安倍晴明の墓所 (松原) (京都市東山区) 
grave of ABE no Seimei
安倍晴明の墓所 (松原) 安倍晴明の墓所 (松原)
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松原橋、かつては五条大橋と呼ばれた。


松原橋


松原橋から東北の方向、奥に見えるのは比叡山、鴨川の中州に法成寺が建立され、度々の洪水被害により川岸に移されたという。


宮川町、江戸時代、この東北に晴明の社が祀られていたという。松原橋の東にあたる。


宮川町の東、松原通大和大路付近。江戸時代、清円寺境内(松原通大和大路西入ル)にかつて、晴明を祀る社があったという。


心光寺、三条大橋の東。法成寺の後身、かつて境内に晴明塚があったという。塚は現在、消失している。


南遣迎院(東山区本町19)、かつて晴明の墓所があったともいう。東福寺の南西に当たる。


遣迎院近くの竹藪、晴明塚は竹藪の中にあったという。その後、消失したという。



晴明の屋敷が東福寺門前(東山区)の本町通付近にあったという。地域の人の話によるとこの付近には戦前まで川があり、一ノ橋という橋が架けられていたという。東福寺の北西に当たる。



晴明邸は、本町通11丁と12丁の間、旧一ノ橋の南東付近ともいい、現在の瀧尾神社境内付近の可能性もある。(『雍州府志』)。また、三ノ橋の南西にあったともいう。



嵯峨野の安倍晴明墓所(右京区嵯峨天龍寺角倉町)は、長慶天皇嵯峨東陵の南にある。京都市内に残る晴明の唯一の墓になっている。



阿弥陀如来像


【参照】「清明☆」と刻まれた阿弥陀如来像、旧二条城の出土した石仏群のひとつ。


【参照】物吉村、室町時代、「洛中洛外図屏風(上杉本)」、京都アスニー陶板壁画より
 平安時代の陰陽師・安倍晴明の墓所と伝えられている場所は、京都市内だけでもいくつか伝えられており、さまざまな伝承がある。 
◆歴史年表 平安時代後期、1005年、安倍晴明が亡くなる。
◆安倍晴明 平安時代中期の陰陽師・安倍晴明(あべ-の-せいめい/はるあきら/はれあき、921-1005)。摂津国(大阪府)阿倍野/大和国(奈良県)桜井安倍/讃岐国(香川県)生まれ。大膳大夫・安倍益材(ますき)/淡路守・安倍春材の子。母は加茂社家ともいう。第42代・文武天皇の右大臣・阿倍御主人(あべ-の-みうし)の後裔ともいう。幼くして京都に移る。陰陽師・賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学ぶ。保憲から天文道の奥義を授かった。唐に渡り、帰国後、陰陽道を確立したともされる。948年、大舎人になる。第61代・朱雀天皇の信を得る。960年、天文得業生(てんもんとくごうしょう)として第62代・村上天皇に占いを命じられた。961年、陰陽師になった。971年/972年、天文博士に任じられる。977年、師・保憲が亡くなった。979年、皇太子師・貞親王(第65代・花山天皇)の信を得て、命により那智山の天狗を封ずる儀式を行う。その後も、第66代・一条天皇など6代の天皇に仕え、藤原道長の信も得る。官職として主計寮の主計権助(かずえのごんのすけ)、大膳大夫(だいぜんだいぶ)、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などを歴任した。従四位下。著『占事略決』。85歳。
 安倍氏(土御門家)の祖になる。陰陽、暦術、天文の術に精通し、吉凶を占い、陰陽道の祭祀 (泰山府君祭) 、天文密奏などを行い宮廷で活躍した。様々な説話が『栄花物語』『今昔物語』『宇治拾遺物語』などに記されている。安倍氏は、賀茂氏と並ぶ陰陽道家になる。家は土御門の北、西洞院の東にあり、子孫は後に土御門家と呼ばれ代々陰陽頭になった。鎌倉時代-近代、1870年まで陰陽寮を統括した。後世、居宅跡には安倍晴明社が創建され霊神として祀られる。
 中世より伝えられる墓所の一つに、安倍晴明墓所(右京区嵯峨)がある。
◆晴明墓所 ◈1.晴明は没後、かつての五条大橋(現在の松原橋)、東北(北)の中州(中島)にあった真言宗の法城寺(大黒堂)に葬られたともいう。晴明は水を咒(しゅ、呪う)し、水が忽ち乾いたという。また寺名の「法」の字には、「水去る」。「城」は、「土成る」の意味が込められていた。後に寺は氾濫により流出し、川辺に移されたという。(江戸時代、『雍州府志』)
 寺は、少なくとも室町時代にはまだ存在した。鴨川の洪水を防ぐために晴明本人が建てたともいう。墓は晴明塚といわれ、松が植えられていた。その後、晴明祠が建てられ、木像が祀られていた。後に廃寺になり、墓は残され晴明塚と呼ばれる。
