太田垣蓮月仮寓跡・下村家住宅 (京都市伏見区)  
Remains of temporary residence of Otagaki, Rengetsu
太田垣蓮月仮寓跡 太田垣蓮月仮寓跡
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「太田垣蓮月仮寓跡(おおたがき れんげつ かぐう あと)」の石標


文化庁登録有形文化財、京都市重要建造物の掲示プレート










辰巳蔵


辰巳蔵

戌亥蔵

戌亥蔵
 醍醐寺境内の南にある黒門の向かいに、茅葺の下村家住宅が建つ。一角に、「太田垣蓮月仮寓跡(おおたがき-れんげつ-かぐう-あと)」の石標が立てられている。
 近代の歌人・太田垣蓮月は、この地に晩年の2年半ほど住したという。
◆歴史年表 近代、1863年頃、太田垣蓮月(1791-1875)はこの地に移り、2年半ほど住したという。一時は、富岡鉄斎も同居していたという。
 現代、1986年、京都洛東ライオンズクラブは石標を立てた。
◆大田垣蓮月尼 江戸時代-近代の尼僧・歌人・陶芸家・大田垣蓮月(おおたがき-れんげつ、1791-1875)。本姓は藤堂、名は誠。京都の遊郭三本木に生まれる。父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。生後すぐに知恩院門跡に勤仕の大田垣光古の養女になる。1798年頃より、丹波亀山城で御殿奉公を務めた。1807年頃、望古と結婚する。夫子らを相次いで亡くし、1819年、古肥と再婚する。1823年、夫・古肥と死別後、養父・光古と共に剃髪し、蓮月と号した。知恩院内の「真葛庵」に移る。子、養父を亡くし岡崎村に移った。その後も住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれた。一説には勤皇の志士との交流があり、幕吏の目をそらすためだったともいう。言い寄る男に心身疲れ果て、自ら歯を抜き容貌を変えたという。「烈女」といわれた。歌人、陶芸家として知られ、和歌を釘彫りした 「蓮月焼」を生み、好評を博した。書、絵画も嗜んだ。富岡鉄斎を侍童にする。飢饉に寄付し、鴨川に丸太町橋も寄進した。1866年-1875年、亡くなるまでの10年間は、神光院(北区)の茶所(茶室 蓮月庵)に隠棲した。85歳。
◆歌集 太田垣蓮月が下村家に移り住んだという確証はない。醍醐について詠った歌も残されていないという。
 富岡鉄斎には、醍醐を題材にした作品があるという。
◆下村家住宅 下村家は、庄屋を代々務めていた。
 ◈下村家住宅の「主屋」(文化庁登録有形文化財、京都市重要建造物)は、醍醐道に北面した東西棟になる。江戸時代、1751年-1830年に建てられている。近代、1868年-1882年に増築されている。
 内部の東側にかつて土間があった。西側に2列5室ある。仏間、次の間に床がある。西側に切妻造、桟瓦葺の座敷2室が落棟で張り出している。 
 木造2階建、入母屋造、茅葺(琵琶湖産の葦)、一部瓦葺、建築面積132㎡。
 ◈「辰巳蔵」(登録有形文化財)は、江戸時代、1830年-1868年に建てられた。敷地南東角に建つ。かつて米蔵だった。和小屋を組み、外壁は鉢巻までの竪板張。
 梁間3.6m、桁行北側4.7m、南側4m、土蔵造2階建、切妻造、本瓦葺、建築面積16㎡。
 ◈「戌亥蔵(いぬいぐら) 」(登録有形文化財)は、敷地の北西角に建つ。渡廊下で主屋に接続する。江戸時代、1751年-1830年に建てられた。
 東面に蔵前を付設し、小屋組は登り梁、置屋根式の桟瓦葺。外壁は漆喰仕上げ、腰高に竪板張。
 桁行5.9m、梁間3.9m、土蔵造、2階建、瓦葺、建築面積32㎡。


❊非公開
原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『山科の歴史を歩く』 、ウェブサイト「文化庁 文化遺産オンライン」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 太田垣蓮月仮寓跡・下村家住宅 〒601-1338 京都市伏見区醍醐落保町53 
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