わやくや千坂漢方薬局(旧・千坂わやくや) (京都市中京区)  
Wayakuya Chisaka Kampo Pharmacy
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わやくや千坂漢方薬局


わやくや千坂漢方薬局


わやくや千坂漢方薬局、「北大路魯山人ゆかりの地」のプレート


わやくや千坂漢方薬局、プレート


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わやくや千坂漢方薬局


【参照】八百三(やをさん)(中京区)


【参照】八百三、作・北大路魯山人の「柚味噌」濡額(復元)
 二条通烏丸東入ルの「わやくや千坂漢方薬局(ちさか-かんぽう-やっきょく)」は、かつての屋号は「千坂わやくや」だった。
 近代の文人・北大路魯山人(きたおおじ-ろさんじん)が奉公していた。
◆歴史年表 近代、1870年以前?、初代・千坂忠七は、「千坂わやくや」(二条烏丸)を創業した。
 1893年、福田房次郎(北大路魯山人)は、梅屋尋常小学校を卒業し、10歳で養家の近くにあった和漢薬屋の問屋「千坂わやくや」に住み込みの丁稚奉公に出た。
 1896年、房次郎は画家になることを決意し、奉公先から養家に戻っている。
◆北大路魯山人 近現代の文人・北大路魯山人(きたおおじ-ろさんじん、1883-1959)。本名は房次郎、別号は魯卿(ろけい)、無境、夢境など。京都府愛宕郡上賀茂村の生まれ。上賀茂神社社家の禰宜(ねぎ)・清操(きよあや)の次男、母は登女(とめ)。1882年、父・清操は魯山人の誕生を待たずに亡くなっている。出生後すぐに、上賀茂巡査所・服部良知、妻・もんの世話により、坂本(大津市)の農家に里子に出される。その後、服部夫妻が連れ帰り、養子とし房次郎と名付けられた。その後、養子の巡査・茂精(房次郎の義兄)、妻・やす(房次郎の義姉)夫妻により育てられた。1889年、義姉の実家・一瀬家(上京区)で育てられる。服部家を離縁され、近所の木版師・福田武造・フサの養子に入る。暮らしは貧しくそれでも夫婦は食通だった。房次郎は「おさんどん(調理)」を担う。1893年、梅屋尋常小学校を卒業後、10歳で近くの和漢薬屋の問屋「千坂わやくや」(二条烏丸)の丁稚奉公に出された。1895年、近くの料理屋「亀政」の若主人・竹内棲鳳(後の日本画家・栖鳳)が描いた第4回内国博覧会の絵に感銘を受け、画家を志す。1896年、養家に戻る。画学校進学の志望はかなわず、養家の木版仕事を手伝う。この頃、便利堂・田中伝三郎を知る。1898年以後、社寺・商店主催の「一字書」で受賞を重ねる。1899年、西洋看板書で収入は安定した。1900年、近隣の人々は「先生」と呼ぶ。1903年、近視のため兵役免除になり上京した。丹羽茂正宅に居候する。自らの出自について知らされ、再会した実母には冷遇された。茂正の世話で子ども向け書道教室を開く。1904年、日本美術協会展覧会書道の部で、「隷書千字文」が一等賞二席に入る。1905年、版下書家・岡本可亭(岡本一平の父)に師事し、可逸(かいつ)と名乗る。帝国生命保険会社文書掛に出向した。1907年、独立し福田鴨亭(おうてい)と名乗った。1908年、安見タミを入籍した。その後も含め、生涯で5度の結婚・離婚を繰り返す。1910年、実母と朝鮮京城(ソウル)を旅行している。1911年、京城龍山印刷局書記になった。書・篆刻を学ぶ。1912年、上海を巡り帰国後、福田大観と名乗った。書道教室を再開した。1913年、落款(らっかん)印・濡額(ぬれがく、店頭看板)を彫る。栖鳳、数寄者・内貴(ないき)清兵衛、日本画家・富田渓仙らを知る。京都堺町六角に移る。1914年、清水寺・泰産寺に渓仙と住み、清兵衛の「松ヶ崎山荘」で食べ残しの食材による「残肴(ざんこう)料理」を始めた。南莞爾を知る。1915年、北大路姓に改める。金沢の数寄者・細野燕臺(えんたい)邸の食客になる。山代温泉・須田菁華に絵付けを習う。1916年、金沢の料理店主人・大田多吉を知り料理・食器について学ぶ。1919年、同郷の友・中村竹四郎と日本橋に古美術商「大雅堂芸術店」を開いた。食・食器に拘り、料理に興味を抱き自ら厨房に立つ。北鎌倉に移る。1920年、「大雅堂美術店」に改称した。店で友人らに手料理をもてなす。1921年、器を創作した会員制食堂「美食倶楽部」を開き、食通に評判になる。北鎌倉・明日谷に移転した。1922年、菁華窯、京都の宮永東山・東山窯で焼く。魯山人を名乗る。1923年、関東大震災により大雅堂(美食倶楽部)は焼亡した。