 また、室町時代、松原の中州付近は、「大黒信仰」の中心地になり、下級芸能者の拠点にもなった。その後、法城寺も墓も、鴨川の氾濫により消失したという。
 また、安土・桃山時代、豊臣秀吉による新しい五条大橋替え工事などにより消失した。また、秀吉による弾圧により消えたともいう。
 東川原五条の北、鴨川東岸松原の晴明塚は近世まであったという。(『京羽二重織留』)。江戸時代、四条河原の橋より南を見ると晴明塚があり、植えられていた松が見えていたという。(『山州名跡志』)
 ◈2.晴明の没後に、宮川筋五丁目(東山区松原通宮川筋入ル北側)に埋葬されたともいう。廃寺後にも墓は残り「晴明塚」と呼ばれていたという。
 現在、誓願寺塔頭の長仙院(中京区六角通河原町西入ル松ヶ枝町)に安置されている安倍晴明像は、東山松原、物吉(ものよし)村の「清円寺(清圓寺)」(松原通大和大路西入ル)にあった。この村は、宮川町の遊郭に近くその一角を占め、勧進により救癩事業が行われていたという。 
 また、江戸時代には、松原通宮川町の東北に晴明社が祀られ、「清円寺」と称し、阿弥陀仏を安置していたという。この奥に晴明辻子という「癩疾」の多く住むところがあったという。物吉村(ものよしむら)と呼ばれ、清円寺が管理していた。この地はかつて鴨川の東岸に当たり、晴明塚(大和大路松原の西北)があった。寛文年間(1661-1673) に、宮川町の新道開発に伴い晴明塚を取り壊したため、晴明大明神の祠を祀り、晴明社と呼ばれたという。(江戸時代、『花洛名勝図会』)。
 晴明塚は、はじめは宮河町(宮川町)の西、鴨河の東岸にあり、江戸時代、宮河町を開くに及んで塚が消えたという。(『山州名跡志』)
 近世、鴨川東岸に晴明塚があり、塚には松が植えられていた。塚は、宮川町を開発するに当たり消滅した。また、晴明塚と称するものは、所々にあったという。(江戸時代の『京羽二重織留』『山州名跡志』)
 近代、1871年、廃仏毀釈により祠は廃され、本尊の阿弥陀如来像と安倍晴明像は、長仙院に遷された。また、晴明塚は、物吉村に移され、松原裏通を晴明辻子と呼んだという。
 ◈3.現在、法城寺の名は、三条大橋東の「法城山晴明堂心光寺」(左京区超勝寺門前町)の寺名に残されている。
 中世、法城寺は浄土宗に改宗し、寺名も心光寺と改め知恩院に属した。その後、数度の洪水により被災する。江戸時代、1607年、三条橋の東に移され、晴明塚も改めて築かれたという。(江戸時代、『雍州府志』)
 かつて境内にあったという晴明塚は、現在は失われている。
 ◈4.晴明は、東福寺門前(東山区)の本町通に屋敷を構えていたともいう。その場所は、一橋小学校南、本町通11丁と12丁の間、旧一ノ橋の南東付近という。現在の瀧尾神社(東山区本町11-718)付近ともいう。また三ノ橋の西南ともいう。
 また、墓所(塚)は、その近くの浄土宗の南遣迎院(東山区本町19)の後の竹林にあったという。(『雍州府志』)。南(裏)の竹薮の中にかつて存在したともいう。塚はいまは消失している。なお、現在の南遣迎院は、近代、1914年に再興されている。
 ◈5.嵯峨野に現存する安倍晴明墓所(右京区嵯峨天龍寺角倉町)は、北朝第98代、南朝第3代・長慶天皇嵯峨東陵の南に隣接している。室町時代の『臥雲日件録』、1467年の条に記されているという。
 ただ、墓所は、室町時代に数多く造られた「晴明塚」(記念碑)のひとつとみられている。
◆清明石仏 現代、1975年の京都市地下鉄工事に伴う発掘調査により、旧二条城の石垣に転用された石仏、五輪塔、燈籠などが出土した。これらの石仏群(京都市指定有形文化財)の一部は、現在は京都市洛西竹林公園に移され保存展示されている。
 石仏は217体発掘された。阿弥陀如来立像は3体あり、この中に、後世「清明 ☆(清明桔梗紋)」と追刻された石造がある。上体しかなく来迎印を結ぶ。鎌倉時代のものという。花崗岩製。


*参考文献・資料 『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』、『安倍晴明・紫式部を歩く』、『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』、『安倍晴明読本』、『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都まちかど遺産めぐり』 、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)、ウェブサイト「コトバンク」


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