石村亭(後の潺湲亭) (京都市左京区) 
Residence of Senkan-tei
石村亭 石村亭
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下鴨神社の東にある「石村亭」


【参照】泉川町の町名(左京区)


【参照】「下河原町」の町名(東山区)
 下鴨神社境内の東、下鴨泉川町の住宅街に小説家・谷崎潤一郎の旧宅「石村亭(せきそん-てい)」、「後の潺湲亭(のちの-せんかん-てい」が残されている。「潺湲」とは、水の流れる様、潺(せせらぎ)の音を意味する。 
◆歴史年表 近代、1911年、現在地(下鴨泉川町)に実業家の隠居所として邸宅が建てられる。
 1923年、谷崎潤一郎は、関東大震災後、京都へ移住した。後に兵庫へ移る。
 現代、1946年、谷崎は京都に転居し、「前(さき)の潺湲亭」(東山区南禅寺下河原町)を定める。
 1949年、谷崎は現在地の「後の潺湲亭」(下鴨泉川町)に転居した。
 1956年、谷崎は後の潺湲亭を日新電機に売却し、熱海に転居する。邸宅は「石村亭」に改められる。以後、迎賓館として用いられた。12月、日新電機が購入する。
◆谷崎 潤一郎 近現代の小説家・英文学者・谷崎 潤一郎(たにざき-じゅんいちろう、1886-1965)。男性。東京市の生まれ。商家の父・倉五郎、母・関の長男。1892年、 阪本尋常高等小学校に入学した。16歳の時、父の事業が失敗し、築地「精養軒」主人・北村宅の書生になる。1901年、坂本小学校高等科全科卒業後、東京府立第一中学校に進学した。小間使へ送った手紙が発見され北村家を追われる。1902年、飛び級で3年生になる。1905年、第一高等学校英法科に進学し、文芸部委員になり『校友会雑誌』に小説『狆(ちん)の葬式』が掲載される。1908年、東京帝国大学国文科に進む。放浪生活する。強度の神経衰弱になった。1910年、 小山内薫、和辻哲郎、大貫晶川(しょうせん)、後藤末雄、木村荘太らと第二次「新思潮」を創刊した。『刺青(しせい)』、『麒麟(きりん)』などが掲載された。1911年、学費未納のため帝大を中退し、作家生活に入る。『スバル』同人として『少年』、『幇間(ほうかん)』が掲載され、永井荷風に激賞された。1912年、悪魔性を賛美した『悪魔』を発刊した。神経衰弱が再発し、京都など各地を放浪する。徴兵検査不合格になる。1915年、石川千代と結婚した。「毒婦物」の『お艶殺し』などが発禁になる。1916年、 千代の妹・せい子を引き取り同居した。1918年、朝鮮、満洲、中国を旅行する。1919年、小田原に転居した。1920年-1921年、新設立の映画会社「大正活映」株式会社の脚本部顧問に就任する。 1921年、妻・千代を親友・佐藤春夫に「譲る」という前言を翻し、佐藤と絶交する。(小田原事件)。1923年、関東大震災後、京都、兵庫に移住した。1925年、モダニズムの代表作の風俗小説『痴人の愛』は評判になる。1926年、中国旅行し帰国後、佐藤と和解する。1927年、自殺直前の芥川龍之介との間で「『小説の筋』論争」を交わした。1928年、神戸市に新居「鎖瀾閣」を築く。1929年、自伝的要素の濃い『蓼喰(たでく)ふ虫』を発刊した。1930年、千代と離婚する。千代が佐藤と再嫁し、挨拶状が「細君譲渡事件」として騒がれる。1931年、同性の虜になった人妻を描く『卍 (まんじ)』を発刊した。 古川丁未子と結婚する。1932年、兵庫に転居した。1933年、「古典主義時代」期の最高傑作『春琴抄』を発刊した。丁未子と離婚する。1935年、随筆『陰翳礼讃 』を発刊し、日本美再発見に言及した。 森田松子と結婚した。1937年、母性思慕の中編『吉野葛(よしのくず)』を発刊した。帝国芸術院会員に選ばれる。1941年、戦時中に『源氏物語』の現代語訳を完成させる。1942年、熱海市に別荘を借りる。大阪船場の四姉妹を描く大作『細雪(ささめゆき)』の執筆に専念する。1943年、『細雪』が軍部により連載中止になる。1944年、一家で熱海に疎開した。1945年、津山、勝山に再疎開する。1946年、京都に転居し、東山区に「前の潺湲亭」を定める。1947年、『細雪』上巻を発表し、毎日出版文化賞を受賞した。1948年、 『細雪』を脱稿した。1949年、朝日文化賞受賞する。下鴨泉川町の「後の潺湲亭」に転居した。文化勲章を受章する。1950年、長編の『少将滋幹(しげもと)の母』が発刊された。熱海に別荘「前の雪後庵」を借りる。1951年、文化功労者になった。1954年、熱海市に別荘「後の雪後庵」を借りる。1956年、潺湲亭を売却し、熱海に転居した。1957年、長編『鍵』を発刊した。1958年、 右手に麻痺があり、以後執筆はすべて口述筆記になる。1960年、2カ月間入院した。1963年、『瘋癲(ふうてん)老人日記』で毎日芸術賞を受賞する。1964年、全米芸術院、米国文学アカデミー名誉会員になった。1965年、入院手術し、神奈川県湯河原町の「湘碧山房」に移り亡くなる。79歳。
