小谷墓地 (京都市北区)  
Cemetery of Kotani
小谷墓地 小谷墓地
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賀茂縣主の墓、複数存在する。



大田垣蓮月墓、小谷墓地に入ったすぐの左手の石段を登った所。



北大路家代々之霊墓。戒名は「妙法祥院高徳魯山居士」


北大路家代々之霊墓、「春来草自生」(春来たりなば草自ら生ず)


 西賀茂の京都市営・京都市小谷墓地(こたに-ぼち)には、賀茂縣主、江戸時代中期-後期の国学者・歌人・賀茂季鷹(かもの-すえたか)、江戸時代後期-近代の尼僧・歌人・陶芸家・大田垣蓮月(おおたがき-れんげつ)、近現代の文人・北大路魯山人(きたおおじ-ろさんじん)などが葬られている。
◆歴史年表 江戸時代、1841年、国学者・歌人・賀茂季鷹が亡くなる。
 近代、1875年、尼僧・歌人・大田垣蓮月が亡くなる。
 現代、1959年、文人・北大路魯山人が亡くなった。
◆賀茂 季鷹 江戸時代中期-後期の国学者・歌人・賀茂 季鷹(かもの-すえたか、1754-1841)。男性。山本右膳、賀茂寅之助、号は生山、雲錦。京都・賀茂神社(賀茂別雷神社)の社家に生まれる。父・季種。叔父・季栄(すえひさ)の養子になる。12歳で皇族・有栖川宮職仁(ありすがわのみや-よりひと)親王に学ぶ。親王は、有栖川流書道を創始している。季鷹は江戸時代全盛期の「堂上歌学」を身につける。1773年頃、19歳で江戸に行き、古学を学ぶ。加藤千蔭、村田春海、三島自寛、大田南畝ら歌人・文人と交わる。1791年か1793年、帰京し、上賀茂神社祠官として、正四位下安房守になる。1801年、上賀茂に吉野の桜と龍田の紅葉を植栽し、「雲錦亭」と名づけて住む。1811年、柿本人麻呂、山部赤人の像を祀る「歌仙堂」を建てた。家集『雲錦翁家集』『万葉集類句』など数多い。91歳。
 和歌、狂歌を得意とし、書にも秀でた。京都歌壇を香川景樹と二分した。広く文人墨客と交遊した。
 没後、当初、上賀茂中河原墓地に葬られる。大正期(1912-1926)末年、西方寺近くの市営・小谷墓地(北区西賀茂)に改葬された。
◆大田垣 蓮月 江戸時代後期-近代の尼僧・歌人・陶芸家・大田垣 蓮月(おおたがき-れんげつ、1791-1875)。男性。名は誠、法号は蓮月。京都の遊郭三本木に生まれる。父・伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖。生後すぐに知恩院門跡に勤仕の大田垣光古の養女になる。1798年頃より、丹波亀山城で御殿奉公を勤めた。1807年頃、望古と結婚する。夫子らを相次いで亡くし、1819年、古肥と再婚する。1823年、夫と死別後、養父・光古と共に剃髪し、蓮月と号した。知恩院内の真葛庵に移る。子、養父を亡くし岡崎村に移った。その後も住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれた。一説には勤皇の志士との交流があり、幕吏の目をそらすためだったともいう。言い寄る男に心身疲れ果て、自ら歯を抜き容貌を変えたという。「烈女」といわれた。歌人、陶芸家として知られ、和歌を釘彫りした 「蓮月焼」を生み、好評を博した。書、絵画も嗜んだ。富岡鉄斎を侍童にする。飢饉に寄付し、鴨川に丸太町橋も寄進した。85歳。
 神光院の茶所(茶室 蓮月庵)には、1866年、76歳から、1875年に亡くなるまでの10年間を隠棲した。
 墓は京都市営・小谷墓地(北区西賀茂)にある。