花の茶屋(芝山内)を借り美食倶楽部を再開した。1924年、東山窯で青磁を焼く。1925年、東京赤坂山王台に竹四郎と会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおか-さりょう)」を開く。顧問兼料理長になった。1927年、鎌倉大船山崎に星岡窯を築く。北鎌倉に「魯山人窯芸研究所星岡窯」を開設した。陶芸家・荒川豊蔵などを招く。鎌倉時代の古瀬戸を発掘した。1928年、朝鮮鶏龍山に杯土取得のために旅した。久邇宮邦彦が星岡窯を訪れる。第122代・明治天皇の行在所を移築し「慶雲館(後に慶雲閣)」にした。1930年、機関紙『星岡(せいこう)』を創刊した。1931年、『星岡』誌上で柳宗悦の民芸論を批判する。星岡茶寮に新館増築した。この頃より、骨董蒐集に専念した。1932年、チャップリンが星岡茶寮に遊ぶ。1933年、星岡茶寮銀座支店「銀茶(ぎんちゃ)寮」が開寮になる。1935年、瀬戸式大登窯で志野・織部・黄瀬戸などの再現に成功した。星岡茶寮旧館を改築し、大阪星岡茶寮が開寮になる。1936年、頒布会「鉢の會」が始まる。竹四郎により星岡茶寮を追われ対立する。(星岡事件)。この頃より作陶三昧になる。1938年、個人誌『雅美生活』を創刊し、4号で廃刊した。この頃より、良寛に傾倒する。1939年、萌葱金襴手の煎茶茶碗を完成させた。白木屋地下に「魯山人・山海珍味倶楽部」を開店させる。この頃より、漆器・濡額を製作した。1943年、慶雲閣に暮らした。1945年、大阪星岡茶寮、東京星岡茶寮・銀茶寮が相次いで空襲により焼失した。1946年、銀座に自作直売店「火土火土美房」を開く。1947年、『陶磁味』を創刊した。1948年、『陶磁味』3号で廃刊する。1949年、星岡窯に住んだ。イサム-ノグチ、山口淑子夫妻は一棟に入居した。1951年、パリ・チェルヌスキ美術館・ヴァロリス美術館の現代日本陶芸展に出品した。ピカソは紅志野皿を絶賛した。進駐軍新聞記者・シドニー-カードーゾを知る。1952年、個人生活誌『獨歩』を創刊する。備前窯を築く。1953年、日米協会・ロックフェラー3世夫妻が星岡窯を訪れた。1954年、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャ、エジプトを漫遊する。ピカソ、シャガールと会う。各地で展覧会・講演会が開催される。1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)を辞退する。1956年、東京の日枝神社境内に「星ヶ岡茶寮」を設立し、自ら調理も行う。人間国宝を再び辞退した。1957年、星岡窯の経営厳しく、技術主任・松島宏明が辞め窯は崩壊する。残された職人はやむなく贋作を始める。(贋作事件)。1959年、横浜で入院後に亡くなった。76歳。
 書・篆刻(てんこく)で身を立て、陶芸・漆芸・金工芸などを独学で手掛けた。古美術・絵画・料理などの幅広い作家活動・研究を続けた。料理研究家として、料理の真髄は、出汁・薄味による「心のこもった家庭料理、真心の料理」とした。素材選び、盛付、「食器は料理の着物」ととらえ、実用の「下手物」一切の創案・製作も行う。実業家・内貴清兵衛(ないき-せいべえ、1878-1955)、日本画家・富田渓仙(1879-1936)、日本画家・土田麦僊(1887-1936)らと親交した。最晩年まで数多くの作品展を行う。
 横浜で亡くなり、葬儀は自宅・慶雲閣で神式で催された。遠戚・丹羽茂雄を経て、数年後に娘・和子により西方寺近く市営・小谷墓地(北区西賀茂)に葬られた。
◆竹内栖鳳 近代の日本画家・竹内栖鳳(たけうち-せいほう、1864-1942)。本名は恒吉、初号は棲鳳(せいほう)。京都の生まれ。料亭「亀政」(中京区)の一人息子。土田英林(えいりん)に学び、1881年、円山四条派・幸野楳嶺(こうの-ばいれい)に師事し、師と行動を共にする。棲鳳と号した。1882年、第1回内国絵画共進会に、「雁に双鶴」「瀑布」が入選した。1883年より、京都府画学校出仕した。1884年、第2回内国絵画共進会に「山水」「花鳥」を出品し褒状を受ける。1889年、京都府画学校出仕する。1895年/1899年、京都市美術工芸学校教諭になる。1900年、パリ万国博覧会展で「雪中燥雀」が銀牌を受ける。同博視察のため5カ月間にわたりヨーロッパを巡歴した、1901年、帰国後、号を栖鳳に改めた。1907年-1918年、第1回文展の審査員になり、「アレ夕立に」「絵になる最初(はじめ)」などを出品した。1909年-1924年、京都市立絵画専門学校教授を務めた。1913年、帝室技芸員、1919年、帝国美術院会員になる。1924年、フランスのレジオン・ドヌール勲章、1931年、ハンガリー最高美術賞、ドイツ・ゲーテ名誉賞を受賞した。1937年、第1回文化勲章を受ける。代表作品「和蘭春光・伊太利秋色」 (1902) 、「雨霽 (うせい) 」 (1907) など、著『栖鳳閑話』 。79歳。
