西方寺 ・五山送り火「船形」(京都市北区)
Saiho-ji Temple
西方寺  西方寺
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本堂


本堂


本堂
















「故蓮月尼紀念碑」


リチャード・ポンソンビーの「本尊美君碑」


西賀茂舟山(妙見山)

五山送り火の「船形」


六斎念仏(8月16日)


寺の東に見える比叡山


【参照】小谷墓地、境内の西隣にある。賀茂縣主の墓、複数存在する。



【参照】小谷墓地、大田垣蓮月墓、小谷墓地に入ったすぐの左手の石段を登った所。石標の案内が出ている。



【参照】小谷墓地、北大路家代々之霊墓。戒名は「妙法祥院高徳魯山居士」


【参照】小谷墓地、北大路家代々之霊墓、「春来草自生」(春来たりなば草自ら生ず)
 西方寺(さいほうじ)は、五山送り火の一つ「船形」の点される西賀茂・舟山(ふなやま、船山、妙見山)の南東にある。東には比叡山、南東には大文字山(如意ヶ岳)を見晴らすことができる。山号は来迎山(らいごうざん)という。 
 浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 平安時代、承和年間(834-848)/847年、第3代天台座主・慈覚大師円仁(794-864)により建立されたという。当初は天台宗山門派に属した。
 鎌倉時代、正和年間(1312-1316)、六斎念仏の道空(?-1315)が中興し、浄土宗に改められた。干菜寺(光福寺、左京区)の末寺になる。以後、六斎念仏弘通(ぐずう)の寺になる。
 江戸時代、1755年、「西加茂西方寺講中」と記されている。(『六歳支配村方控牒』)
◆円仁 平安時代前期の天台僧・円仁(えんにん、794-864)。俗姓は壬生、諡号は慈覚大師。下野国(栃木県)に生まれた。9歳で大慈寺・広智に師事した。808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事し、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て心身回復し、法華経書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立した。836年、837年、渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し、国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国し、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。『顕揚大戒論』、9年6カ月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。東京・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。71歳。
 没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。
◆道空
 鎌倉時代中期-後期の僧・道空(?-1315)。詳細不明。12世紀(1101-1200)中頃、六斎念仏を興し広めた。常行院(じょうぎょういん)を春日通烏丸に建て、六斎念仏を興した。寛元年間(1243-1247)、乙訓郡西山安養谷・東善寺を中興した。1264年、宮中に召され、第90代・亀山天皇に六斎念仏勤行の勅命を受けたという。干菜寺の中興開山、西方寺を中興したともいう。
◆大田垣蓮月尼 江戸時代後期-近代の尼僧・歌人・陶芸家・大田垣蓮月(おおたがき-れんげつ、1791-1875)。名は誠、法号は蓮月。京都の遊郭三本木に生まれる。父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。生後すぐに知恩院門跡に勤仕の大田垣光古の養女になる。1798年頃より、丹波亀山城で御殿奉公を勤めた。1807年頃、望古と結婚する。夫子らを相次いで亡くし、1819年、古肥と再婚する。1823年、夫と死別後、養父・光古と共に剃髪し、蓮月と号した。知恩院内の真葛庵に移る。子、養父を亡くし岡崎村に移った。その後も住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれた。一説には勤皇の志士との交流があり、幕吏の目をそらすためだったともいう。言い寄る男に心身疲れ果て、自ら歯を抜き容貌を変えたという。「烈女」といわれた。歌人、陶芸家として知られ、和歌を釘彫りした 「蓮月焼」を生み、好評を博した。書、絵画も嗜んだ。富岡鉄斎を侍童にする。飢饉に寄付し、鴨川に丸太町橋も寄進した。85歳。
 神光院の茶所(茶室 蓮月庵)には、1866年、76歳から、1875年に亡くなるまでの10年間を隠棲した。
◆リチャード.ポンソンビー.フェーン 近代の神道研究者・リチャード.ポンソンビー.フェーン(1878-1937)。イギリス、ロンドンのイースト・テラスの家で生まれた。父は貴族のジョン.ヘンリー.ポンソンビー.フェーン、母はフローレンス。正式名は、リチャード.アーサー.ブラバゾン.ポンソンビー.フェーン。1916年、父親の死に伴い家督を相続した。香港総督官の秘書官を経て、1919年、来日し、成蹊学園で教鞭をとる。1925年、上賀茂に移った。府立一中で英語を教えた。日本を愛し、皇室、神道史の研究者として知られた。59歳。
 1938年、友人らにより西方寺(北区)境内に碑が立てられた。
