京都祇園堂・祇園女御の墓(祇園女御塚) (京都市東山区)
Kyoto-giondo Temple
京都祇園堂 京都祇園堂 
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京都祇園堂






祇園女御供養塔


祇園女御の墓(宝篋印塔)、2004年に新しく立てられた。


阿弥陀堂京都祇園寺の寺号石標
 円山公園の南に、京都祇園堂(きょうと-ぎおんどう)がある。阿弥陀堂京都祇園寺祖廟という鉄筋コンクリート造りの小堂が建つ。真新しい祇園女御(ぎおんにょうご)の宝篋印塔が立つ。
 付近の字を「女御田」と称していた。この地は、平安時代の白河法皇(第72代)の寵妃・祇園女御の屋敷跡、仏堂跡ともいう。また、平安時代の第67代・三条天皇中宮・藤原妍子、第66代・一条天皇中宮・藤原彰子の火葬地だったともいう。
◆歴史年表 平安時代、1104年、第73代・堀河天皇の御願寺として、祇園社の巽角(東南)に、官吏・高階為家により尊勝寺・阿弥陀堂の建立が始まる。(『中右記』『百錬抄』)。境内は、真葛原(まくずがはら)の南部、双林寺の南部といわれる。
 1105年、10月26日、阿弥陀堂の開眼供養が行われる。院の殿上人がすべて参加するほどの盛大なものだったという。堂内には丈六の阿弥陀仏を安置し、以後、祇園女御が住したという。(『中右記』)
 1111年、祇園女御は、仁和寺内に威徳寺を建立し晩年は移る。阿弥陀堂のその後については不明。阿弥陀堂の跡地には、天台宗の蓮花(華)寺が建立されたという。(『坊目誌』)
 後世、草堂坊舎一宇だけが残っていたという。(『坊目誌』)
 近代、1868年、蓮花(華)寺は廃寺になる。祇園女御の木像(坐像一尺、中古 [平安時代、鎌倉時代?] 作)が安置されていた。木像は京都府庁に遷されたという。(『坊目誌』)。跡地には、祇園女御塚という墳墓があったという。
 1904年、阿弥陀堂が建立される。
 現代、1972年、阿弥陀堂保存会有志により、祇園女御塔(五輪塔)が建立されている。
 1994年、阿弥陀堂京都祇園寺が建立される。阿弥陀堂、祇園女御塔は京田辺市天王に遷されたという。
 2004年、祇園女御塚(宝篋印塔)が新たに立てられる。
◆祇園女御 平安時代後期の女性・祇園女御(ぎおん-にょうご、?-?)。詳細不明。祇園社脇の水汲み女、源仲宗の妻、仲宗の子・惟清の妻ともいう。白河法皇の下級官女として仕え寵愛を受ける。1104年頃、藤原公実の娘・待賢門院璋子を養女とし、法皇の養女として育てる。1105年、祇園社の東南に阿弥陀堂を建て住した。1111年(1109年とも)、仁和寺内に威徳寺を建立し晩年は移る。僧・禅覚を養子にした。1113年、六波羅蜜堂で一切経供養を営む。権勢を誇る。女御宣旨は下らず祇園女御と通称され、東御方、白河殿とも呼ばれた。
◆藤原妍子 平安時代中期の第67代・三条天皇の中宮・藤原妍子(ふじわらの-けんし、994-1027) 。藤原道長の次女。母は源倫子。1004年、尚侍従三位に叙せられる。1010年、東宮居貞親王(三条天皇)に入る。1011年、天皇即位により女御になる。1012年、中宮になった。1018年、皇太后になる。枇杷皇太后と呼ばれた。1013年、禎子内親王(陽明門院)を産む。1027年、禎子内親王を東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入れる。死に臨み出家した。34歳。
 妍子は、この付近の「祇園の東、大谷」の広き野で火葬されたという。(『栄花物語』巻29)。また、「一条西洞院の大峰野」(『日本紀略』)ともいう。宇治陵に葬られた。
