三井京両替店跡(新町三井家邸跡) (京都市中京区)  
ruins of Mitsui Kyoto Exchange Shop
三井京両替店跡(新町三井家邸跡) 三井京両替店跡(新町三井家邸跡)
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 新町通六角下ル西側に、「三井京両替店跡(みつい-きょうりょうがえてん/きょうりょうがえだな-あと)・新町三井家邸跡(しんまちみついけてい-あと)」の木標、駒札が立てられている。
 かつてこの地に、三井家事業・三井財閥の創業者、三井高利の両替店があり、高利は晩年を過ごした。現在は、三井住友銀行京都新町寮が建てられている。
◆歴史年表 鎌倉時代、1209年、この地には後鳥羽院(第82代)の仙洞御所(押小路烏丸殿、三条坊門殿跡)が置かれたという。
 江戸時代初期、龍野藩脇坂家の京藩邸の一部になったという。
 1686年、三井高利が、この地に両替店(新町通六角下ル)を開く。江戸・大坂・京都3都の両替事業の本拠になり、居宅も移した。晩年、事業を統括しながらこの地で過ごした。 
 1694年、高利は現在地の両替店奥の屋敷で亡くなる。
 近代、1876年、日本初の私立銀行「三井銀行」が設立され、この地には同行西京分店が置かれる。後に京都支店になった。
 1904年、京都支店は四条通烏丸角に移転した。
 現代、1956年、邸内にあった常盤殿は、八坂神社境内(東山区)に移築されている。
 近年まで、現在地の奥に三井十一家の一つ、新町三井家の邸宅が存在していた。現在は、三井住友銀行京都新町寮が建てられている。
◆後鳥羽天皇
 平安時代後期-鎌倉時代中期の第82代・後鳥羽天皇(ごとば-てんのう、1180-1239)。諱は尊成(たかひら)、法名は良然、別名に顕徳院、隠岐(おきの)院、後に後鳥羽院。第80代・高倉天皇の第4皇子。母は准后七条院藤原殖子 (やすこ/しょくし、坊門信隆の娘) 。1183年、平氏は、第81代・安徳天皇(後鳥羽天皇の兄)、第2皇子・守貞(もりさだ)親王を伴い都落ちする。都には天皇不在になり、祖父・後白河法皇(第77代)の詔により、神器がないままに尊成親王が4歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)した。一時、天皇が2人存在する事態になる。1184年、即位の式を挙げた。1190年、元服する。1192年、院政を敷いた後白河法皇の没後、4歳の後鳥羽天皇の親政になる。実権は関白・九条兼実、1196年、その失脚後は源(土御門)通親が握った。(建久七年の変)。1198年、幕府の反対を押し切り、皇子・為仁親王(第83代・土御門天皇)に譲位し院政を始める。以後、第84代・順徳天皇(土御門の弟)、第85代・仲恭天皇(順徳の子)と3天皇に23年に渡り院政を敷いた。1199年、上皇により九条良経が左大臣に任命され、九条家が復帰した。1202年、通親の没後は、強権的になる。1219年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、幕府は後継将軍として上皇皇子を要請する。上皇は拒絶し、幕府からの政権奪取を目指し、畿内、近国の兵を集める。1221年、執権・北条義時追討の宣旨を出して挙兵し、承久の乱になる。幕府が上洛させた北条泰時らの大軍に上皇方は敗れる。鳥羽殿に幽閉され、出家し良然(金剛理とも)と称した。幕府は平氏に育てられ即位していない、兄・後高倉院に院政を執らせた。仲恭天皇は退位し、1221年、第86代・後堀河天皇(後高倉院の子)を即位させる。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を配流した。後鳥羽上皇は隠岐に流される。1235年、遷京の動きは幕府により拒否された。1239年、隠岐での18年の生活の後に同地苅田で没した。60歳。
 第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第85代・仲恭天皇の3天皇に院政を敷いた。西面の武士を新設する。白河に最勝四天王院を建て、水無瀬、鳥羽、宇治などに院御所を営んだ。1198年以来、熊野詣は28回に及ぶ。芸能(蹴鞠、琵琶、笛)、武技(流鏑馬、犬追物、相撲、水泳)、刀剣鍛造も行った。和歌にも長じ、1201年、和歌所を設ける。千五百番歌合は名高い。藤原定家らに『新古今和歌集』(1205)を勅撰させた。日記に『後鳥羽天皇宸記』がある。
 上皇の死の前後に、1234年、第85代・仲恭天皇、第86代・後堀川天皇、1240年、北条時房、1242年、北条泰時らが相次いで亡くなる。無念の死を遂げた上皇の怨霊による仕業と怖れられた。上皇の当初の諡号は顕徳院であり、祟りを怖れ、後鳥羽院に改められた。
 火葬塚は、島根県隠岐郡海士町にある。1658年、松江藩主・松平直政が修理した。遺骨は大原陵(左京区)に葬られる。
◆三井高利 江戸時代前期の呉服商・両替商の三井高利(みつい-たかとし、1622-1694)。通称は八郎兵衛、三井総領家初代八郎右衛門、法名は宗寿。伊勢国(三重県)松坂の生まれ。三井越後守高安の子・三井則兵衛高俊の4男、母は永井氏娘・殊法(しゅうほう)。両親は酒、味噌、質商を営む。母が店を取り仕切った。1633年、父を失う。1635年、江戸の長兄・俊次の呉服店に見習いに出る。1649年、俊次に疎んじられ、一時松坂に帰される。米売買、金融業(大名貸、家中貸、郷貨)により蓄財した。妻・中川氏娘・かね(寿讃)との間に10男5女をもうける。1673年、兄没後、長男・高平とともに江戸本町に「越後屋八郎右衛門(三越前身)」、京都・室町薬師町でも高平と呉服業の仕入店(しいれだな)を始める。1683年、江戸を皮切り両替店(りょうがえだな)もに併設した。1686年、京都に両替店(新町通六角下ル)を開く。3都の両替業の本拠になり居宅も移した。1687年、綿店(わただな)を開設する。1691年、大坂に両替商を開業する。幕府御用達になった。晩年、京都に移り、両替店奥の屋敷で亡くなる。73歳。
