若宮八幡宮 (京都市山科区)  
Wakamiya-hanchimangu Shrine
若宮八幡宮 若宮八幡宮
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拝殿








幣殿


幣殿

幣殿

幣殿


本殿

本殿




天満宮


天満宮 


天満宮


天満宮


観音堂


観音堂


観音堂


大津皇子の供養塔、粟津王の供養塔



「大津皇子之供養塔、粟津王之供養塔」の石標



大津皇子の供養塔



粟津王の供養塔



墳墓








カツラの大木

 音羽森廻り町(おとわ-もりまわりちょう)に若宮八幡宮(わかみや-はんちまんぐう)はある。
 祭神は 第16代・仁徳天皇(にんとく-てんのう)、第15代・応神天皇(おうじん てんのう)、神功皇后(じんぐう-こうごう)、須佐之男命(すさのおのみこと)、第40代・天武天皇(てんむ-てんのう)の5神を祀る。
  厄除開運の信仰がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。  飛鳥時代、7世紀(601-700)後半、662年-669年頃とも、第38代・天智天皇は、志賀の都から山科郷へ巡幸した。この時、音羽の杜に八幡神を勧請したのが始まりという。当初は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后の3柱を祀った。(寺伝)
 平安時代、神仏習合期に神宮寺の観音寺が建てられる。十一面千手観音、不動明王、毘沙門天が勧請、安置されている。
 1087年、第73代・堀河天皇により本殿は造営された。
 南北朝時代-室町時代、応永年間(1394-1428)、北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇(在位: 1382-1412)の頃、社殿が再建される。
  1396年とも、後小松天皇により本殿は造営された。
 江戸時代、1667年、本殿は造営される。
 1752年、本殿は造営された。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により観音堂は廃された。仏像は他所へ遷された。
 1870年以降、それまで朝廷より受けていた5斗の神供米が廃止になった。
 1872年、十一面千手観音は光照寺に遷されている。
 1873年、8月、村社に列せられる。
 1886年、本殿は造営された。
 1907年、神饌幣帛料供進神社に指定された。
 昭和期(1926-1989)、本殿は3度造営された。
 現代、1967年、観音堂が再建される。仏像が戻される。
 1990年、本殿社殿を数m後退させて幣殿を設けた。
◆天智 天皇 飛鳥時代の第38代・天智 天皇(てんじ-てんのう、626-672)。男性。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのみこと) 、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、葛城(かずらきの)皇子などとも称された。第34代・舒明(じょめい)天皇の皇子、母は宝皇女(後の第35代・皇極天皇、第37代・斉明天皇)。644年、中臣鎌子(なかとみのかまこ、藤原鎌足)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)と共に、蘇我氏の横暴に対して打倒を図る。645年、大極殿において蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した。皇極天皇は初の生前譲位により、軽(かる)皇子(第36代・孝徳天皇)が即位した。自らは皇太子として実資的な執政を行う。646年、大化の年号が始まり、大化の改新を断行する。出家し吉野に隠棲していた、異母兄・古人(ふるひと)大兄皇子を討つ。甘樫丘(あまかしのおか)の蘇我蝦夷を威嚇し自殺する。(乙巳[いつし]の変)。改新の詔が発せられ、公地公民制の実現を図る。649年、冠位十九階が制定された。蘇我倉山田石川麻呂を自決させた。652年、班田収授法を施行した。戸籍が作成される。653年、第2回遣唐使が派遣される。(都合5回)。654年、第37代・斉明天皇が重祚(退位した天皇が再び皇位につく)し即位する。中大兄は皇太子にとどまる。658年、孝徳天皇の子・有間(ありま)皇子を謀反の名目で処刑した。蘇我赤兄(そが の あかえ)の謀りによる。蝦夷征伐する。661年、斉明天皇の没後、即位せずに7年間政務を執る。(素服称制[そふくしょうせい] )。662年、新羅に軍船を送る。663年、日本の水軍27000は新羅を攻める。倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との白村江(はくすきのえ)で敗れ、戦後処理などを行う。