|
|
蓮成院〔来迎院〕 (京都市左京区大原) Renjo-in Temple |
|
蓮成院 | 蓮成院 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() 石段 ![]() ![]() 山門 ![]() ![]() 石段上に客殿 ![]() 庫裡(左)、客殿 ![]() ![]() ![]() ![]() 石垣 ![]() |
音無の滝に向かう急峻な坂道の途中、呂川に架かる羅漢橋を渡った石垣上に、蓮成院(れんじょう-いん)はある。来迎院の塔頭の一つになる。 天台宗、本尊は阿弥陀如来像を安置している。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 室町時代、応永年間(1394-1428)、「北ノ坊」と呼ばれた。当初は来迎院内、また、三千院内にあったともいう。 江戸時代、本堂(来迎院)の僧房の一つとして、呂川沿いに蓮成院があった。江戸時代に、現在地に移転したともいう。 1720年、寺号は「蓮成院」に改められる。 1726年、焼失した。 近代、1926年、現在地に移転したともいう。 ◆良忍 平安時代後期の融通念仏宗開祖・良忍(りょうにん、1073-1132)。男性。俗姓は秦、若い頃は良仁、号は光乗(静)房、諡号は聖応(しょうおう)大師、本願上人。尾張国(愛知県)の生まれ。富田荘領主の子。1083年、比叡山に入る。比叡山の東塔檀那院実報房辺に住した。堂僧になり、実兄・良賀に師事し出家する。無動寺明王堂に1000日間はだし参りを行う。不断念仏を修め、良仁の名を与えられる。園城寺・禅仁から戒法、観勢から円頓戒脈を相承する。仁和寺・永意から秘密灌頂を受けた。山門派(延暦寺)と寺門派(三井寺・園城寺)との対立を嫌い、山を下りる。1094年、大原に隠棲し、名も良忍に改める。大原・勝林院の永縁らに従い、声明梵唄を学ぶ。その後、常行三昧堂から念仏と読経(声明)を切り離して独立させ、天台声明を統一し大原声明を完成させた。1109年、大原に来迎院・浄蓮華院の2院を建てる。1117年、阿弥陀仏の霊告を感得し、自他融通の念仏を創始した。1124年、宮中で融通念仏会をいとなむ。1125年、鞍馬寺に詣で通夜をし、本尊・毘沙門天が現れて融通念仏を守護すると告げたという。1127年、鳥羽上皇(第74代)の勅願により、河内平野に修楽寺の別院(大念仏寺の前身、日本初の念仏道場)を開く。1132年、来迎院で没したという。60歳。 融通念仏宗の開祖、円仁の請来した声明を習得・大成し、天台大原魚山声明中興の祖になる。融通念仏は阿弥陀仏の夢告により、「一人の念仏が万人の念仏に通じる」とした。念仏唱える者は自分だけではなく万人のためにも唱え、万人が一人のために唱えることで念仏の功徳が高まると説いた。1773年、聖応大師の号を追諡された。 ◆守脩親王 江戸時代後期-近代の皇族・守脩親王(もりおさ-しんのう、1819-1881)。男性。幼称は万代宮、法名は覚諄、昌仁。父・伏見宮貞敬親王の第10王子、母・不詳。伏見宮邦家親王の弟。1833年、親王宣下を受け、守脩と命名された。円満院に入り、出家し覚諄入道親王と称した。1856年、二品に叙せられる。1859年、円融院に入る。梶井門跡になり、昌仁入道親王に改めた。天台座主も務めた。1868年以降、還俗し、梶井宮守脩親王を名乗る。1869年、上野太守に任じられる。1870年、宮号を梨本宮に改称した。63歳。 梨本宮(なしもとのみや)初代。継嗣が無く、山階宮晃親王の王子・甥の菊麿王を養子にした。 墓は泉涌寺内(東山区)にある。 ◆仏像 ◈本尊は「阿弥陀如来像」になる。室町時代作という。 ◈厨子内に平安時代後期(12世紀)作の「毘沙門天像」になる。現代、2021年の調査で判明した。平安時代の冠を被る。室町時代作のその妻・「吉祥天像」、その子・「善膩師(ぜんにし)童子像」が三尊形式で安置されている。 ◆建築 ◈石段上に「薬師門」がある。門は通りに面しておらず、石段を上り左に折れ、さらに石段を上がった地点に西面して開く。 ◈「庫裡」は、玄関の東側(左手)にある。 ◈「客殿」は、玄関の西側(右手)になる。江戸時代後期-近代の昌仁法親王(守脩親王)(1819-1881)の仮御殿として、当初は三千院内に建立された。近代以前(江戸時代)に現在地に移築されたとも、近代、1926年に宸殿再建に伴い移築されたともいう。 東西方向に2室あり、西の「上の間」(10畳)は昌仁法親王が用い、東の「下の間」(10畳)は来迎院長老が用いたという。2室の境に宮家の欄間が見られ、釘隠しには菊花紋が刻まれている。 南側は庭園に面し、畳敷の縁(幅180㎝)がある。切妻造。 客殿の南西角は、昌仁法親王の持仏堂であり、仏間になっている。 ◆文化財 ◈客殿上の間に、近現代の日本画家・菊池契月(きくち-けいげつ、1879-1955)筆の障壁画「飛天図」がある。 ◈客殿下ノ間に、近代の日本画家・木島櫻谷(このしま-おうこく、1877-1938)の色紙貼交襖があり色紙を貼り交ぜる。 櫻谷筆の屏風には、水墨画により雄雌の2頭の鹿が描かれている。 ◈近現代の日本画家・西山翠嶂(にしやま-すいしょう、1879-1958)筆の兎を描いた作品がある。 ◈近代の日本画家・川北霞峰(かわきた-かほう、1875-1940)筆の竹林を描いた襖絵がある。 ◈日本画家・鈴木松年(すずき-しょうねん、1848-1918)筆の屏風がある。 ◈近代の日本画家・川村曼舟(かわむら-まんしゅう、1880-1942)筆の衝立がある。 ◆庭園 客殿南側に庭園がある。山の傾斜を利用し築山にしており、立体的な構成になっている。視点場は西側の客殿・東側の庫裡の2点になる。近代、1899年の『京都府山城国愛宕郡大原村 天台魚山総図』には、庭園名を「契心園(けいしん-えん)」と記している。名の由来は池の形が「心」字のためともいう。 客殿南に広がる西半分は池泉式庭園になる。かつては池庭であり、現在は水が流れされていない。苔地が広がり、手前に池が掘られ、中島には石橋が架かる。左手奥に滝石組があり、声明(しょうみょう)に由来する「音羽の滝」を模したという。4本のモミジとともにツツジの刈込、シャクナゲなど大小の植栽、立石などで構成されている。 東半分(客殿の左手奥)は、客殿からは見えない。大小の景石30石/50-60石ほどによる枯山水式の石庭になっている。石組は羅漢(仏陀の弟子)を表したともいう。良忍を羅漢が出現して迎えたという故事に因んだともいう。 ◆塔頭 江戸時代に本堂(来迎院)と僧房が呂川沿いに建てられていた。蓮成院のほか、浄蓮華院(じょうれんげ-いん、融通寺[ゆうずう-じ])、善逝院(ぜんせい-いん)、遮那院(しゃな-いん)などがあった。 近代以降は、蓮成院などの境内塔頭(子院)の総称だった来迎院の名は、来迎院本堂の尊称に変わる。 ◆石垣 境内の北側・周囲には野面積の石垣が築かれている。 ◆羅漢橋 境内北側の呂川に架かる羅漢橋は、開山・良忍ゆかりという。 *普段は非公開 *境内の写真撮影は禁止 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都市の地名』、パンフレット「蓮成院」、「拝観の手引-令和4年度第58回京都非公開文化財特別公開」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|