大原 (京都市左京区)
Ohara
大原  大原
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高野川









比叡山系の山




草生町


紫蘇畑、上野町


紫蘇


土井志ば漬、案内板より


呂川


律川


音無滝、『源氏物語』で夕霧は落葉宮に、「朝夕に 泣く音を立つる 小野山は 絶えぬ涙や 音無の滝」と和歌を贈った。


旧若狭街道(鯖街道)、右は高野川古知谷付近




落合の滝、草生川




草生川


おつうが森



おつうが森、竜王大明神の石碑



朧(おぼろ)の清水



【参照】大原女、時代まつり、京都御所
 京都市内の北東にある盆地の大原(おおはら)は、かつて愛宕郡に属し大原荘、大原郷といわれた。古く「小原」と記された。
 浄土信仰が盛んな頃には、大原は八瀬とともに「洛北浄土」と謳われた。古くより、薪炭を生産する「炭焼きの里」、「炭窯(竈)の里」としても知られ、良質の「小野炭」は人気を博した。「みかま木」は、宮中で使用されていた。
 大原は、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。
◆歴史年表 平安時代、835年、大原は円仁により、根本道場の大原寺(だいげんじ)が開かれたことに始まる。
 957年、「大原牧」として記されている。(「九暦」)
 平安時代中期、延暦寺の俗化を嫌う僧たちが、この地に草庵、僧房を建てた。仏道修行地になる。
 1013年、寂源は勝林院を開く。
 1094年、良忍は来迎院を開く。
 平安時代-鎌倉時代、天台宗の修行地になる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、大原は若狭街道沿いの宿駅になる。『平家物語』の「大原御幸」の地として文人墨客が訪れた。
 江戸時代中期、「小原(おはら)」より、「大原(おおはら)」へと長音化したという。
 近代、1883年、戸寺(とでら)、上野、来迎院、勝林院、草生(くさお)、野村、井出の8村が合併して大原村になる。
 1889年、小出石(こでいし)、百井(ももい)、大見、尾越(おごし)の4村を併合する。
 1949年、京都市左京区に編入される。
◆大原 大原は、豪族小野氏との関わりが深い。古名は「小野」と呼ばれ、現在も小野山にその名が残る。小野氏は、大和の王珥氏(わに、旧大和国添上郡和邇、現天理市)から、琵琶湖西岸の和邇(わに、滋賀県大津市)に勢力を移した。さらに大原、上高野一帯に移住したという。
 平安時代、835年に、大原は円仁(794-864)により根本道場(後の勝林院)が開かれた。以来、天台声明が盛んな地になる。大原には、天台声明の総本山・魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ、上ノ院、来迎院、下ノ院、勝林院)があった。
 声明は梵唄(ぼんばい)ともいわれ、節をつけお経を唱える。古代インド、中国を経て日本にもたらされた。寺は、上寺(上ノ院)の来迎院、下寺(下ノ院)を中心とした勝林寺に別れる。鎌倉時代には上寺に49坊、下寺に50坊の寺があり隆盛を極めた。
 大原の地名の由来については諸説ある。この地が中国浙江省の大源に似ており、寺院が建てられ、「大源」の「さんずい」を取り「大原」になったともいう。五台山念仏(声明)の地、山西省五台山の「太原(タイユワン)」に因み、比叡山を五台山に見なした。太原に似た大原の地を、「大原(だいげん)」と名づけ、「大原(おおはら)」になったともいう。また、平安時代中期、この地は牛馬の飼育地であり、その「大原牧」に語源があるともいう。
 「魚山」とは、声明の道場とされた三千院一帯のことを意味し、声明のこともいう。これも、声明の始まりの地・中国五台山の一峰魚山、現在の山東省東阿の地名に由来しているという。
 大原は、都から逃れた人々が隠れ住む地でもあった。平安時代前期の皇族・惟喬親王(これたか-しんのう、844-897)、平安時代中期の公卿・源顕基(みなもと-の-あきもと、1000-1047)、平安時代中期の僧・歌人・良暹(りょうぜん、?-?)、平安時代後期の学者・藤原貞憲(ふじわら-の-みちのり、1106-1159)、平安時代後期の貴族・歌人・藤原為忠の子息で「大原三寂(さんじゃく)」といわれた、官吏・歌人・寂念(じゃくねん、藤原為業、1114-?)、歌人・寂然(じゃくぜん、藤原頼業、?-?)、歌人・寂超(じゃくちょう、藤原為経、?-?)らがいた。