◆藤原彰子 平安時代中期の皇后・藤原彰子(ふじわらの-しょうし、988-1074)。上東門院(じょうとうもんいん)。藤原道長の長女。母は源倫子(りんし)。999年、従三位に叙せられ、一条天皇に女御として入内する。1000年、中宮になる。一条天皇には皇后・藤原定子 (ていし) がおり、2后が並立した。1008年、敦成(第68代・後一条天皇)親王、1009年、敦良(第69代・後朱雀天皇)親王を産む。1012年、天皇の死とともに皇太后になる。1018 年、太皇太后になった。1026年、出家し清浄覚と称した。院号を受ける。晩年、法成寺内に東北院を建てて住み、大女院と呼ばれ国母とされた。
 外祖父として道長の全盛時代を迎える。彰子には、紫式部、和泉式部が女房として仕えていた。この付近が、彰子の火葬地ともいう。陵墓は宇治陵(宇治市木幡)になる。
◆祇園寺 平安時代、1105年に祇園女御は、祇園社の巽角(東南)の広大な敷地に祇園寺(尊勝寺阿弥陀堂)を建立したという。真言宗であり、祇園堂には丈六の阿弥陀堂を安置していた。供養の際には、金銀珠玉に満ち、荘厳美麗で筆舌に尽くしがたいものであり、公卿殿上人らは直衣・束帯の参列で盛大華美を極めたという。(『中右記』)。堂には祇園女御が住した。
 1111年、祇園女御は、仁和寺内に威徳寺を建立し、晩年は移っている。阿弥陀堂のその後については不明。阿弥陀堂は荒廃したという。跡地には、天台宗の蓮花寺が建立されたという。後世、草堂坊舎一宇のみが残っていた。近代に入り廃寺となる。(『坊目誌』)
 近年まで「阿弥陀堂」が残されていた。その南西に塚状の台地があり、その上に五輪塔(女御塚)が立てられていたという。
◆伝承 白河院は、祇園感神院(八坂神社)への参詣の途中で、美しい女性を見初めた。宮中に召し入れ、祇園社の巽(東南)に御所を建てて住まわせた。このため、祇園女御と呼ばれた。
 永久年間(1113-1118)、五月雨の夜、白河院は祇園女御のもとへ赴く。途中、前方に鬼(光を放つ怪物)を見たという。供の平忠盛が生け捕りにした。鬼ではなく、蓑を被った社僧(老法師)だった。社僧は、油壺と松明を持ち、灯籠の燈明に火を灯すところだった。
 白河院は、忠盛の冷静沈着ぶり、その勇気に感動した。忠盛の武勲に対して、寵愛していた祇園女御を与えたという。女御は既に懐妊しており、白河院は、産まれた子が女児であれば白河院に、男児であれば忠盛の子とすると約束したという。産まれたのは男児であり、忠盛が育てたのが平清盛だったという。(『平家物語』巻6「祇園女御」)。
 また、忠盛が賜ったのは女御の妹だった。清盛とは白河院と女御の妹との間の子ともいう。清盛が3歳の時に実母は亡くなり、その後、女御は養母になったともいう。
 八坂神社境内に、忠盛の伝承に登場する「忠盛灯籠」が立てられている。
 ◈付近一帯に祇園女御の屋敷跡、仏堂跡があったと伝えられている。この地を耕す者には、必ず祟りがあると恐れられた。このため、永く空き地になっていたという。
 ◈かつて、この地にあった石を持ち帰った人があった。その後、高熱を出したため、元に戻したところ治まったという。
◆尊王山祇園寺 祇園寺は、山号を尊王山という。本尊は阿弥陀如来を安置している。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』 『京都大事典』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』 、ウェブサイト「コトバンク」


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阿弥陀堂京都祇園寺祖廟  〒605-0071 京都市東山区円山町  
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