山崎闇斎邸跡 (京都市上京区)
The ruins of the residence of Yamazaki, Ansai
山崎闇斎邸跡 山崎闇斎邸跡
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【参照】山崎闇斎邸跡の石標、伊藤仁斎宅のほぼ真西(上京区葭屋町通下立売上ル)

 葭屋町通下立売上ル東側に「山崎闇斎邸跡(やまざき-あんさいてい-あと)」の石標が立てられている。ここには、江戸時代の儒学者・神道家・山崎闇斎の開いた私塾「闇斎塾」があった。
 堀川通を隔てほぼ真東には儒者・伊藤仁斎の旧宅がある。
◆歴史年 江戸時代、1655年、山崎闇斎は闇斎塾(現在地)を開いた。
◆山崎闇斎 江戸時代前期の儒者・神道家・山崎闇斎(やまざき-あんさい、1619-1682)。名は嘉、字は敬義(もりよし)、通称は嘉右衛門、別号は垂加(しでます)。京都生まれ。父は針医師父・山崎浄因。12歳で、比叡山に上り稚児になる。土佐・山内康豊に見込まれ、1632年、妙心寺に入り僧になる。土佐山内氏の一族・湘南和尚の勧めで、1636年、土佐・吸江寺(ぎゅうこうじ)に移る。海南朱子学の谷時中(たに-じちゅう)に学ぶ。土佐藩・野中兼山、小倉三省らと交わる。1642年、儒に転じ、土佐藩主に批判され、還俗して京都に戻る。1647年、『闢異(へきい)』を著し、仏教を異端とし朱子学信奉の立場をとる。1655年、京都に儒学を講じる「闇斎塾」を開く。1658年以降、江戸に通い井上正利、加藤泰義、陸奥会津藩主・保科正之らに講じた。正之の命により『玉山講義附録』を編纂する。1669年、伊勢神宮に参拝し、大宮司・河辺精長(かわべ-きよなが)から中臣祓(なかとみのはらえ)の秘伝を受ける。1671年、家臣・服部安休を遣り吉川神道・吉川惟足(きっかわ-これたり)に学ばせた。吉田神道の伝を受け垂加霊社の神号を授けられる。二条猪熊の寓居で亡くなる。著『文会筆録』『垂加文集』『神代巻風葉集』など。65歳。
 闇斎学は、朱子の原著に戻り、吉田神道、朱子学を合わせた神儒一致、垂加神道を創唱した。門下の崎門(きもん)学派は門弟6000人になる。「崎門三傑」に佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎、神道の門人に玉木葦斎などがいる。闇斎学は、幕末期に攘夷論に影響を与えた。
 墓は金戒光明寺・黒谷山(左京区)にある。
◆垂加霊社 闇斎は、生前に自らの霊社号を「垂加霊社(すいか-しでます)」とした。心神と天神は同源同一として、自宅の祠に祀った。
 現在は、下御霊神社境内に遷座され垂加社と呼ばれている。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『増補版 京都の医史跡探訪』、『京都大事典』、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」


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山崎闇斎邸跡 〒602-8113 京都市上京区元福大明神町,葭屋町通下立売上ル    
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