梅宮大社 (京都市右京区) 
Umenomiya-taisha Shrine
梅宮大社 梅宮大社 
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楼門




楼門、ウメ


ウメ


楼門


楼門、酒樽が奉納されている


拝殿


本殿拝所




ウメ


本殿


本殿拝所






末社、右より、天満宮(菅原道真)、春日社(天児屋根命)、厳島社(市杵嶋姫命)、住吉社(表筒男命、底筒男命)、薬師社(大己貴神、少彦名神)、愛宕社(伊弉冉尊)、天皇社(素戔嗚尊)、幸神社(猿田彦神、天宇受売命)


護王社



若宮社、橘諸兄公を祀る


稲荷社


またげ石、玉石二つが細長い石の上に載る。

熊野影向石、「三石」ともいう。
 梅宮大社 (うめのみや-たいしゃ)は、この地の古社の一つに数えられている。一帯の梅津は、桂川東岸に位置しかつては保津川(桂川)で運ばれた木材の集積地として栄えた。
 梅宮大社は「梅宮」とも呼ばれている。古くより橘氏、藤原氏の氏神、守護神として祀られてきた。
 祭神は、本殿に酒解神(さかどけのかみ/さかとけのかみ、大山祇神)、その子・酒解子神(さかどけみこのかみ、大山祇、木花咲耶姫)、伊勢渡会(わたらい)より遷されたともいう二神、夫・大若子神(おおわくこのかみ、瓊瓊杵尊)、孫・小若子神(こわくこのかみ、彦火火出見尊)の4座を祀る。
 相殿には橘諸兄の孫・橘清友、その子・嘉智子(第52代・嵯峨天皇皇后、壇林皇后)、嵯峨天皇、嵯峨天皇皇子・第54代・仁明(にんみょう)天皇と一族を祀る。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「葛野郡 二十座 大十四座小六座」の「梅宮坐神四社 並名神大、月次新嘗」に比定されている。平安時代、1081年、確定した二十二社の制の下八社の一つ。現在は神社本庁に属さない単立神社。旧官幣中社。
 酒造、安全、子孫繁栄、嘉智子に因み子授け・安産などの信仰がある。嵯峨天皇が日本三筆の一人であり、橘氏は日本最初の学校を創設したことから、学業成就祈願。仁明天皇は横笛の名手であり、日本初の雅楽を作曲したことから、音楽芸能の神を祀る社としても知られている。音楽成就のお守りが授けられる。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 奈良時代、750年頃、県犬養三千代(あがたの-いぬかいの-みちよ、?-733)の創建によるという。また、県犬養三千代、その子・光明皇后(701-760)、その子・乙牟婁女王(おつむろ、760-790)により祀られたともいう。皇后と女王は、奈良の都に遷座し、さらに泉川(木津川)の上流、かせ山(鹿背山?)に遷したともいう。当初は洛隅内頭、その後、相楽郡堤山に遷されたともいう。
 また、乙牟婁女王(760-790)は、大山崎・天王山の酒解神社に遷したともいう。
 また、平安時代、県犬養三千代の子・橘諸兄(684-757)が創建した井手町(井出庄、綴喜群井出町付近)の井寺(いでら、円堤寺)に、嘉智子(かちこ、786-850)が橘氏の氏神(酒解神ほか三柱)を祀ったことに始まるともいう。
 9世紀(801-900)前半、嘉智子により井手から現在地、葛野川(桂川)頭(ほとり)に、橘氏の氏神として遷したともいう。以後、皇室外威神として天皇家により崇敬された。
 第54代・仁明天皇(在位833-850)の時、宮人に神託があり、天皇は大社に準じた神社造営を思い立つ。だが、母・嘉智子はこれを認めず、自ら葛野川の現地付近に社地を定めたともいう。
 836年、酒解神、大若子神、小若子神は、従五位下を授けられた。
 843年、酒解神に従四位下を授けられた。
 879年、例祭・梅宮祭が中断する。
 第59代・宇多天皇(887-897)の時、祭儀が停滞する。
 911年、正三位に神階が進む。
 927年、第60代・醍醐天皇の延喜の制で「名神大社」になる。
 945年、祭儀が再興される。
 994年、朝廷より格別の崇敬を受けた二十社の一つに選ばれた。16番に列せられた。(後の二十二社の制)
 摂関時代(10世紀[ 901-1000] 後半)に入り、橘氏に代わり藤原氏が祭祀を行うようになった。
 1005年、祭儀は旧儀に復した。
 1081年、確定した二十二社の制の下八社の一つ。
 平安時代末期、衰微する。
 室町時代、1474年、戦乱により焼失する。
