法観寺(八坂の塔)・八坂 (京都市東山区) 
Hokan-ji Temple(Yasaka Pagoda)
法観寺(八坂の塔) 法観寺(八坂の塔)
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五重塔(重文)















五重塔、心柱、二層目から見た様子、ここまでしか登れない。


五重塔、心礎にのる心柱。柱座の底に四角い舎利奉安孔が開けられている。左の柱に立てかけられている円状のものは舎利奉安孔の蓋石という。


五重塔、心礎、柱の最下部、舎利奉安孔。


五重塔、内陣


五重塔、内陣


五重塔、阿閦如来(東方)



五重塔、不空成就如来(北方)



五重塔、阿弥陀如来(西方)



五重塔、 宝生如来(南方)



五重塔



五重塔からの西の眺め



五重塔からの東眺め、山は東山











花灯路


薬師堂(京都市指定文化財)




太子堂(聖徳太子御堂)(京都市指定文化財)



八坂稲荷神社



八坂稲荷神社



地守時面大神



八大龍王



朝日将軍木曽義仲塚、木曽義仲(1154-1184)の首塚という。かつては近くの料理屋の玄関にあったが、その後移された。



藤原数子墓、藤原数子(?-839)は平安時代前期の仁明天皇の女御。
 八坂の法観寺(ほうかんじ)には五重塔が建っている。八坂の塔とも呼ばれる。法観禅寺、八坂寺とも呼ばれる。山号は霊応山という。 
 臨済宗建仁寺派、本尊は金剛界の五智如来五体(大日、釈迦、阿閦[あしゅく] 、宝生、弥陀)。
 阿閦如来(七回忌)は、京都十三仏霊場めぐりの第11番札所。江戸時代の洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第39番札所、札所本尊は夢見地蔵。
 八坂の塔は「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、592年、589年、第33代・推古天皇(在位:593-628)の頃とも、聖徳太子(厩戸王、574-622)により創建されたともいう。如意輪観音の夢告により、いずれは京都に都が遷るとして国家安泰を祈願し、五重塔を建て仏舎利を納めたという。(『法観禅寺仏舎利塔記』)
 また、飛鳥時代・天武朝(673-686)、678年、679年ともいう。(『神皇正統録』『山城名勝志』)。渡来系豪族狛人・八坂造の菩提寺として創建されたともいう。
 また、平安時代の小野篁(おの の たかむら、802-853)により創建されたともいう。
 10世紀(901-1000)、盂蘭盆会(うらぼんえ)を下賜される官寺七か寺(盂蘭盆会供養料七寺)の一つとして、官寺の東寺、西寺などに準ずる扱いを受けた。(『延喜式』)
 948年、五重塔が西北に傾き、浄蔵貴所が復したという。
 1179年、清水寺衆徒と祇園神人の争いにより類焼した。平安時代末に衰微する。
 鎌倉時代、1191年、1192年とも、鎌倉幕府初代将軍になる源頼朝により再建された。
 1240年、建仁寺8世・済翁証救(さいおう しょうぐ)の入寺により、真言宗より臨済宗の禅刹に改めた。
 1291年、落雷により焼失する。
 1309年、第91代・後宇多天皇の援助(内帑[ないど] 下賜)、武将・北條貞時は般若経などを書写して塔下に納め、山内円成尼らにより再興した。
 南北朝時代、1338年以来、臨済宗の禅僧・夢窓国師の勧めにより、室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏、その弟・直義は、全国66か国2島に安国寺・利生塔を建立した。山城国の利生塔には、当寺の五重塔が選ばれ、仏舎利が奉納された。尊氏、直義より、播磨国印南荘地頭職の寄進がある。(寄進状)
 1342年、住持・高山栄元により補修され、夢窓国師が大導師になり、盛大な供養が行われた。山城国の利生塔に五重塔が選ばれ、塔婆再興の落慶が行われたともいう。
 1401年、塔頭・普翠庵の名がある。(「足利義満御教書」)
 室町時代、1436年、焼失している。 
 1440年、室町幕府6代将軍・足利義教により現在の五重塔が再建された。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失している。この際に、五重塔だけは焼け残った。
 江戸時代、1618年、京都所司代・板倉勝重は、つぶてうち禁止令の制札を掲げる。五重塔が修理される。
 1619年、京都所司代・板倉勝重は、四至ぼう示を定める。米を寄進する。
 寛文年間(1661-1673)、夢身地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1663年、五重塔が修理される。
 1788年、塔頭として御朱印配当1石4斗余を受ける。(「建仁寺末寺帳」)
 1799年、五重塔が修理された。
 現代、1997年、塔周辺、基壇の一部の調査が行われ、古墳時代の土器、焼土、瓦の堆積層、基壇などが発掘、確認された。
 2009年、防災工事に伴う発掘調査で、平安時代の排水溝跡、白鳳時代の金箔の日本最古級の塼仏(せんぶつ)が発掘された。