664年、二十六階の冠位制を設け、氏上(うじのかみ)など官人の整備を行う。対馬、壱岐、筑紫国に防人(さきもり)、烽(とぶひ)を置く。筑紫に水城(みずき)、九州-奈良盆地に朝鮮式山城を築いた。665年、百済よりの亡命渡来人400人を近江国神前郡に定住させた。667年、大和・飛鳥より近江・大津京に遷都し、弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟とした。668年、即位する。大津京鎮護のために、大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神(大物主大神)を大宮(現在の日吉大社西本宮)に勧請した。初の法律の成文化された法典・近江令(おうみりょう)全22巻を施行したともいう。公的には近代まで存続した。670年、初の戸籍、庚午年籍(こうごねんじゃく)を作る。671年、大友皇子を太政大臣とし、政権確立を意図した。
 天皇制的中央集権の強化のため、中国の制度、文物を移入した。百済より亡命の鬼室集斯(きしつ-しゅうし)を学職頭に任じた。自ら製造したという漏刻(ろうこく、水時計)を初めて用いる。『万葉集』に4首の歌を残している。
 近江大津宮で亡くなる。陵墓は山科陵(山科区)とされている。46歳。
◆大津 皇子 飛鳥時代の皇族・大津 皇子(おおつ-の-おうじ、663-686)。男性。父・第40代・天武天皇、母・大田皇女(第38代・天智天皇の皇女)の第3皇子。母の姉に万葉歌人・大伯(おおくの)皇女がいる。太政大臣に任じられた。672年、壬申の乱で、近江を脱出し、鈴鹿で父の使者に会い、伊勢国で父の一行と合流した。679年、吉野宮での誓盟に参加し、天武天皇の前で皇后(後の第41代・持統天皇)、天武天皇、天智天皇の6人の皇子が協力することを誓った。683年、国政に参画した。686年、封400戸を加えられる。686年、天武天皇の没後、草壁皇子と対立する。天智天皇の子・川島皇子の密告により、皇位継承をめぐる謀反嫌疑により、訳語田(おさだ)の家で自死に処された。24歳。妃の山辺(やまべ)皇女も殉死した。
 文武に優れた。漢詩人・歌人であり、『万葉集』に短歌、『懐風藻』に詩を遺した。辞世「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」
 墓は二上山の雄岳(奈良県)にある。
◆粟津王 飛鳥時代の皇子・粟津王(あわづおう、?-?)。詳細不明。男性。父・大津皇子、母・山辺皇女の第2王子。686年、父が皇太子・草壁皇子に謀反したため、肥前(備前とも)に配流になった。後に赦されたという。
◆祭神 当初は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后の3神柱を祀った。
 後に、末社・出雲社を廃し、祭神・素盞鳴命を本社に合祀している。
 その後、大津皇子の子・粟津王の末裔とされる粟津氏が、音羽の地を拓いて居住した。その祖・天武天皇も合祀された。
◆建築 本殿、拝殿、観音堂などが建つ。
 「本殿」は、1990年に社殿を数m後退させ、幣殿を設けている。
◆観音堂 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により観音堂は破却された。仏像はほかに遷される。1872年に、本尊「十一面千手観音」は光照寺に遷されている。
 現代、1967年に観音堂が再建され、本尊「十一面千手観音」、脇侍の「不動明王」、「毘沙門天」が戻され、いまも安置されている。
◆粟津 当社の氏子に粟津姓が多いという。粟津家は、音羽村に居住した山科郷士になる。代々にわたり重(十)右衛門を名乗った。
◆墓 境内には宝篋印塔(供養塔)2基が立てられている。右は大津皇子、左は粟津王の墓とされる。
 墓石は、後世の鎌倉時代後期(室町時代初期とも)のものという。宝篋印塔は、粟津家末裔により立てられたという。
 塔の背後に古墳があり、社の勧請以前からあったともいう。
◆末社 末社・天満宮に、宇治稚郎子命(うじのわきいらつこ)、菅原道真(すがわら-の-みちざね)を祀る。
◆樹木 境内にカツラの大木がある。市街地では数少ないという。京都市指定保存樹、区民の誇りの木に指定されている。
 クスノキ、サクラの大木がある。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
参考文献・資料 京都市の駒札、『京都山科 東西南北』、『山科の歴史を歩く』、『史料 京都の歴史 11 山科区』 、『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 若宮八幡宮 〒607-8066 京都市山科区音羽森廻り町36   
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