角倉了以水利紀功碑 (京都市伏見区)  
Monument of Suminokura,Ryoi
角倉了以水利紀功碑 角倉了以水利紀功碑
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角倉了以水利紀功碑


角倉了以水利紀功碑


角倉了以水利紀功碑


副碑


説明版


江戸時代の高瀬川(左上)、濠川(その右)、現在地は2川の合流点付近、説明版より


濠川

濠川、伏見であい
 伏見の濠川(ごうかわ)に架橋された伏見であい橋西詰付近に、「角倉了以水利紀功碑(すみのくら-りょうい-すいり-きこう-ひ)」が立てられている。
 江戸時代に、高瀬川開削をした角倉了以の功績を顕彰するために立てられてた。
◆歴史年表 江戸時代、1611年、角倉了以により高瀬川開削が起工される。
 1614年、8月、了以が亡くなる。秋、子・素庵が引き継ぎ高瀬川は完成した。
 近代、1899年、12月、運漕業者有志により碑が建立される。
◆角倉了以 室町時代後期-江戸時代前期の海外貿易家・豪商・土木事業家・角倉了以(すみのくら-りょうい、1554-1614)。与七、諱は光好、法号は了以。京都嵯峨の生まれ。土豪(高利貸)・医者・吉田宗桂(そうけい)の長男。母は中村氏の娘。父は勘合貿易により薬も扱った。了以は算数・地理を父に学び、角倉家5代として家業を引き継ぐ。1592年、豊臣秀吉から朱印状を与えられた。1604年以降、徳川氏から朱印状を与えられた。1603年-1613年、弟・宗恂、長男・与一(素庵)らの協力により、安南国(ベトナム)のトンキン(東京)との御朱印船(角倉船、400人乗り、800t)貿易により富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削(丹波-山城)を行う。保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓く。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。通舟料を得て莫大な利益を得る。1608年、幕府の命により、富士川(駿河岩淵-甲府)疏通を完成させる。同年、天竜川(遠江掛塚-信濃諏訪)開疏は失敗した。1609年以降、貿易は子・与一に譲る。1610年、方広寺大仏殿造営の材木運搬のために、鴨川開削(水路化)を行う。1611年-1614年、高瀬川(京都二条-伏見)開削を行う。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年、大悲閣(西京区)に隠棲し、開削川の通船の便益を念じたという。
 薬物の輸入に尽力した。土木工事の技術に長けた。琵琶湖疏水(勢多-宇治)計画では、舟行、新田開発の腹案もあった。角倉家は河川通船支配権、倉庫料徴収での特許を得て有力材木商になる。京の三長者(ほかに、後藤四郎兵衛家、茶屋四郎次郎)の一人といわれた。61歳。
 墓は二尊院(右京区)にある。
◆角倉素庵 安土・桃山時代-江戸時代前期の豪商・文化人・角倉素庵(すみのくら-そあん、1571-1632)。名は光昌、玄之(はるゆき)、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵。角倉了以の長男、母は吉田栄可の娘。父の朱印船貿易、河川開発事業を継承した。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」の一人とされた。1599年、『史記』の刊行以降、1601年頃まで、光悦の協力を得て嵯峨本を刊行する。1603年から、父・了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、日本国回易大使司を称し、角倉船を海外派遣した。父の大堰川、富士川、天竜川の開削、鴨川水道、高瀬川の運河工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、1614年-1615年、大坂の陣で船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲した。61歳。
 歌、茶の湯、書は角倉流(嵯峨流)を創始した。近世の能書家の五人の一人になる。
 墓は化野念仏寺(右京区)、二尊院(右京区)にもある。
◆高瀬川 高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代前期、1611年に方広寺大仏殿の再建の際に、徳川幕府の認可を受け資材運搬のために起工した。輸送には高瀬舟が用いられ高瀬川と呼ばれる。角倉了以が手掛けたことから「角倉川」とも称された。なお、伏見区以南は「東高瀬川」、そのうち、伏見区景勝町で琵琶湖疏水と合流してからは「新高瀬川」という。
 了以は、用地の買収費を負担し、運河開削のために買収した土地から得られていた年貢も肩代わりし負担したという。1614年8月に、了以は亡くなる。その後、子・素庵に開削事業は引き継がれ、同年秋に完成した。
 流路は、二条大橋西畔から鴨川の水を引き入れ、鴨川西岸を南流する。中京区、下京区を経て、南区東九条柳下町で鴨川に一端合流する。その後、東山区福稲(ふくいな)南西部から鴨川東岸を南流し、伏見区市街地西部を流れ、伏見区横大路下三栖東ノ口で宇治川に流入する。
 高瀬川が開かれてから、京都、伏見、大坂間の水運による物資輸送に利用された。川は平坦な水路であり、水量も調節できたため容易に運漕することができた。
 川幅7m、全長10km。開削費用7万5000両。
◆濠川 濠川(ほりかわ)は、安土・桃山時代、1594年に豊臣秀吉(1536-1598)による伏見城築城、城下町造成に伴い外堀として開削された。建築資材の運搬に利用されている。このため「ほり」とも呼ばれた。江戸時以降-明治期(1868-1912)まで水運として利用されている。
 流路は、伏見区堀詰町から南下し、市内を流れ、葭島金井戸町(よしじま-かないど-ちょう)で宇治川に流入した。
。近代になり琵琶湖疏水に繋がれ、三栖閘門(みすこうもん)から宇治川に流入している。
 川幅5.5m、全長3km。
◆碑 「角倉了以水利紀功碑」は、近代、 1899年に立てられた。
 発起人38人により高瀬川を開いた了以の功績を顕彰するためだった。揮毫は京都府知事・内海忠勝(1843-1905)による。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都大事典』、ウェブサイト「コラム 江戸時代のPFI-豪商による運河開削」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 角倉了以水利紀功碑 〒612-8232 京都市伏見区三栖半町487 伏見みなと公園内
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