◆聖徳太子 飛鳥時代の皇族・政治家の聖徳太子(しょうとく-たいし、574-622)。名は厩戸(うまやど)皇子、豊聡耳(とよとみみ)皇子、上宮太子(じょうぐうたいし)。第31代・用明天皇の皇子、母は皇宮・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。593年、皇太子となり第33代・女帝推古天皇の摂政。594年、仏教興隆の詔を出した。600年、新羅征討軍を出し交戦したともいう。601年、斑鳩宮を造営する。602年、再び新羅征討の軍を起こしたともいう。603年、冠位十二階を定め、604年、十七条の憲法を発布、君、臣、民が和し仏法に則る立国の根本義を明らかにした。605年、斑鳩宮に遷る。607年、小野妹子を国使として遣隋使を派遣、以後、対等外交が成る。609年頃、天皇と皇太子は鞍作鳥(くらつくりのと り)作の丈六仏像を法興寺金堂に納める。620年、馬子と議し歴史書編纂の初例『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を録した。49歳。墓は磯長墓(しながのはか) (大阪府南河内郡太子町)にある。
 595年、高句麗の僧・慧慈、百済の僧・恵聡が渡来し法興寺に住して仏教を広めた。皇太子は593年、四天王寺、607年、法隆寺を建立し、仏教経典の注釈書『三経義疏』を著し、仏教普及に尽力した。
◆道昭 飛鳥時代の僧・道昭(どうしょう、629-700)。道照、俗姓は船連(ふなのむらじ)。河内国に生まれた。百済系。日本法相宗の祖。653年、入唐学問僧として渡り、長安・玄奘三蔵の弟子となり、経・律・論の三蔵、禅を学ぶ。661年、帰国し、多くの経論、仏舎利を持ち帰る。飛鳥・法興寺(飛鳥寺)に住し、禅院で唯識論を講じ、参禅した。日本への禅伝来の初例とされている。法相宗を広める。698年、薬師寺の繍仏の開眼導師になり、日本初の大僧正に任じられた。西方を向き端坐して亡くなる。71歳。
 各地に井戸を掘り、渡に船を設置し、橋を造るなどの社会事業を行う。僧侶として火葬(荼毘)の初例ともいう。宇治橋架橋については異説もある。
◆小野篁 平安時代初期の公卿・文人・小野篁(おの-の-たかむら、802-853)。岑守(みねもり)の子。通称は野狂、野宰相。文章生、東宮学士、834年、遣唐副使に任命される。だが、838年、3度目の出発に際して、大使の藤原常嗣と対立し、乗船を拒否したため嵯峨上皇により隠岐に配流された。2年後召還され、847年、参議となる。武芸、和歌にも秀でた。百人一首に「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬ と人には告げよあまのつりね」がある。51歳。北区の紫式部の墓の隣に墓がある。
 伝承として、篁は昼は朝廷に仕え、毎夜、冥土へ入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立会っていたという。藤原高藤、藤原良相らを 蘇生させたともいう。これらの篁の冥官説は平安時代より、また室町時代に始まったともいい、江戸時代には篁が冥土に行き来したとする話が定着し た。(『江談抄』『今昔物語』『元亨釈書』)。51歳。
◆浄蔵貴所 平安時代中期の天台宗の僧・浄蔵貴所(じょうじょう-きしょ、887-946)。浄蔵。京都生まれ。三善清行の子。母は第52代・嵯峨天皇の孫ともいう。4歳で千字文を読み、7歳で父を説得し仏門に帰し、熊野、金峯山などで苦行を積んだという。902年、12歳で宇多法皇(第91代)に会い、弟子になる。清涼房玄昭のもとで受戒し、三部大宝などを受け、大恵大法師に悉曇(しったん)の音韻を習得する。909年、菅原道真の怨霊に苦しむ藤原時平を護持祈念し、2匹の青竜が時平の左右の耳から頭を出したという。19歳で、比叡山横川に籠り、毎日法華六部誦経、毎夜六千反礼拝を行う。940年、横川首楞厳院で平将門降伏の祈禱を修し誅滅(ちゅうめつ、罪人を攻め滅ぼす)を予言した。八坂庚申堂(金剛寺)を建立し、948年、五重塔が西に傾き、験力を持つという東隣の雲居寺・浄蔵の加持により元に戻したという。(『元亨釈意』)。952年、浄蔵の加持祈祷後、子の刻(午前零時)、乾(北西)の微風により五重塔と宝鉾が動き、唸り、大地が揺らぎ、元に戻ったという。(『大法師浄蔵伝』)。寺に入った賊十数人を大声で一喝し失神させ、その罪を諭したという。964年、雲居寺で亡くなり、西向きに正念したという。
 天文、医学、卜筮、管弦、文章に通じたという。死んだ父を蘇生させ、堀川の一条戻橋の名の由来になったという。祇園祭の山鉾・山伏山の人形は浄蔵がモデルといわれている。著『胎蔵界浄蔵私記』。74歳。
◆済翁証救 鎌倉時代の臨済宗の僧・済翁証救(さいおう-しょうく、?-1260)。功徳房。明庵栄西の弟子・天庵源祐の法嗣。1240年、法観寺を禅寺に改めた。のち建仁寺8世になる。
◆仏像 ◈ 五重塔初層に、「五智如来(ごちにょらい)」が安置されている。心柱の「大日如来」を中心として、「阿閦如来(東方)」、「宝生如来(南方)」、「阿弥陀如来(西方)」、「不空成就如来(北方)」が配されている。
 ◈ 太子堂(聖徳太子御堂)(京都市指定文化財)に、江戸時代作の、「厩戸王(聖徳太子)の3歳と16歳の像」が安置されている。さらに、八坂塔再造功徳主霊碑として、浄蔵貴所、源頼朝、北條貞時、円成禅尼、足利尊氏、足利義政が祀られている。
 