◆北大路魯山人 近現代の文人・北大路魯山人(きたおおじ-ろさんじん、1883-1959)。本名は房次郎、別号は魯卿、無境、夢境など。京都上賀茂の上賀茂神社社家の次男。父は自死し、6歳で木版師・福田家の養子になる。尋常小学校卒業後、10歳で薬屋の丁稚奉公に出た。15歳以後、「一字書」で受賞を重ねた。養家に戻り日本画を志す。1903年、上京し、1904年、日本美術展覧会書道の部で、隷書「千字文」が一等賞になる。福田鴨亭と名乗った。以後、書と篆刻(てんこく)で身を立て、古美術、絵画、陶芸、漆芸、料理などの幅広い作家活動と研究を続けた。1909年、朝鮮総督府書記、1910年、京都に戻る。1919年、日本橋に古美術商「大雅堂美術店」を開く。食と食器に拘り、料理に興味を抱き自ら厨房に立つ。1921年、器を創作した会員制食堂「美食倶楽部」を開く。1925年、東京赤坂山王台に中村竹四郎と会員制の高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を開く。顧問兼料理長になる。1927年、神奈川県北鎌倉に「魯山人窯芸研究所星岡窯」を開設した。荒川豊蔵などを招く。1936年、星岡茶寮を追われた。この頃より陶芸に専念した。1954年、欧米各地で展覧会と講演会が開催されている。1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)を辞退する。1956年、東京の日枝神社境内に「星ヶ岡茶寮」を設立し、自ら調理も行う。76歳。
 実業家・内貴清兵衛(ないき-せいべえ、1878-1955)、日本画家・富田渓仙(1879-1936)、日本画家・土田麦僊(1887-1936)らと親交した。
 横浜で亡くなり、墓は西方寺(西賀茂)にある。
◆賀茂季鷹 江戸時代中期-後期の国学者・歌人・賀茂季鷹(かもの-すえたか、1754-1841)。山本右膳、賀茂寅之助、号は生山、雲錦。京都・賀茂神社(賀茂別雷神社)の社家に生まれる。父は季種。叔父・季栄(すえひさ)の養子になる。12歳で皇族・有栖川宮職仁(ありすがわのみや-よりひと)親王に学ぶ。親王は、有栖川流書道を創始している。季鷹は江戸時代全盛期の「堂上歌学」を身につける。1773年頃、19歳で江戸に行き、古学を学ぶ。加藤千蔭、村田春海、三島自寛、大田南畝ら歌人・文人と交わる。1791年か1793年、帰京し、上賀茂神社祠官として、正四位下安房守になる。1801年、上賀茂に吉野の桜と龍田の紅葉を植栽し、「雲錦亭」と名づけて住む。1811年、柿本人麻呂、山部赤人の像を祀る「歌仙堂」を建てた。家集『雲錦翁家集』『万葉集類句』など数多い。91歳。
 和歌、狂歌を得意とし、書にも秀でた。京都歌壇を香川景樹と二分した。広く文人墨客と交遊した。
 没後、当初、上賀茂中河原墓地に葬られる。大正期(1912-1926)末年、西方寺の小谷墓地(北区西賀茂)に改葬された。
◆多梅雄 多梅雄(おおの-うめお、?-?)。詳細不明。「鉄道唱歌」の作曲者。
◆五山送り火 毎年8月16日8時15分、船山に船形万燈籠(京都市登録無形民俗文化財)が点火される。
 船形の舳先は、西方浄土を表す精霊船、弘誓(ぐせい)の船であり、菩薩が衆生を済度し、涅槃の彼岸に人を乗せて渡すことを意味している。 
 寺の開祖・慈覚大師円仁は、2度の遣唐使派遣に失敗した後、838年の3度目の唐留学の途上に船で嵐に遭う。「南無阿弥陀仏」を唱えると、船は全壊したものの無事渡航し、還ることを果たした。そのことに因んで、送り火は船形に象られたという。また、平安時代初期に、付近にあった霊巌寺の北辰妙見菩薩に奉じた御灯行事を起源にするともいう。少なくとも江戸時代初期には、現在のような形での送り火が行われていた。
 現在の西賀茂舟山(315m)は、西賀茂山、妙見山、万灯籠山(まんとうろうやま)とも呼ばれた。かつて、点灯に際して南の鐘打山より合図の鐘を鳴らしていた。西方寺と船形万灯籠保存会(西賀茂鎮守庵町、総門口町、今原町)により維持されている。船形万燈籠の火床は、三方ブロック積であり、その上に松割木を井桁に組む。左船体93m、右船体93m、帆113m、船の深さ40m、火床79基(82基とも)。
◆六斎念仏 五山送り火(8月16日)の当日に、送り火が終了した午後9時頃より、境内で六斎念仏が奉納されている。六斎念仏は、鉦や太鼓にあわせ念仏を唱える。
 京都の六斎念仏の起源は、平安時代、空也上人が始めたとされる「踊躍念仏」という。人々に仏教を広めるために、「六斎日」 (毎月8日、14日、15日、23日、29日、30日)の六日、市中各所で、鉦や太鼓を打ち念仏を唱え踊ったことに由来するという。
 当寺の六斎念仏は、道空上人が広めたといわれる干菜寺(ほしなでら)六斎念仏(念仏六斎)の流れを汲む。襟と帯が黒い白装束の男性達は、水色の手甲を付け、手に鉦と小太鼓を持つ。唱名念仏に合わせて、膝を屈伸させて踊る。全体的に抑制された動きで念仏を唱える。古い様式が残されているという。
◆墓地 境内には、幕末の歌人・大田垣蓮月尼(おおたがき れんげつに)の碑、皇室制度、神道史の研究家イギリス人リチャード・ポンソンビー・フェーンの「本尊美君碑」碑がある。
 寺の西にある小谷墓地には、蓮月、上賀茂神社の祠官・賀茂季鷹(かもの すえたか)、「賀茂県主」累代、「鉄道唱歌」作曲者・多梅雄(おおの うめお)、料理人・陶芸家・北大路魯山人(きたおおじ ろざんじん)などの墓もある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『日本の名僧』、ウェブサイト「コトバンク」


神光院  正伝寺  干菜寺(光福寺)  関連大文字山・如意ヶ岳・大文字送り火  尊攘堂    
西方寺・五山送り火「船形」 〒603-8846 京都市北区西賀茂鎮守菴町50   075-492-5889 
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