 永井荷風とともに耽美派の作家として活躍した。
 墓は京都・法然院(左京区)にある。
◆石村亭 谷崎はこの「後の潺湲亭」で、63歳-70歳(1949-1956)までの7年8カ月を過ごした。なお、この潺湲亭に先立ち、東山区南禅寺下河原町でも同じ名の邸宅に住み、こちらは「前(さき)の潺湲亭」(1946-1949)と呼ばれた。
 小説『鍵』『乳野物語』『月と狂言師』『少将滋幹(しげもと)の母』『新訳源氏物語』『鴨東奇譚(おうとう-きたん)』などの作品をここで執筆している。邸宅は、小説『夢の浮島』の舞台になり、文中で「五位庵」と称され描写された。作品には、隣接する下鴨神社の糺の森(ただす-の-もり)も登場する。
 現代、1951年頃には、谷崎、松子(妻)、惠美子(娘)、清治(息子)、渡辺重子(松子の妹)、千萬子(清治の妻)、そのほか6、7人のお手伝いが暮らしていた。志賀直哉、吉井勇らも訪れている。
 谷崎は、午前5時に母屋より仕事場の離れに移り、午後5時まで執筆した。仕事中には「只今執筆中」の札が下ろされていた。夕食は、午後6時半と決められていた。
 1956年に、谷崎は京都の夏の暑さと冬の底冷え、湿気が身に応えるとして熱海に転居した。(『京都を想ふ』)。その後も、春秋には当邸を訪れている。後、谷崎は堅苦しいとの理由により、「石村亭」に名を改めた。庭に石が多かったことに因んだという。
 1956年12月に重電機器の日新電機(右京区)が所有する。谷崎の手を離れた屋敷は、できる限り現状を残してほしいという谷崎の意向に添う形で、今日まで継承されている。
◆建築 建物は、近代、1911年に建てられている。当初は、実業家の隠居所として使われた。母屋に、書院造の主室があり、縁を廻し高欄越しに庭を望める。ほかに、数寄屋造の控えの間、書斎など10部屋がある。木造、平屋建、瓦葺。
 仕事場だった離れには、扁額「潺湲亭」が掛かる。6畳、8畳の和室、応接間がある。
 茶室、洋館も残る。
 中門は桧皮葺による。
◆庭園 池泉回遊式の日本庭園(600坪)は、二条の度量衡店主・塚本という人が、「植惣」に依頼して作庭させたという。
 母屋主室から庭園を望むと、下鴨神社の糺の森が借景になっている。池、滝が組まれ、築山、せせらぎ、添水(そうず、ししおどし)がある。土橋が架かり、松などの樹木が茂り、ツツジ、アセビ、ヤマブキ、フジ、ムベなども植えられていた。
 庭の西端に、妻・松子(1903-1991)の碑が立つ。碑文に「(谷崎が)こゝの環境や庭建物に心を惹かれた處は是までになく」と刻まれている。池の畔に「五十四帖を読み終り侍りて ほととぎす五位の庵に来啼く今日渡りをへたる夢のうきはし」という、小説『夢の浮橋』の冒頭文を刻んだ碑が立つ。
◆京都の転居地 谷崎は京都の各所に転居を繰り返した。
 現代、1946年、当初は東山区下河原町の旅館「喜志元」に滞在し、左京区浄土寺西田町、上京区鶴山町、左京区南禅寺下河原町、1949年より左京区下鴨泉川町に過ごした。1965年に熱海に移るまで住んでいた。 


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『落花流水』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』 、『親と子の 下鴨風土記』、『20世紀における京都の文化と景観に関する学際的研究-下鴨・北山地域を中心に』、ウェブサイト「ネットミュージアム兵庫文学館」 、ウェブサイト「コトバンク」


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石村亭 〒606-0807 京都市左京区下鴨泉川町5  
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