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児神社 (京都市右京区) Chigo-jinja Shrine |
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児神社 | 児神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 石椅子、「ちこの宮 ちごは安けく 生ひ立ちて 神の恵みの ふかきをそ知る 永休」 ![]() 社は広沢池に隣接する。左の山は池の北にある遍照寺山(231m)は、千代原山、朝原山、寛朝山とも呼ばれた。 |
広沢池西畔に小社の児神社(ちご/この-じんじゃ)がある。「兒社」、「児社(ちご-の-やしろ)」ともいう。旧池裏村一帯の産土神として崇敬されている。 祭神は、寛朝(かんちょう)に仕えていたという待童を祀る。待童は、文殊菩薩の化身だったともいう。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代、989年、寛朝(かんちょう)は広沢池畔、嵯峨富士といわれた遍照山山麓の山荘を改め、遍照寺を建立した。当時は壮大な伽藍を有する寺院だったという。 998年、寛朝没後、遺された侍児が悲観し、広沢池に身を投じたという。 その後、年代不詳、近在の人々は児を哀れみ、社を建立し「児神社」と称したという。 ◆寛朝 平安時代中期の真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916-998)。男性。遍照寺、遍照寺僧正、広沢御坊(ひろさわ-ごぼう)。父・敦実親王(第59代・宇多天皇の子)。祖父・寛平法皇(宇多法皇)の下で11歳で出家得度し、寛空から両部灌頂を受けた。939年、第61代・朱雀天皇の勅命により、平将門の乱平定の祈祷により乱を治めたという。940年、東国鎮護のために成田山新勝山を開山した。948年、寛空に伝法灌頂を受ける。967年、仁和寺別当になり、981年、東寺長者に就任した。宮中での第64代・円融天皇の病気平癒祈祷の際に、壇法を修し眼前に不動明王が顕れたちどころに治癒したという。円融天皇は帰依する。985年/986年、東寺真言宗初の大僧正になる。987年、第66代・一条天皇の勅により、六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め降雨を祈願すると、翌日夕刻、大仏殿に遠雷轟き大雨になったという。989年、広沢池畔、遍照山山麓の山荘を改め、遍照寺を建立した。83歳。 事相(じそう、密教修法)、教相(密教理論)に優れ、真言宗古義派の根本二流の一つ「広沢流」の始祖になり、遍照寺はその本源地になった。広沢流は後に6流に分かれる。仁和寺、西寺、東寺長者、東大寺別当などを兼任した。第61代・朱雀天皇などの歴代天皇の戒師、潅頂の阿闍梨も務める。一律上人より声明を学び、密教声明を整え『理趣経(りしゅきょう)』を作曲し、東密声明道の中興と称された。弟子に深覚、雅慶などがいる。 ◆遺構 平安時代中期、998年、寛朝が没すると、遍照山山腹の老松から、龍になり静かに昇天していく姿が見えたという。遍照山山腹には、寛朝の座禅石と伝えられる石、登天松、墓があるという。 境内には、寛朝が広沢池畔での座禅の際に、傍らで児が常に腰掛けていたという「石椅子」がある。椅子に座ると、長命、安産、縁結びの願いが得られるという。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 説明板、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都府の歴史散歩 上』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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