 平安時代後期の武将・源義朝(みなもと-の-よしとも、1123-1160)、平安時代後期の公卿・藤原惟方(ふじわら-の-これたか、1125-?) 、平安時代後期-鎌倉時代前期の平親範(たいら-の-ちかのり、1137-1220)、平安時代後期-鎌倉時代初期の武将・源頼朝(みなもと-の-よりとも、1147-1199)、平安後期-鎌倉時代の高倉天皇中宮・建礼門院徳子(けんれいもんいん-とくこ、1155-1213)、鎌倉時代初期の上賀茂神社祠官・加茂氏久(?-?)などが隠棲した。鎌倉時代前期の歌人・随筆家・鴨長明(かもの-ちょうめい、1155-1216)も当初は大原に住している。
◆大原女 平安時代、11世紀(1001-1100)後半から、大原の女性は、黒木(薫した薪)、柴漬け、木の芽炊きなどを都に売りに通った。白い縫文様の手拭を頭に被り、白地に紺の、小紋の着物に、腰に御所染めの赤い細帯、二巾半の前垂れ、手に白手甲掛、足に脚絆、白足袋、草鞋のいでたちだった。頭に薪(たきぎ)、柴(しば)などを載せて「黒木買わんせ。黒木召せ」と売り声を上げた。
 この大原女(おはらめ)の柴売りの衣裳を考案したのは、建礼門院(1155-1214)に終生仕え、絶世の美女と謳われた平安時代後期-鎌倉時代の女官・阿波内侍(あわのないじ、?-? )という。内侍は日頃慣れないために、脚絆を逆様に巻き、いまもそのまま伝えられているという。頭に載せる紺の袱紗(ふくさ)も、内侍の姿を映した名残りという。
 大原女は、往復20数kmの道のりを、30-40㎏、時に50㎏の荷を頭に載せて通った。
 鎌倉時代には、「秋の日に 都をいそぐ 賤(しずめ)の女 帰るほどなき 大原の里」の歌がある。(藤原定家、『拾遺愚草』)
◆高野川 大原は、鴨川の支流の一つである高野川の水源地にある。大原の里では、水を汚さないために、古くより墓も山中の一つにまとめた。
 高野川は、淀川水系の一級河川で、全長19.1kmある。川は、若狭街道(朽木街道、鯖街道)に沿い、大原、八瀬、上高野、山端を流れ、下鴨の糺の森で鴨川に合流する。
 「高野」は、御狩野の「鷹野」に由来する。高野川は、大原の里では「大原川」、八瀬では「八瀬川」、また「埴川」とも呼ばれた。この埴川の「埴」とは、焼き物の材料になる粘土(赤土、はに)を産したことによる。
 高野川の水深は浅く、流れは清涼で、平安時代には上高野、松ヶ崎でも禊が行われていた。かつて高野川沿いでも友禅業が盛んだった。高野川でも、反物の友禅流しが行なわれていた。
 近代、1935年の「昭和10年鴨川大洪水」では、高野川沿いでも大きな被害が出ている。その後の高野川改修工事において、急曲部の緩和、護岸工事、幅員拡大などが行われた。
 高野川はいくつかの支流の水を集めている。大原三千院(左京区)の東にある小野山から流れ下る「呂川(りょうせん、りょがわ)」、東の「律川(りつせん)」がある。「呂律」とは、声明の音律に因んでいる。
◆音無滝 律川の上流にある音無滝は、白糸の滝であり高さは10mほどある。「小野の大滝」、「一ノ滝」ともいう。さらに上流には「二ノ滝」、「三ノ滝」がある。
 音無滝は、平安時代末の円覚の弟子・良忍が、来迎院で声明をあげた際に、梵唄の声に滝の音が同調し、滝の音が消えたとされる。
 また、平安時代の歌人・藤原公任(きんとう、966-1041)が、滝の前で声明をあげ、声明も滝も音のない無我の境地に達したことからともいう。
 音無滝は『枕草子』第61段で「おとなしの瀧」とあり、一般的には大原の滝を指しているといわれている。歌枕にもなっている。西行(1118-1190)に、「小野山の上より落つる滝の名の音無しにのみ澪るる袖かな」(『夫木抄』)がある。
◆源氏物語 紫式部(973頃 -1014頃)『源氏物語』第53帖「手習」巻でも小野が登場する。音無滝も和歌に歌われている。ただ、現在の場所とは異なるともいう。
 「手習」の巻の小野には、浮舟が身を寄せた横川の僧都の母と妹が住む山荘があった設定になっている。これは、大原から横川と黒谷に通じる道の口とみられている。
 第38・39帖「夕霧」の巻で落葉宮が母・一条御息所と籠もった小野の山荘も、京により近い三宅八幡から修学院離付近の小野と見られている。
 第54代帖「夢浮橋」の舞台にもなった。
◆大原山 大原盆地の西山連山の総称としての大原山は、歌枕になっている。
 「すみがまのけぶりは空にかよへどもおほはら山の月ぞさやけき」(『赤染衛門集』五二四)、「世をそむく方はいづくにありぬべし大原山は住みよかりきや」(『新古今集』雑中、和泉式部、一六四〇)。
◆朧(おぼろ)の清水 寂光院途中の道に「朧(おぼろ)の清水」がある。小さな井泉は、建礼門院が朧月夜に井水に姿を映し、やつれ果てた自らの姿を見て、身の不運を嘆いたとされる。
