皇陵(奈良・明日香村)も同様の陵形をしている。
 また、天智天皇陵と、奈良の天武天皇陵(明日香村)は、東経135度49分で南方向の同一経線上にある。第40代・天武天皇は天智天皇の弟にあたる。
◆遺跡 陵の兆域に、7世紀前半-中期の須恵器窯址群「山科窯址群」、年代不詳の製鉄遺跡が取り込まれている。
◆日時計碑 参拝道の脇に、石造の「日時計碑」が立てられ「天恩無窮(天の恩恵ある日が永遠に)」と篆額されている。
 天智天皇は自ら漏刻(ろうこく、水時計)を製造し、初めて用いたとされている。その逸話に因み、近代、1938年に京都時計商組合により碑が建立された。
 垂直型日時計の針は左回りに指していく。目盛りは、左上の「6」(日出、午前6時)から始まり、真下が「12」(南中、正午)、右上が「18」(日没、午後6時)と刻まれている。高さ170㎝。


34 舒明天皇(在位:629-641)→ 35 皇極天皇 (在位::642-645) → 36 孝徳天皇 (在位:645-654) → 37 斉明天皇(重祚)(在位:655-661) → 38 天智天皇 (在位:661-671) → 39 弘文天皇 (在位:671-672)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『図説天皇陵』『古代史研究の最前線 天皇陵』『歴代天皇年号事典』『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』『山科の歴史を歩く』『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 天智天皇 山科陵 〒607-8425 京都市山科区御陵上御廟野町
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