 生産者からの直買による商品低価格化、薄利多売現銀(金)掛値なし(現金定価販売)、正札販売、呉服物の小切販売、即座仕立て、期間限定の安売り、店内での分業制、店員への賞与制・給金の運用預りなども採用した。大名、武士、庶民に顧客を得て繁盛した。幕府より公儀呉服御用達、金銀御為替御用達を命じられ、商人の理想「江戸店持京商人(えどだな-もちきょう-あきんど)」になる。三井家第2代、三井家事業・三井財閥の創業者になる。
 墓地は真如堂(左京区)にある。
◆仙洞御所 平安時代、かつてこの付近には、第67代・三条天皇の皇女・陽明門院(禎子内親王、1013-1094)の御所があったという。後に後鳥羽院(1180-1239、第82代)の寵臣・藤原範光(1154-1213)の邸宅になる。
 鎌倉時代、1209年に後鳥羽院の仙洞御所(押小路烏丸殿、三条坊門殿跡、中京区二条殿町、御池之町、龍池町付近)になったという。現在地の北東方向になる。
 その後、上皇は院御所の高陽院(かやのいん、中京区・上京区、西洞院大路の西・大炊御門大路の北)に移り、乱の謀議を行う。1221年に上皇は、北条義時追討の院宣を発し、鳥羽離宮の城南宮で鎌倉幕府打倒の挙兵をする。この承久の乱は失敗し、上皇は隠岐に配流され、1239年にその地で没した。
 跡地は、後に第83代・土御門天皇中宮陰明門院(1185-1243)の御所になり、1222年に焼失した。1257年には後嵯峨院(1220-1272、第88代)の御所が造営された。
◆龍野藩 譜代藩の龍野藩は、江戸時代に、播磨国揖西(いっさい)郡龍野(現・兵庫県たつの市)に藩庁を置いた。
 赤松氏、池田氏を経て、1617年、上総(かずさ)国大多喜(おおたき)藩から本多政朝(ほんだ-まさとも、1599-1638)が転封して立藩した。1626年、政朝は兄・忠刻(ただとき)の死により姫路藩の藩主になる。その甥・小笠原長次(ながつぐ)が入封した。その後、岡部氏、京極氏を経て、1672年、信濃国飯田藩から外様大名・脇坂安政(わきざか-やすまさ、1633-1694)が入封し、近代まで10代続いた。
 近代、1871年の廃藩置県で龍野県になり、姫路県、飾磨(しかま)県を経て、1876年に兵庫県に編入された。
◆両替業 中世に替銭屋(かえせんや)、割符屋(さいふや)があり、室町時代末期に両替屋(両替商)が興こる。
 両替屋は江戸時代に隆盛し、江戸、大坂、京都の3都が特に知られた。金銀貨を交換する本両替、金銀貨を銭に交換し手数料をとる銭両替、小両替などがあった。本両替は、金銀銭3貨の両替、金銀売買、為替、預金、貸付け、手形振出し、公金取扱業務などにあたった。
 三井は、江戸時代、1691年に幕府から金銀御為替御用を命じられ、両替屋は呉服販売業とともに三井の主要事業になる。高利の遺書「書置之次第」(1694)には、三井家の結束を強める三井十一家の同族組織を形成すること、大元方(おおもとかた)制による共同経営形態をとることなどが遺訓にされていた。大元方制は、同族のみで形成され、本家当主が総轄し、経営方針は寄合で決定された。事業資産は分割せず共有にすること、利益の同族への一定比率による配分にすることなどが厳守された。いずれも当時としては先進的な組織形態だったという。
 三井は、明治維新後に新政府の金融事務を取り扱う。両替業は、近代の三井財閥の礎になった。
◆三井銀行 都市銀行の「三井銀行」は、現在の三井住友銀行前身の一つになる。第2次世界大戦後の財閥解体まで、三井財閥の機関銀行として機能した。五大銀行(ほかに三菱銀行、住友銀行、安田銀行[後の富士銀行]、第一銀行)中の筆頭だった。
 江戸時代、1683年に創業された「三井両替店」を基礎にする。近代、1874年に「為替バンク三井組」を開業した。1876年に日本初の私立銀行、私盟会社「三井銀行」を設立する。1893年に合名会社、1909年に株式会社に改組した。1911年に担保付社債信託業を兼営する。1913年に外国為替業務に進出した。1943年に第一銀行と対等合併し、「帝国銀行」を新設する。1944年に十五銀行を合併し最大の普通銀行になった。
 第二次世界大戦後の財閥解体に伴い、1948年に旧三井・十五銀行系と旧第一銀行系に分離し、前者は新生「帝国銀行」を設立する。1954年に再び「三井銀行」に社名変更した。1968年に東都銀行を合併する。1990年に太陽神戸銀行と合併し「太陽神戸三井銀行」になった。1992年に「さくら銀行」に社名を変更した。2001年に住友銀行と合併し「三井住友銀行」になる。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 駒札「三井京両替店跡(新町三井家邸跡)」、ウェブサイト「三井広報委員会」、『京都大事典』、ウェブサイト「銀行変遷史データベース-銀行図書館」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 三井京両替店跡(新町三井家邸跡) 〒604-8217 京都市中京区六角町,新町通六角下ル
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