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梅林寺 (京都市下京区) Bairin-ji Temple |
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梅林寺 | 梅林寺 |
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![]() ![]() 「土御門家菩提所梅林寺」の石標が立つ。 ![]() ![]() 大日堂 ![]() 大表土台、陰陽師・土御門家に伝わる日時計という。 |
梅小路公園の西にある梅林寺(ばいりん-じ)周辺には、江戸時代以来、陰陽家・土御門家の屋敷があった。寺は土御門家の菩提所になっている。山号は、清香山という。 西山浄土宗。本尊は大日如来坐像。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 室町時代、戦国時代(1467/1493-1573)、創建されたともいう。安部家の菩提所である梅蓮寺を前身とするともいう。その後、土御門家が受け継ぐ。 浄土宗の西寺と合併する。 近代、1885年、西隣にあり、廃寺になった天台宗か禅宗の法蔵寺を合併したともいう。 ◆土御門泰邦 江戸時代中期の公卿・陰陽師・暦法家・土御門泰邦(つちみかど-やすくに、1711-1784)。男性。父・陰陽家・安倍晴明の末裔・土御門泰福(やすとみ)の末子。兄・泰連の養子。1722年、陰陽頭(かみ)、1746年、治部卿、1750年、従三位。8代将軍・徳川吉宗の発議による西洋流天文学の宝暦改暦に際し、幕府天文方・西川正休(まさよし)の新暦法稿本を退け、改暦の主導権を握る。1754年、陰陽頭になる。宝暦暦を作成した。1755年より、宝暦暦は実施された。1756年、天文博士、1759年、陰陽頭、1771年、兵部(ひょうぶ)卿を歴任した。1771年、日食予測の不備により、宝暦暦に修正が加えられる。宝暦暦法を記した『宝暦暦法新書』『新暦提要簡法』。74歳。 没後、1797年、寛政暦への改暦が行われた。 墓は梅林寺(下京区)にある。 ◆土御門晴雄 江戸時代後期の公卿・陰陽家・土御門晴雄(つちみかど-はるお/はれお/はれたけ、1827-1869)。京都の生まれ。父・土御門晴親。子に土御門晴栄、妹に土御門藤子。1839年、元服、1842年、父を継いで陰陽頭になる。1849年、右兵衛佐を兼ねる。1858年、廷臣八十八卿列参事件に参加し、14代将軍・徳川家茂の就任式に勅使として江戸城に派遣された。1859年-1868年、民部卿に就く。1868年、新政府に請願し、旧幕府の天文方を廃止させ、測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握することに成功する。太陽暦導入に反対し、天保暦を改暦した太陰太陽暦の継続を提案した。43歳。 没後、1870年、陰陽寮は廃止され、土御門家陰陽道の最後の当主になる。 墓は梅林寺(下京区)にある。 ◆土御門藤子 江戸時代後期-近代の公家・土御門藤子(つちみかど-ふじこ、1842?- 1875)。ふぢ、邦子、通称は澄姫、桃の井。京都の生まれ。父・土御門晴親の4女。第120代・仁孝天皇の典侍・橋本経子(後の観行院)付の女官として京都御所に上がる。1846年、経子が和宮(静寛院宮)を出産し、和宮の乳母になる。1860年、14代将軍・徳川家茂への和宮降嫁により江戸に移る。江戸城大奥で上臈御年寄(じょうろうおとしより)になり、桃の井と称した。和宮側近として、観行院、庭田嗣子らと和宮を擁護し、大奥老女と対立した。1868年、新政府軍の江戸進軍決定に際し、徳川家存続に奔走する。和宮の使者として、橋本実麗・実梁父子に、和宮の直書・慶喜の嘆願書を持参する。桑名・光徳寺で実梁に会う。京都御所で徳川家存続の内旨を得た。再び、和宮の命により実梁と進軍猶予を求めて交渉した。1869年、和宮とともに京都へ戻る。日記『土御門藤子日記』。 墓は梅林寺(下京区)にあり、「邦子」と刻まれている。 ◆仏像 ◈大日堂に、「大日如来坐像」、右脇侍に「瑠璃光薬師如来坐像」、左脇侍に「地蔵菩薩立像」が安置されている。 ◈大日如来坐像と地蔵菩薩立像は、旧西寺食堂(じきどう)の本尊だったという。 ◆文化財 ◈中庭に、石盤の「大表土台」が置かれている。73㎝四方、高さ15㎝あり、暦作りのための日時計として使われたという。四角い盤の中央部に円形の穴が開けられ、東西北に細い線が刻まれている。南には太い溝が彫られている。江戸時代の安倍(土御門)泰邦が製作し、盤の東側面に江戸時代「寛延四年四月」(1751年)、西側面には「安倍泰邦製」と刻まれている。 ◈江戸時代の法具、磬子(きんす)には、「厚空東学上人代 蔓延二(1861年?)辛酉年三月 土御門殿御寄付」と記されている。 ◆遺構 周辺には土御門家の邸宅があった。辻向かいの円光寺、その北西の稲住神社付近も邸内にあった。 このため、円光寺には天文観測器、渾天儀の礎石などが残されているという。また、稲住神社の祭神は、土御門家の先祖であり陰陽師・安倍晴明を祀る。 ◆じじばい講 1月8日にもっとも近い日曜日に、当寺で行われる「じじばい講」(京都市指定無形民俗文化財)が催される。 旧梅小路村旧家に伝わるという。丸太を青竹で叩きつける祭礼をいう。厄除けと豊作を祈願する農耕行事の「おこない」の一種とされる。 起源については不明という。かつて西隣にあり、その後、廃寺になった天台宗か禅宗の法蔵寺で行われていた修正会(しゅしょうえ)にあるともいう。雷鳴の多い年は豊年とされた。青竹で丸太棒を叩く儀式は雷鳴を意味した。 伝承がある。村の薮に棲んでいた大蛇が農作物を荒した。このため、丸太を大蛇に見立てて叩くことで、被害を祓う祈祷に始まるともいう。また、平安時代、空海(774-835)が東寺に居た頃、梅小路付近で大蛇に襲われた。以来、大蛇に見立てた丸太を叩いたともいう。 当日、大日堂内の三仏像前に高盛飯、白味噌汁、ぜんまいの煮物などの膳が供えられる。丸太棒(長さ3m)が置かれ、その前に3本に束ねられた青竹(長さ20㎝程)が紐で括られて置かれる。読経の中、講員らは廻された樒の枝から葉を取り、これを撒いて身を清める。鉦、木魚が叩かれると、坐した講員各々が青竹で丸太を叩き始める。この叩く音で悪疫を祓う意味もあるともいう。その際に、「ヤーッ」「ジジバイヤ」の掛け声が起こる。竹がささら状になるまで続けられ、もう一度紐で括り直す。最後に住職より牛王宝印の護符が配られる。講員はこれを家に持ち帰り、青竹に添えて家の竈の上に置く。かつては、田の水口に挿したという。小豆粥(1月15日)には、青竹を燃やして炊いたという。 ◆墓 大壇越・土御門家の菩提寺であり、江戸時代の土御門泰邦、土御門晴雄、土御門藤子ら24基の墓碑が立つ。なお、近年、墓石の劣化が激しいという。 なお、安倍家歴代の位牌40以上が祀られている。 ◆年間行事 じじばい講(1月8日にもっとも近い日曜日)。 *現在、一般には非公開。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『梅林寺 寺院案内』、『京都大事典』、『京都千年 くらしと年中行事』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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