◈ 薬師堂に江戸時代作の本尊「薬師如来」、「日光菩薩」、「月光菩薩」、「夢見地蔵」、「十二神将像」が安置されている。
◆地蔵 地蔵堂(太子堂)に「夢見地蔵」(40cm)が安置されている。右手に錫状、左手に宝珠を掲げる。江戸時代の洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第39番札所になった。一木造、立像、
◆建築 ◈ 「五重塔」(重文)は、京都の仏教文化の起源であり、日本の舎利信仰の原点とされる。現在の五重塔は、室町時代、1440年に4度目の再建による。当初の塔は平安時代に建てられ、その後、1179年に焼失、1191年に再建、1291年に焼失、1309年に再建、1436年に焼失と3度焼失している。
 内部は中央に心柱を立て、四天柱の間を須弥檀とし五大力尊を安置する。周囲の扉に天部が描かれている。その下に創建時のものという心礎(礎石)が置かれている。天井は小組格天井、5層目にだけ勾欄が付く。階下正面中央に板唐戸、左右に連子窓、斗栱(ときょう)は三手先、中備えは3間共に間斗束、軒は二重繁垂木。塔の1階の平面は6.3m四方、中央間2.24m、脇間2.03m、高さ38.8m/46m。純和風建築、方3間、本瓦葺。
 ◈ 「太子堂(聖徳太子御堂)」(京都市有形文化財)は、江戸時代に門前の住人により再建された。
 ◈ 「薬師堂」(京都市有形文化財)、八坂稲荷神社などが建つ。
◆心礎 現在の五重塔の基壇土は、発掘調査により、飛鳥時代の創建当時のままであることが確認されている。
 五重塔(八坂の塔)の塔内に、飛鳥時代後期の寺の建立時の「心礎(礎石)」を見ることができる。このように、「心礎」とそれに載る「心柱」を見られるところは日本唯一という。
 「心礎」には、長径9尺(2.7m)、単径7尺(2.1m)の松香石(凝灰岩)が据えられている。その内に、心柱が建てられ、さらにその内側にも石が据えられている。内より円形舎利孔、石蓋孔、凹柱座の三段式になっており、全国に2例しかない円い石蓋になる。黒雲母花崗岩で造られ、位置も創建当時のままに動かされていないという。柱座の底の部分の側面に四角い舎利奉安孔が開けられている。舎利奉安孔には丸い蓋石がある。直径2.7m、直径1.1m、深さ0.24mの心柱の穴があり、その上に塔を貫く「心柱」(40m×最下部の直径80cm)が建つ。  
 厩戸王(聖徳太子)は夢のお告げにより、この礎石の溝に仏舎利3粒を納めたという。ただ、今日まで舎利埋葬品などは発見されていない。頂上部の相輪は釈迦の墓とされ、心柱はこの2つを結んでいる。創建時には、礎石そのものを釈迦としていた。 
◆茶室 茶室「聴鐸庵」がある。二帖台目中板の造り、五重塔の風鐸(ふうたん)が聞こえることからこの名がついた。風鐸は、風鈴の由来になったという。寺院の軒先四方に吊された装飾であり、強い風により音がする。
 茶室の別名は「仰輪所」ともいわれ、突上窓(つきあげまど)からは五重塔九輪を見ることができる。
◆伝承 飛鳥時代の厩戸王(聖徳太子、574-622)は、難波に四天王寺を建立するために、用材を山城愛宕郡に探し求めた。その時、この地が勝地として五重塔の宝塔を建てた。仏舎利を安置し、法観寺、八坂寺と称したという。(『山城州東山法観寺佛舎利塔記』)
◆八坂 八坂(やさか)の地名は、この地に坂が多いところから名づけられたともいう。「やさか」の「や」は「坂」にかかる言葉になる。
 俗説では「八つの坂」を意味し、祇園坂、長楽寺坂、下河原坂、法観寺坂、山井坂、清水坂、産寧坂(三年坂)、二年坂が挙げられる。また、氏神の降臨する八段の神段に由来するともいう。