◆北大路 魯山人 近現代の文人・北大路 魯山人(きたおおじ-ろさんじん、1883-1959)。男性。本名は房次郎、別号は魯卿(ろけい)、無境、夢境など。京都府愛宕郡上賀茂村の生まれ。父・上賀茂神社社家の禰宜(ねぎ)・清操(きよあや)、母・登女(とめ)の次男。1882年、父・清操は魯山人の誕生を待たずに亡くなっている。出生後すぐに、上賀茂巡査所・服部良知、妻・もんの世話により、坂本(大津市)の農家に里子に出される。その後、服部夫妻が連れ帰り、養子とし房次郎と名付けられた。その後、養子の巡査・茂精(房次郎の義兄)、妻・やす(房次郎の義姉)夫妻により育てられた。1889年、義姉の実家・一瀬家(上京区)で育てられる。服部家を離縁され、近所の木版師・福田武造・フサの養子に入る。暮らしは貧しくそれでも夫婦は食通だった。房次郎は「おさんどん(調理)」を担う。1893年、梅屋尋常小学校を卒業後、10歳で近くの和漢薬屋の問屋「千坂わやくや」(二条烏丸)の丁稚奉公に出された。1895年、近くの料理屋「亀政」の若主人・竹内棲鳳(後の日本画家・栖鳳)が描いた第4回内国博覧会の絵に感銘を受け、画家を志す。1896年、養家に戻る。画学校進学の志望はかなわず、養家の木版仕事を手伝う。この頃、便利堂・田中伝三郎を知る。1898年以後、社寺・商店主催の「一字書」で受賞を重ねる。1899年、西洋看板書で収入は安定した。1900年、近隣の人々は「先生」と呼ぶ。1903年、近視のため兵役免除になり上京した。丹羽茂正宅に居候する。自らの出自について知らされ、再会した実母には冷遇された。茂正の世話で子ども向け書道教室を開く。1904年、日本美術協会展覧会書道の部で、「隷書千字文」が一等賞二席に入る。1905年、版下書家・岡本可亭(岡本一平の父)に師事し、可逸(かいつ)と名乗る。帝国生命保険会社文書掛に出向した。1907年、独立し福田鴨亭(おうてい)と名乗った。1908年、安見タミを入籍した。その後も含め、生涯で5度の結婚・離婚を繰り返す。1910年、実母と朝鮮京城(ソウル)を旅行している。1911年、京城龍山印刷局書記になった。書・篆刻を学ぶ。1912年、上海を巡り帰国後、福田大観と名乗った。書道教室を再開した。1913年、落款(らっかん)印・濡額(ぬれがく、店頭看板)を彫る。栖鳳、数寄者・内貴(ないき)清兵衛、日本画家・富田渓仙らを知る。京都堺町六角に移る。1914年、清水寺・泰産寺に渓仙と住み、清兵衛の「松ヶ崎山荘」で食べ残しの食材による「残肴(ざんこう)料理」を始めた。南莞爾を知る。1915年、北大路姓に改める。金沢の数寄者・細野燕臺(えんたい)邸の食客になる。山代温泉・須田菁華に絵付けを習う。1916年、金沢の料理店主人・大田多吉を知り料理・食器について学ぶ。1919年、同郷の友・中村竹四郎と日本橋に古美術商「大雅堂芸術店」を開いた。食・食器に拘り、料理に興味を抱き自ら厨房に立つ。北鎌倉に移る。1920年、「大雅堂美術店」に改称した。店で友人らに手料理をもてなす。1921年、器を創作した会員制食堂「美食倶楽部」を開き、食通に評判になる。北鎌倉・明日谷に移転した。1922年、菁華窯、京都の宮永東山・東山窯で焼く。魯山人を名乗る。1923年、関東大震災により大雅堂(美食倶楽部)は焼亡した。花の茶屋(芝山内)を借り美食倶楽部を再開した。1924年、東山窯で青磁を焼く。1925年、東京赤坂山王台に竹四郎と会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおか-さりょう)」を開く。顧問兼料理長になった。1927年、鎌倉大船山崎に星岡窯を築く。北鎌倉に「魯山人窯芸研究所星岡窯」を開設した。陶芸家・荒川豊蔵などを招く。鎌倉時代の古瀬戸を発掘した。1928年、朝鮮鶏龍山に杯土取得のために旅した。久邇宮邦彦が星岡窯を訪れる。