 四条流、土佐派、狩野派に学び、ターナー、コローの西洋画法・油絵の描写法も取り入れた。日本画の近代化を進め、京都日本画壇を代表した。「東の大観、西の栖鳳」と並び称された。門下に上村松園、西村五雲、西山翠嶂(すいしょう)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちくきょう)、徳岡神泉(しんせん)らがいる。
◆南莞爾 近代の実業家・南莞爾(みなみ-かんじ、1881-1940)。詳細不明。東京火災(戦後・安田火災海上、現・損保ジャパン日本興亜)の社長を務めた。1914年、北大路魯山人を知る。1934年、副社長時代に、若き画家・東郷青児に印刷物のデザインを一任し後援した。
 魯山人作の濡額を見て感銘を受け、以来、魯山人を生涯にわたり支援した。 
◆千坂わやくや 近代、1870年以前に、初代・千坂忠七が和漢薬屋「千坂わやくや」(二条烏丸)を創業した。150年以上の歴史がある。
 1893年に、福田房次郎(魯山人)は、梅屋尋常小学校(4年制)を卒業した。10歳で養家近くにあった和薬問屋「千坂わやくや」の丁稚奉公に出されている。当時は3人の奉公人があった。住み込みで3年間奉公し、苦労はあまり感じなかったという。用事で外に出た機会に目にした店の看板、新聞で文字・書体を覚えていった。
 房次郎は、将来は画家になろうと決意し、1896年に奉公先から養家に戻っている。
 店は現存し、現在は「わやくや千坂漢方薬局」の屋号に変っている。2014年に5代目店主が引き継いだ。
◆栖鳳・魯山人 近代、1895年に内国勧業博覧会が開催され、房次郎は竹内棲鳳(後の日本画家・栖鳳)が描いた「百騒一睡/松間織月」に感銘を受けた。
 棲鳳宅は養家・福田家(上京区堀川丸太町油小路)の近く、同じ町内の御池通油小路に住むことを知る。棲鳳宅の向かいの御池通に仕出し料理屋「亀政」を構えており、その店の若主人だった。
 房次郎は、画家になることを決意し、奉公先をやめて養家に戻った。当時、棲鳳が教えていた京都市立絵画専門学校への進学はかなわなかった。やむなく、養家家業の木版仕事を手伝う。
 それから17年後の1913年に、房次郎は落款印・濡額(店頭看板)を彫りを始めている。同年に、房次郎は長浜の数寄者・柴田源七邸で、棲鳳に再会することがかなう。房次郎の話を聞いて棲鳳は驚いたという。棲鳳は房次郎に款印(かんいん)の仕事を依頼している。その後、2人は生涯にわたり親交した。
◆八百三 柚(ゆず)味噌の老舗「八百三(やをさん)」(中京区姉小路通東洞院西入車屋町270)には、作・北大路魯山人の「柚味噌」の濡額(看板、復元)が掛かる。店内には原版も飾られている。近代、1914年に制作された。
 魯山人作の濡額を見た東京火災(安田火災海上、現・損保ジャパン日本興亜)社長・南莞爾(みなみ-かんじ、1881-1940)は感銘を受けた。以来、魯山人を生涯にわたり支援した。 
 八百三は、江戸時代中期、1727年に、初代・八幡屋三四郎が野菜・果物・乾物の商いで創業した。初代の精進料理修行後に、精進料理の仕出しで皇室・社寺の御用達になる。その後、京の白味噌、水尾の柚を使った千利休好みの柚味噌を考案する。近代、大正期(1912-1926)以降に、現在の柚味噌専門店になった。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「わやくや千坂漢方薬局」、『京都大事典』、『魯山人の世界』、『北大路魯山人という生き方』、『永遠なれ 魯山人』、『言葉は京でつづられた。』、ウェブサイト「八百三」、ウェブサイト「グランプリ クインテットIV 生誕120年 東郷青児展 」、ウェブサイト「ま~ぶる!ラジオカーリポート-KBS京都」、ウェブサイト「コトバンク」


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map わやくや千坂漢方薬局 〒604-0854 京都市中京区仁王門町3,二条通烏丸東入ル phone number 075-231-2077
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