安倍晴明の屋敷跡 (京都市上京区)
ruins of the residence of ABE no Seimei
安倍晴明の屋敷跡 安倍晴明の屋敷跡
50音索引  Home 50音索引  Home

南北の西洞院通と東西の上長者通沿いの土御門町、菊屋町にまたがる。京都ブライトンホテルの南西、駐車場と塀から西の民家付近と思われる。


西洞院通(左)と上長者通の接した辻付近。晴明神社はこの位置から北西に当たる。


現在も土御門の地名が残る。


 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921-1005)の屋敷跡としては、現在の晴明神社の境内であるとされる。 
 ただ、実際には、京都市内の複数の地点が指摘されている。その中で、現在、最も有力視されているのは、ブライトンホテルの南、南西付近と推定されている。
◆歴史年表 平安時代、1001年、内裏での追儺の中止の時、自宅で追儺を行う。
◆晴明屋敷跡
 晴明の屋敷跡としては、現在の晴明神社境内付近(上京区堀川通一条上ル晴明町)、さらに、一ノ橋小学校付近(東山区下池田町)も指摘されている。
 文献には、「土御門大路(上長者町通)から北、西洞院大路(西洞院)から東」(平安時代後期の『今昔物語』)、「土御門大路と町口小路(新町通)」(平安時代後期の『大鏡』)、「太和大路、一橋の東南』(『雍州府志』)、「一条堀川西入町」(江戸時代の『京羽二重』)などと記されている。
 現在では、「左京北辺三坊二町南西角の六戸主」(上京区土御門町周辺、京都ブライトンホテル南西の駐車場西付近)がほぼ特定されている。
 平安時代末期、1180年、「土御門大路北町西半町」に、晴明子孫の陰陽師が多数住んでいたという。(平安時代末期から鎌倉時代の『玉藻』)
 鎌倉時代、1132年、晴明子孫の右京亮安倍泰親(1110-1183)と権天文博士・安倍兼時(晴道、1094-1153)との領有争いに関し、土御門大路に面した東西20丈(60m)、南北15丈(45m)がほぼ確定された。(平安時代末から鎌倉時代の『長秋期』、平安時代末期の『中右記』)
 (『日本歴史』632号、2001年、山下克明「安倍晴明の宅邸とその伝領」)。
◆安倍晴明 平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい/はるあきら/はれあき、921-1005)。摂津国阿倍野、また、大和国桜井の安倍に生まれたともいう。大膳大夫・安倍益材(ますき)、また、淡路守・安倍春材の子ともいい、諸説ある。鎌倉時代から近代、1870年まで、陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。陰陽師・賀茂家の忠行・保憲父子に陰陽道、天文道を伝授されたという。948年、大舎人。第61代・朱雀天皇の信を得て以来、960年、天文得業生として第62代・村上天皇に占いを命ぜられた。972年、天文博士に任ぜられる。979年、皇太子師・貞親王(後の第65代・花山天皇)の信を得、その命により那智山の天狗を封ずる儀式を行った。その後も、第66代・一条天皇など6代の天皇に仕え、また藤原道長の信も得る。官職として主計寮の主計権助、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などを歴任した。
 安倍氏は、賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となる。
◆花山天皇 清明の伝承がある。清明は鬼神の式神(しきがみ)を操り、延命、呪詛、調伏も行っていたという。
 現在地の東西の上長者通は、平安時代には土御門大路と呼ばれた。986年、出家のために御所を脱した第65代・花山天皇は、この大路を抜け元慶寺(山科区)に向かった。清明は、天体の動きからそれを予知しており、式神を内裏に遣り動静を探らせたという。(『大鏡』など)。また、天皇が清明の屋敷前に差し掛かった時、清明の声が聞こえた。天皇の退位は天文により変え難い、内裏に知らせなければならないとして式神が屋敷の戸を開いたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本歴史』632号、『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』『安倍晴明・紫式部を歩く』『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』『安倍晴明読本』『京都時代MAP 平安京編』『京のしあわせめぐり55』『京都歩きの愉しみ』


  関連・周辺晴明神社      周辺      関連安倍晴明の墓所(松原)      関連安倍晴明の墓所(嵯峨野)      関連元慶寺(花山寺)         
平安京オーバレイマップ
 安倍晴明の屋敷跡 京都市上京区菊屋町・土御門町周辺 
50音索引 Home  50音索引 Home 
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光