 建礼門院は、平清盛の次女であり、高倉天皇の女御になり、安徳天皇を産む。平氏の滅亡が始まり、壇ノ浦の戦いで投身したものの捕らわれる。剃髪後、大原に29歳で移り住み、その後亡くなるまでの30年間を隠棲したという。
 歌枕になっている。「ひとり澄む おぼろの清水友とては 月をぞすます 大原の里」寂然。
◆おつうが森 「おつうが森(乙が森)」は、寂光院へ向かう途中、草生川沿いにある小さな森をいう。
 若狭の大名に見初められた「おつう(於通)」という美しい村娘は、厭きられる。病を患い里へ返される。正気を失った娘は、村を通りがかった殿の行列に近づき、家来に斬られた。また、おつうは身を投げ、蛇身になって殿の後を追い、家来によって3つに斬られたという。
 これが大原の蛇祭りの始まりであり、毎年3月10日に行なわれている。藁で作られた蛇の頭と胴はおつうが森、尾は江文神社御旅所・花尻の森(花尻橋、5月5日)でそれぞれ祀られている。
◆小野かすみ 春から夏にかけての夜半、「小野かすみ」が発生する。南の花尻あたりに発生した霞は、北上し始め、小塩山の中腹を伝う。小野山からふたたび南下し、明け方に花尻で消えるという。
 また、金毘羅山、翠黛山の谷から、北と南の二手に分かれて流れ、戸寺町あたりで一つになり消えるともいう。
 小野小町の霊が、霞になっているとの言い伝えもある。かつて、里を悩ました大蛇(おつう)を退治した際に、二つに斬られ、別々に埋められた首と尾が、霧になり一つにつながるともいう。
◆紫蘇 盆地である大原の里は、良質の紫蘇の産地として知られている。「ちりめん赤紫蘇」は、9世紀に伝来した。原産地はヒマラヤ、中国という。防腐力に優れ、味、香りも高い。
 紫蘇は、紫葉漬け(柴漬け)に使われる。紫葉漬けの名は、建礼門院によるという。紫蘇、茄子(なす)の葉・実、茗荷(みょうが)、唐辛子の塩漬けによる乳酸発酵食品には、800年の歴史がある。冬場の保存食として用いられた。
 紫葉漬けは京都の三大漬物の一つ(ほかに千枚漬、スグキ漬)に数えられている。
◆若狭街道 若狭街道(鯖街道)とは、若狭の国(現在の福井県小浜)から、北前船で陸揚げされた魚、海産物などを九里半街道、若狭街道を経て京都まで運んだ街道をいう。「魚道」の別称もある。
 「鯖街道」という呼び名については、古くからある呼称はなく、戦後になってから使われた俗称という。古くより若狭から運ばれたのは塩であり、海産物(塩干しのむし鰈、小鯛)、ほかに、木炭、油粕、穀類、下駄、菜種などの特産品も運ばれていた。
 若狭街道は、若狭からいくつもの道筋があった。さらに、京都だけではなく、奈良、飛鳥、丹波篠山などへも通じていた。平城宮跡から出土した木簡にも記録が残っているという。千数百年以前に、すでに若狭との交易が始まっており、その道は、海産物や塩、大陸文化なども伝える重要な道でもあった。
 鯖は、滋賀県を経由して終点の出町柳まで、18里(約80km)を、10貫(37.5㎏)、15貫(56㎏)の荷を負縄一本で担ぎ、一昼夜で運んだ。若狭湾で早朝に取れた鯖は、一塩され、熊川までは女性が運ぶ。さらに午後からは、「街道稼ぎ」といわれた男たちが、夜を徹して峠を越え、翌日の早朝に入洛した。
 京都まで運ぶと、都に着く頃には熟れて、いい塩加減になっており、この「若狭の一塩もん」は、塩鯖、刺鯖、鯖寿司などに加工された。鯖寿司は、若狭の鯖と米どころ近江米により生まれた。酢と昆布でしめ、竹の皮で包んだ押し寿司をいう。京都では、葵祭、祇園祭などの節々の祭りの際には、必ずに食されてきた。
◆七石 名石として知られ、庭石として重宝された「加茂の七石」の一つとして、高野川産の「八瀬真黒石」がある。
◆映画 現代劇映画「越前竹人形」(監督・吉村公三郎、1963年、大映京都)では、大原で撮影が行われた。雪の中、玉江(若尾文子)が墓参りにやってくる。
 時代劇映画「華岡青洲の妻」(監督・増村保造、1967年、大映京都)では、母(高峰秀子)と妻(若尾文子)がマンダラケの花を摘む。
◆生物 かつては禁河とされ、アユは天皇に供されていた。いまも、特別天然記念物のオオサンショウウオが棲むという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料
 『京都大事典』、『京都絵になる風景』、『京都の地名検証』、『京都の地名検証 2』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』
 

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