 江戸時代、1700年、5代将軍・徳川綱吉の命により、本殿、拝殿、楼門など現在の社殿が再建された。
 現代、1951年、梅宮大社と改称した。
◆県犬養三千代 飛鳥時代-奈良時代の女官・県犬養三千代(あがたの-いぬかいの-みちよ、? -733)。三野(みのの)王の妻になり橘諸兄らを産む。藤原不比等と再婚して光明皇后を産んだ。708年、橘姓を与えられる。天武-元正朝の5代に仕え不比等を助けた。
◆光明皇后 奈良時代の光明皇后(こうみょう-こうごう、701-760)。父は藤原不比等、母は県犬養三千代。16歳で首皇子(第45代・聖武天皇)妃になる。他氏排除の729年、長屋王の変後、しりへ(後)の政を行う。邸内に皇后宮職を設置、施薬院、悲田院を置き、国分寺、国分尼寺、東大寺の創建を天皇に勧めた。749年、娘・阿倍内親王(第46代・孝謙天皇)即位に伴い皇太后になる。紫微中台を設置し、国政も実質掌握した。754年、受戒し、聖武天皇没後、遺愛品を東大寺大仏に献じ、正倉院宝物の起源になる。
◆藤原乙牟漏 奈良時代末期の皇妃・藤原乙牟漏(ふじわらの-おつむろ/おとむろ、760-790)。父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘・尚侍兼尚蔵・阿倍古美奈。山部親王(後の第50代・桓武天皇)の許に入内し、774年、小殿親王(安殿親王、後の第51代・平城天皇)を産んだ。781年、桓武天皇が即位し、正三位に叙され、夫人、皇后に立てられる。785年、安殿親王が立太子される。786年、神野親王(後の第52代・嵯峨天皇)を産む。789年、高志内親王を産む。
 高畠陵(長岡陵、向日市)に葬られた。806年、平城天皇即位により、皇太后を追贈された。
◆橘嘉智子 平安時代の皇后・橘嘉智子(たちばなの-かちこ、786-850)。檀林皇后。父は橘清友、母は贈正一位田氏。美貌の人だったという。809年、入内。815年、第52代・嵯峨天皇皇后。第54代・仁明天皇(正良親王)、正子内親王(第53代・淳和天皇皇后)などを産む。橘氏としては最初で最後の皇后になり、嵯峨上皇没後も皇太后、太皇太后として勢威をふるう。836年頃、仏教を信仰し、禅院檀林寺を創建し、檀林皇后とも呼ばれた。842年、仁明天皇の皇太子・恒貞親王が廃された政変の承和の変にも関わったという。844-847年頃、兄・橘氏公とともに、橘氏の教育のために学館院を設立した。
 梅宮大社は井手より遷し橘家の氏神として祀ったという。嵯峨院で亡くなり、深谷山陵(嵯峨陵)に葬られた。
◆橋本経亮 江戸時代の梅宮社の神官・国学者・橋本経亮(はしもと-つねあきら、1755-1805)。梅宮社の社家に生まれ。本姓は橘、肥後守、号は橘窓、香果堂。梅宮社の正禰宜、宮中の非蔵人。師・高橋図南(となん)のもとで有職故実を、上田秋成らに和歌を学ぶ。小沢芦庵、伴蒿蹊、岩垣彦明、香川景柄(かげもと)、柴野栗山、本居宣長らと親交があった。随筆集『梅窓自語』9巻など多くの著作を残す。
 参道脇に橋本経亮宅跡の碑が立つ。墓は梅宮大社の西(梅津罧原町)にある。
◆建築 本殿、拝殿、楼門、若宮社、護王社は府指定文化財になっている。
 「本殿」は江戸時代、1822年に建てられた。三間社、流造、檜皮葺。
◆庭園 境内には大堰川(桂川)の水が引かれ、回遊式神苑の東神苑、北神苑、西神苑がある。作庭時期については不明、江戸時代には現在の形になったという。
 東神苑の「咲耶池(さくやいけ)」には、杜若、花菖蒲、霧島躑躅、北神苑には、紅玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸躑躅、紫陽花が植えられている。
 西神苑には梅林(2月中旬-3月下旬)、ラッパ水仙などが植えられている。
 江戸時代中頃に本居宣長が、梅宮に梅を献木し、「よそ目にも その神垣とみゆるまで うえばや梅を千本八千本」と詠んだ。梅は神苑に35種、550本が植栽されている。梅は「産め」に通じるとされ、園に多く植えられたともいう。
 椿は神苑全体に50種類ある。神苑にアカマツも植えられている。
◆茶室 東神苑の咲耶池には、島に茶席「池中亭」(1851)があり、「芦のまろ屋」とも呼ばれている。
 平安時代の百人一首、「ゆうされば かどたのいなば おとずれて あしのまろやに 秋風ぞふく」(大納言・源経信)。
◆酒造神 祭神の酒解神は、初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神になる。その子・酒解子神は、大若子神と一夜の契りにより、小若子神を産んだ。