第122代・明治天皇の行在所を移築し「慶雲館(後に慶雲閣)」にした。1930年、機関紙『星岡(せいこう)』を創刊した。1931年、『星岡』誌上で柳宗悦の民芸論を批判する。星岡茶寮に新館増築した。この頃より、骨董蒐集に専念した。1932年、チャップリンが星岡茶寮に遊ぶ。1933年、星岡茶寮銀座支店「銀茶(ぎんちゃ)寮」が開寮になる。1935年、瀬戸式大登窯で志野・織部・黄瀬戸などの再現に成功した。星岡茶寮旧館を改築し、大阪星岡茶寮が開寮になる。1936年、頒布会「鉢の會」が始まる。竹四郎により星岡茶寮を追われ対立する。(星岡事件)。この頃より作陶三昧になる。1938年、個人誌『雅美生活』を創刊し、4号で廃刊した。この頃より、良寛に傾倒する。1939年、萌葱金襴手の煎茶茶碗を完成させた。白木屋地下に「魯山人・山海珍味倶楽部」を開店させる。この頃より、漆器・濡額を製作した。1943年、慶雲閣に暮らした。1945年、大阪星岡茶寮、東京星岡茶寮・銀茶寮が相次いで空襲により焼失した。1946年、銀座に自作直売店「火土火土美房」を開く。1947年、『陶磁味』を創刊した。1948年、『陶磁味』3号で廃刊する。1949年、星岡窯に住んだ。イサム-ノグチ、山口淑子夫妻は一棟に入居した。1951年、パリ・チェルヌスキ美術館・ヴァロリス美術館の現代日本陶芸展に出品した。ピカソは紅志野皿を絶賛した。進駐軍新聞記者・シドニー-カードーゾを知る。1952年、個人生活誌『獨歩』を創刊する。備前窯を築く。1953年、日米協会・ロックフェラー3世夫妻が星岡窯を訪れた。1954年、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャ、エジプトを漫遊する。ピカソ、シャガールと会う。各地で展覧会・講演会が開催される。1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)を辞退する。1956年、東京の日枝神社境内に「星ヶ岡茶寮」を設立し、自ら調理も行う。人間国宝を再び辞退した。1957年、星岡窯の経営厳しく、技術主任・松島宏明が辞め窯は崩壊する。残された職人はやむなく贋作を始める。(贋作事件)。1959年、横浜で入院後に亡くなった。76歳。
 書・篆刻(てんこく)で身を立て、陶芸・漆芸・金工芸などを独学で手掛けた。古美術・絵画・料理などの幅広い作家活動・研究を続けた。料理研究家として、料理の真髄は、出汁・薄味による「心のこもった家庭料理、真心の料理」とした。素材選び、盛付、「食器は料理の着物」ととらえ、実用の「下手物」一切の創案・製作も行う。実業家・内貴清兵衛(ないき-せいべえ、1878-1955)、日本画家・富田渓仙(1879-1936)、日本画家・土田麦僊(1887-1936)らと親交した。最晩年まで数多くの作品展を行う。
 横浜で亡くなり、葬儀は自宅・慶雲閣で神式で催された。遠戚・丹羽茂雄を経て、数年後に娘・和子により西方寺近く市営・小谷墓地(北区西賀茂)に葬られた。
◆多梅雄 作曲家・多梅雄(おおの-うめお、?-?)。詳細不明。「鉄道唱歌」の作曲者。
 墓は京都市営・小谷墓地(北区西賀茂)にある。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』 、『魯山人の世界』、『永遠なれ 魯山人』、『北大路魯山人という生き方』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 小谷墓地 〒603-8846 京都市北区西賀茂鎮守菴町(ちんじゅあん-ちょう)
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