 付近は、かつて愛宕(おたぎ)郡八坂郷に属した。八坂郷の成立は5世紀(401-500)ともいう。飛鳥時代、白鳳期(640-710)以前、高句麗系渡来氏族の八坂造(やさか の みやつこ)一族が居住していた。また、奈良時代、733年にこの地に、八坂氏がすでに居住していたともいう。(『山背国愛宕郡計帳』)。
 奈良時代-平安時代、8世紀頃、同族の八坂馬養造(やさか-の-うまかい-の-みやつこ)は、馬の飼育に優れた氏族として大和政権に奉仕した。法観寺の造営にも関わったとみられている。
◆文化財 紙本著色「八坂塔絵図(法観寺参詣曼荼羅)」(重文)は室町時代作になる。往時の寺観が描かれている。
◆京都十三仏霊場めぐり 阿閦如来(七回忌)は、京都十三仏霊場めぐりの第11番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆遺跡 2009年、防災工事に伴う発掘調査で、平安時代の排水溝跡、白鳳時代(7世紀後半-8世紀初頭)の日本最古級の「八頭形三尊塼仏(せんぶつ)」の一部(9cm×5cm)が発掘された。
 塼仏は、粘土を型押しし焼いた仏像で、一部に金箔が貼られていた。7世紀後半に遣唐使に随行した僧・道昭(629-700)が持ち帰ったものとされ、念持仏、装飾として使われた。
◆墓 境内には、平安時代末期の信濃源氏武将・木曽義仲(源義仲、1154-1184)の首塚と伝えられる石塔もある。後白河法皇と対立し、法皇を幽閉し、征夷大将軍になる。だが、頼朝の命による源義経・範頼軍との決戦で敗走、近江国粟津(大津市)で戦死した。旭将軍といわれ、供養墓は大津市の義仲寺にある。境内の首塚には、家臣により八坂郷に葬られたものという。
 藤原数子八坂墓には、平安時代の藤原数子が眠る。第58代・光孝天皇外祖母、藤原総継室で第54代・仁明天皇女御藤原沢子の母。
◆辰巳新地 江戸時代、寺の門前には辰巳(たつみ)新地という遊郭があった。
◆映画 現代劇映画「遺産相続」(監督・降旗康男、1990年、東映)の撮影が行われた。
◆アニメ ◈アニメーション『四畳半神話大系』(原作・森見登美彦、制作・マッドハウス、 2010年4月-7月、全11話)の第3話「サイクリング同好会『ソレイユ』」 で、「私」の自転車が通りかかる。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『京都古社寺辞典』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『建仁寺』『京都の地名検証』『掘り出された京都』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『旧版 京のお地蔵さん』『京の福神めぐり』、ウェブサイト「アニメ旅」、ウェブサイト「コトバンク」


金剛寺(八坂庚申堂)    建仁寺  一条戻橋  鹿苑禅寺(金閣寺)  光福寺    

宝篋印塔

【参照】祇園祭の山伏山、ご神体は浄蔵貴所で、大峰入りの修行で紀伊山地に入る姿を表すという。腰には法螺貝を付けている。

 【参照】室町時代後期の「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた八坂の塔、鴨川二条大橋の説明板より
 
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 法観寺(八坂の塔) 〒605-0827 京都市東山区八坂上町388,八坂通下河原東入ル  075-551-2417
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© 2006- Kyotofukoh,京都風光