 酒解子神は歓喜し、狭名田(さなだ)の稲米により天甜酒(あめのうまざけ)を造り飲んだことから、安産と造酒の神として古くから知られていた。
◆子授け神・またげ石 伝承がある。酒解子神は大若子神と結婚すると一夜にして懐妊する。だが、大若子がこれを疑う。酒解子神は砂の上に室屋を建て、自身の貞節を天地神明に誓い、中に入り火を放った。その炎の中で小若子神を安産したという。
 嘉智子は子どもに恵まれなかった。この言い伝えにより当社に祈願した。当社の砂を産屋の褥(しとね)に敷きつめたところ、後の第54代・仁明天皇を産むことができた。また、懐妊した時、当社殿の砂を床下に敷いて安産だったことから、以後、子授け・安産の守護神として知られるようになったともいう。
 本殿東に「またげ石」といわれる2個の丸い石(玉石)が細長い石の上に載る。嘉智子が石を跨ぐと子を授かったという。以来、血脈相続の石として信仰されてきた。不妊の女性が石を跨ぐと懐妊するともいう。祈祷後、夫、妻が3度石を跨ぐと子宝に恵まれるという。
 産砂など子授かりの風習がある。安産のお守りの中には産砂が入っており、出産に際して床の下に敷く。また、白砂を帯襟におびる。
◆三石 本殿西の「三石(みついし)」は、影向石(ようごうせき)ともいわれる。紀州熊野より3羽の鳥が飛んできて石になったという。
◆梅宮祭 「梅宮祭」は平安時代初期(834-854)に始められたとみられる。安産の信仰を集め、かつて4月と11月酉日に行われていた。
 山人は庭燎(かがり火)を焚き、倭舞の舞い、稚児舞、走馬もあった。橘氏五位の者が奉幣師とした。後に同氏衰微により藤原氏長者が代わり、是定(ぜじょう、叙位の時、氏長者に代わり氏人の叙爵を申請する他氏の人)となり、幣帛、神馬を献じた。
 その後、祭りの中断と復興があった。嘉智子(786-850)により現在地に遷座された際に、盛大な祭儀が行われ、神前で初めて雅楽が奉納された。以来、梅宮祭は4月上旬の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めたという。
 第54代・仁明天皇により、承和年間(834-848)に、祭りは「名神祭」という国の主要な神祭の中に加えられた。現在は5月3日に神幸祭が執り行われている。
◆樹木・花暦 アカマツ、クロガネモチ、ゴヨウマツがある。 
 カキツバタ・キリシマツツジ・ハナショウブ・ヒラドツツジ(3-5月)、アジサイ(6-8月)、紅葉(11月)、ウメ(2月)。
◆年間行事 甘酒祭(2月11日)、梅産祭(うめうめさい、子授け、安産、諸産業繁栄祈願、梅ジュースの接待)(3月第1日曜日)、献酒報告祭(4月中酉日)、桜祭(4月第3日曜日)、例大祭神幸祭(5月3日)、壇林皇后祭(6月第3日曜日)、夏越大祓式(6月30日)、嵯峨天皇祭(8月最終日曜日)、護王社例祭(12月19日)、年越の大祓・除夜式(12月31日)。
 

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『井手町の古代・中世・近世』『井手町の近代Ⅰと文化財』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都の寺社505を歩く 下』『京都のご利益手帖』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』『週刊 京都を歩く 18 桂・松尾』 、ウェブサイト「コトバンク」


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神苑

神苑

神苑、茶室

神苑、茶室

神苑、「夕(ゆふ)されば門田(かどた)の稲葉(いなば)おとづれて芦のまろやに秋風ぞ吹く」の歌碑、大納言経信(1016-1097)。源師賢の梅津の山荘に招かれた歌会で詠まれた。夕方、家の門前の田の葉に音をたてさせ、芦葺きの山荘に秋風が吹き渡ってきた。

神苑、ツバキ

神苑、サクラ

神苑サクラ

神苑、ツバキ

【参照】平安時代の梅宮社の復元模型、京都アスニー

大堰川(桂川)の水


西梅津神明社

西梅津神明社

西梅津神明社、天照大神、豊受大神を祀る。

橋本経亮宅跡の碑

六斎念仏
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