竹内式部寓居跡 (京都市中京区)  
The ruins of temporary residence of Takenochi, Shikibu
竹内式部寓居跡  竹内式部寓居跡
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「此南 竹内式部寓居址」の石標痕跡

 京都御苑南の麩屋町通(ふやちょうどおり)丸太町西南角に、かつて、「此南(このみなみ) 竹内式部寓居址(たけうち-しきぶ-ぐうきょあと)」の石標が立てられていた。
 付近には、江戸時代の尊王思想家だった式部の邸宅、家塾があった。
 現在、石標は失われており、路上に痕跡のみが残る。
◆歴史年表 江戸時代中期、竹内式部(1712-1767)は、この地の邸宅に家塾を開いた。少壮公卿たちの間に尊王思想を説いた。
 近代、1916年、5月、京都市教育会は石標を立てた。寄付者は、荒川益次郎とみられている。
◆竹内式部 江戸時代中期の国学者・神道家・竹内式部(たけのうち-しきぶ、1712-1768/1767)。名は敬持、通称は一学、号は羞斎(しゅうさい)、正庵など。医者・竹内宗詮の子。1728年-1729年、上京し徳大寺家に仕える。崎門学派(学祖・山崎闇斎)で垂加(すいか)神道、軍学を学ぶ。儒学を松岡仲良(まつおか-ちゅうりょう)、沢田一斎に学ぶ。後、玉木葦斎(たまき-いさい)、若林強斎の弟子になった。家塾を開き、第116代・桃園天皇の近習の公卿・徳大寺公城(とくだいじ-きんむら)、正親町三条公積(おおぎまち-さんじょう-きんつむ)らに神書(『日本書紀』)、儒書を講じ、尊王思想を説く。現状に不満を持つ門下の少壮公卿は、式部に天皇へも神書の神代巻を進講させ、自らも天皇に進講した。案じた関白・近衛内前(このえ-うちさき)らは式部の追放を謀る。1754年、神祇権大副・吉田兼雄、関白・一条兼香(いちじょう-かねか)は、吉田家を差し置いて神書を講じたなどとして公卿らを京都所司代に訴えた。1758年、公城は近習職を免じられ、公卿8人も処分された。式部も所司代の調べを受けた。(宝暦事件)。1759年、式部は京都重追放になる。その後、伊勢に移り閑居した。1766年、密告に基づき幕府は、尊王論者・山県大弐(やまがた-だいに)、藤井右門らを謀反の疑いで捕らえ、死罪、磔刑に処した。この尊攘派弾圧事件により、無関係の式部も連座して捕縛された。(明和事件)。1768年、式部は八丈島流刑になり、護送中の船中で病を罹った。三宅島で病没した。著『奉公心得書』など。56歳。
 1891年、贈正四位を授けられた。十念寺(上京区)に、贈位の碑が立てられている。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『新選組と幕末の京都』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 竹内式部寓居跡 〒604-0985 京都市中京区舟屋町, 麩屋町通丸太町西南角
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