広沢池のツバキ・サクラ (京都市右京区嵯峨野)  
Camellia tree in Hirosawa pond
広沢池のツバキ 広沢池のツバキ
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広沢池のツバキ


広沢池のツバキ


広沢池のツバキ


広沢池


広沢池


近くのサクラ


近くの川野龍太郎写真館(右京区)に掲げられている谷崎潤一郎の肖像


広沢池 、OpenStreetMap Japan
 広沢池の西南の辻角にツバキの樹が1本残されている。右京区の「区民の誇りの木」に指定されている。真紅の花弁を開く。
 作家・谷崎潤一郎の長編小説『細雪(ささめゆき)』の中でも描写されている。
◆谷崎潤一郎 近現代の小説家・英文学者・谷崎潤一郎(たにざき-じゅんいちろう、1886-1965)。男性。東京市の生まれ。父・商家の倉五郎、母・関の長男。1892年、 阪本尋常高等小学校に入学した。16歳の時、父の事業が失敗し、築地「精養軒」主人・北村宅の書生になる。1901年、坂本小学校高等科全科卒業後、東京府立第一中学校に進学した。小間使へ送った手紙が発見され北村家を追われる。1902年、飛び級で3年生になる。1905年、第一高等学校英法科に進学し、文芸部委員になり『校友会雑誌』に小説『狆(ちん)の葬式』が掲載される。1908年、東京帝国大学国文科に進む。放浪生活する。強度の神経衰弱になった。1910年、 小山内薫、和辻哲郎、大貫晶川(しょうせん)、後藤末雄、木村荘太らと第二次「新思潮」を創刊した。『刺青(しせい)』、『麒麟(きりん)』などが掲載された。1911年、学費未納のため帝大を中退し、作家生活に入る。『スバル』同人として『少年』、『幇間(ほうかん)』が掲載され、永井荷風に激賞された。1912年、悪魔性を賛美した『悪魔』を発刊した。神経衰弱が再発し、京都など各地を放浪する。徴兵検査不合格になる。1915年、石川千代と結婚した。「毒婦物」の『お艶殺し』などが発禁になる。1916年、 千代の妹・せい子を引き取り同居した。1918年、朝鮮、満洲、中国を旅行する。1919年、小田原に転居した。1920年-1921年、新設立の映画会社「大正活映」株式会社の脚本部顧問に就任する。 1921年、妻・千代を親友・佐藤春夫に「譲る」という前言を翻し、佐藤と絶交する。(小田原事件)。1923年、関東大震災後、京都、兵庫に移住した。1925年、モダニズムの代表作の風俗小説『痴人の愛』は評判になる。1926年、中国旅行し帰国後、佐藤と和解する。1927年、自殺直前の芥川龍之介との間で「『小説の筋』論争」を交わした。1928年、神戸市に新居「鎖瀾閣」を築く。1929年、自伝的要素の濃い『蓼喰(たでく)ふ虫』を発刊した。1930年、千代と離婚する。千代が佐藤と再嫁し、挨拶状が「細君譲渡事件」として騒がれる。1931年、同性の虜になった人妻を描く『卍 (まんじ)』を発刊した。 古川丁未子と結婚する。1932年、兵庫に転居した。1933年、「古典主義時代」期の最高傑作『春琴抄』を発刊した。丁未子と離婚する。1935年、随筆『陰翳礼讃 』を発刊し、日本美再発見に言及した。 森田松子と結婚した。1937年、母性思慕の中編『吉野葛(よしのくず)』を発刊した。帝国芸術院会員に選ばれる。1941年、戦時中に『源氏物語』の現代語訳を完成させる。1942年、熱海市に別荘を借りる。大阪船場の四姉妹を描く大作『細雪(ささめゆき)』の執筆に専念する。1943年、『細雪』が軍部により連載中止になる。1944年、一家で熱海に疎開した。1945年、津山、勝山に再疎開する。1946年、京都に転居し、東山区に「前の潺湲亭」を定める。1947年、『細雪』上巻を発表し、毎日出版文化賞を受賞した。1948年、 『細雪』を脱稿した。1949年、朝日文化賞受賞する。下鴨泉川町の「後の潺湲亭」に転居した。文化勲章を受章する。1950年、長編の『少将滋幹(しげもと)の母』が発刊された。熱海に別荘「前の雪後庵」を借りる。1951年、文化功労者になった。1954年、熱海市に別荘「後の雪後庵」を借りる。1956年、潺湲亭を売却し、熱海に転居した。1957年、長編『鍵』を発刊した。1958年、 右手に麻痺があり、以後執筆はすべて口述筆記になる。1960年、2カ月間入院した。1963年、『瘋癲(ふうてん)老人日記』で毎日芸術賞を受賞する。1964年、全米芸術院、米国文学アカデミー名誉会員になった。1965年、入院手術し、神奈川県湯河原町の「湘碧山房」に移り亡くなる。79歳。
 永井荷風とともに耽美派の作家として活躍した。
 墓は京都・法然院(左京区)にある。
◆『細雪』の椿 『細雪』の中に、広沢池畔のサクラと椿が描かれている。
 「明くる日の朝は、先ず広沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子、と云う順に列(なら)んだ姿を、遍照寺山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。
 この桜には一つの思い出があると云うのは、或る年の春、この池のほとりへ来た時に、写真機を持った一人の見知らぬ紳士が、是非あなた方を撮らして下さいと懇望するままに、二三枚撮って貰ったところ、紳士は慇懃(いんぎん)に礼を述べて、もしよく映っておりましたらお送りいたしますからと、所番地を控えて別れたが、旬日の後、約束を違(たが)えず送って来てくれた中に素晴らしいのが一枚あった。
 それはこの桜の樹の下に、幸子と悦子とが彳(たたず)みながら池の面に見入っている後姿を、さざ波立った水を背景に撮ったもので、何気なく眺めている母子の恍惚(こうこつ)とした様子、悦子の友禅の袂の模様に散りかかる花の風情までが、逝く春を詠歎する心持を工(たく)まずに現わしていた。
 以来彼女たちは、花時になるときっとこの池のほとりへ来、この桜の樹の下に立って水の面をみつめることを忘れず、且(かつ)その姿を写真に撮ることを怠らないのであったが、幸子は又、池に沿うた道端の垣根の中に、見事な椿の樹があって毎年真紅の花をつけることを覚えていて、必ずその垣根のもとへも立ち寄るのであった。」(『細雪』上巻)
◆細雪 『細雪 』は、大阪船場の旧家、蒔岡家の4人姉妹である、鶴子、幸子、雪子、妙子が登場する。
 『細雪 上巻』は、第二次世界大戦中の1943年に、月刊誌『中央公論』1月号、3月号に掲載された。だが、軍部は戦時にそぐわないとして6月号掲載を中止させた。谷崎は、1944年7月に『私家版上巻』(非売品)を刊行する。軍は再び印刷、配布を禁止した。
 戦後は、戦争観などについて問題視され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による検閲を受けた。1946年6月に『 上巻』が刊行される。上下巻の『全巻』刊行は、1949年12月になった。
 映画、舞台、テレビドラマでも話題になった。
◆区民の誇りの木 ツバキ(区民の誇りの木)、つばき科、常緑高木、樹齢300年、高さ4.5m、幹周0.65m。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 説明板 、ウェブサイト「ネットミュージアム兵庫文学館」 、ウェブサイト「コトバンク」


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青空文庫『細雪』上巻
map 広沢池  京都市右京区嵯峨広沢西裏町 
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