大村益次郎遺跡(寓居跡) (京都市中京区)  
Ruins of Omura,Masujiro Temporary Residence
大村益次郎遺跡(寓居跡) 大村益次郎遺跡(寓居跡)
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「兵部大輔 従三位 大村益次郎公遺址」の石標
 木屋町押小路下ル東側に「兵部大輔 従三位 大村益次郎公遺址(ひょうぶたゆう-じゅさんみ-おおむら-ますじろう-こう-いせきあと)」の石標が立つ。
 江戸時代後期-近代の兵学者・大村益次郎は、この地にあった宿所で襲撃された。
◆歴史年表 江戸時代、この地には、長州藩藩邸控屋敷があり、大村益次郎の常宿にもなっていた。
 近代、1869年、7月、益次郎は、軍政根拠地を京阪地方に置くための視察で入洛する。9月、木屋町の旅宿(現在地)で長州・神代(こうじろ)直人ら8人に襲撃され負傷した。11月5日(新暦12月7日)、襲撃時の傷がもとで大阪の病院で亡くなる。
 1926年、陸軍少将・山口鹿太郎により石標が立てられた。 
◆大村益次郎 江戸時代後期-近代の兵学者・大村益次郎(おおむら-ますじろう、1825-1869)。長州(山口県)生まれ。村田蔵六。村医・村田孝益の長男。防府・蘭医・梅田幽斎に入門し、豊後・広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。1846年、大坂・緒方洪庵の適塾に医学、蘭学を学ぶ。1848年、適塾塾頭になる。長崎でシーボルトにオランダ医学を学んだ。1850年、帰郷して医業を開く。1853年、洋式兵学の専門家として宇和島藩に招かれ、1856年、江戸で「鳩居堂」を開塾し、幕府蕃書調所教授手伝、講武所教授に就任した。1860年から、長門萩藩に仕え軍制改革を行う。兵学を教え、兵書翻訳、軍艦製造も行う。伊藤博文らの海外密航も斡旋した。1865年、高杉晋作の働きにより軍司係に抜擢される。1866年、第二次長州戦争で石州口参謀になる。1868年、王政復古後、明治新政府の軍事指導者になり、戊辰戦争で官軍を指揮した。軍政事務として彰義隊征討、軍務官副知事になり箱館を鎮定した。1869年、兵部大輔になる。フランス陸軍、イギリス海軍を模範とし、近代兵制の確立に努めた。藩兵解散、徴兵制実施、鎮台・鎮守府を設置した。京都視察で、9月、長州の神代(こうじろ)直人ら8人に木屋町の旅宿で襲撃され負傷した。11月5日(新暦12月7日)、大阪で死去した。46歳。
 陸軍の創立者であり、その構想は山県有朋らに受け継がれた。
◆神代直人  江戸時代後期-近代の武士・神代直人 (こうじろ-なおと、1842-1869) 。長門萩藩。大楽源太郎の西山塾に入り、尊攘派になる。1869年、同塾の太田光太郎らとともに大村益次郎の暗殺を計画し、京都で襲撃した。逃走中の小郡で逮捕され、萩で処刑された。28歳。
◆山口鹿太郎 近代の軍人・山口鹿太郎 (やまぐち-しかたろう、 ?-? ) 。詳細不明。京都生まれ。陸軍士官学校9期卒、1913年、憲兵少佐、1916年、関東憲兵隊長、1917年、京都憲兵隊長、1918年、 陸軍憲兵大佐 、青島憲兵隊長、1922年、 京城憲兵隊長、1923年、陸軍少将、 待命、1923 年、予備役。  
◆襲撃事件 近代、1869年、7月、益次郎は、軍政根拠地を京阪地方に置くための視察で入洛する。9月、益次郎は、木屋町の常宿の旅宿(現在地)で仲間と食事をとった。
 長州藩士の不満分子・神代(こうじろ)直人ら8人に襲撃され重傷を負う。この時は、重傷を負いながらも一命は取り留めた。その後、大阪の病院でオランダ人医師・ボードウィンの治療を受けた。11月5日(新暦12月7日)、襲撃時の傷がもとで亡くなった。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『新選組と幕末の京都』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」、ウェブサイト「科・期別索引 陸士1∼10期」


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map 大村益次郎遺跡(寓居跡) 〒604-0923 京都市中京区上樵木町495-1,木屋町通御池上ル東側
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