井手寺(井堤寺)跡 (井手町)
Ide-ji Temple
井手寺(井堤寺)跡 井手寺(井堤寺)跡 
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礎石のひとつ。


東屋の復元軒丸瓦


復元鬼瓦


橘諸兄の万葉歌碑。「賂(まひ)しつつ 君が生(お)ほせる なでしこが 花のみ訪(と)はむ 君ならなくに」(755年、「万葉集」、第20巻4447)
 丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)邸で開かれた宴で歌われた。慈しんであなたが育てた撫子の花、あなたは私が花だけを楽しみに訪れようという人ではないという意味。丹比真人の「我が宿に 咲けるなでしこ 賄はせむ ゆめ花散るな いやをちに咲け」に応えた挨拶歌という。



「井堤郷旧地全図」、井手寺、玉井頓宮、諸兄公舘地なども描かれている。


「井堤郷旧地全図」、井手寺付近。



玉川、日本六玉川(ほかに東京調布、和歌山高野、宮城野田、大阪三島、滋賀野路)の一つという。かつては山吹の名所として知られていた。歌人らが歌い350種以上が残っている。1953年の南山城水害で壊滅的な被害を受けた。その後、1960年より復興整備が行われ、ソメイヨシノ、山吹も植えられている。平成の名水百選(2008)にも選ばれた。
 平安時代に井手には、橘氏の氏寺である井手寺(いでじ、井堤寺)が建立されていた。寺はその後廃寺となり、いまは跡地とされる田畑の一角に東屋だけが建てられている。 
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、621年、山背大兄王の本願により建立されたという。別荘をもとに建てられた。
 731年、葛城王(橘諸兄)により上井手大地南端に、その母・橘三千代の一周忌に因み橘氏の氏寺として再建されたという。
 740年、聖武天皇は橘諸兄の相楽別業に臨み、宴を催したという。(『続日本紀』、同年条)
 平安時代、興福寺末寺となる。
 1026年、井堤寺が破損し、雨漏りにより仏像が損傷していると記されている。(『左経記』)
 1142年、井堤寺などが描かれている。(「山城国井堤郷旧地全図」、模写は1326年、1803年)
 1165年、梅宮社の神宮寺となり、寺の別当職に橘氏より任命された。(『兵範記』)
 平安時代後期、橘氏の衰退とともに寺運も傾いた。
  室町時代、1441年、僧房8宇、神人4人がいたと記されている。(『興福寺官務牒疏』。興福寺の支配下にあったとみられている。以後の記載は絶える。
 応仁・文明の乱(1467-1477)前後に焼失したとみられている。
 江戸時代、1800年頃、井手寺跡地に建てられていた蓮台寺が廃寺となる。
 近代、1923年、梅原末治博士(1893- 1983)により発掘調査が行われる。
 現代、2001年、府道工事の際に7基の柱穴が発見された。
 2004年、発掘調査が行われた。彩色の垂木先瓦、軒丸瓦、軒平瓦、礎石の裾付穴などが出土している。
◆井手寺 井手寺の遺跡地は近代に開墾され、遺構の大部分が破壊された。このため、詳細についてはわかっていない。現在の中央付近を通る府道の四方240mの範囲に境内があったとみられている。周辺には薬師堂、ドウノウエなどの地名も残されている。
 寺は円堤寺、井堤寺ともいわれた。東西、南北とも240mの境内を有し、塔、金堂などの七堂伽藍が整う法隆寺形式の大寺だった。金堂、回廊の周り、近くの玉川沿いにも山吹が植えられ花の名所となっていたという。
 寺の遺構からは、緑、白、褐色の釉薬による彩色の垂木先瓦、六葉複葉蓮華紋などの4種の軒丸瓦(20㎝、16.5㎝、18㎝)、珠文帯・唐草文など2種の軒平瓦(16.5㎝、18㎝)などが出土している。平城京、恭仁京と同笵瓦が出ており、平城京の官寺に匹敵する規模だったという。
 花崗岩製の礎石(直径64㎝、直径90㎝)は造り出しの高さの違う3種(1つは18㎝)、9個が見つかっている。これらにはすべて火災痕がある。そのほか、天神社付近より「隆平永宝」(796年鋳造)という古銭、海獣葡萄鏡なども見つかっている。玉川南の岡田池畔に瓦窯跡も数基発見されており、ここで寺の屋根瓦を製造していたとみられている。
 平安時代、1143年に描かれたという絵図を、鎌倉時代、1326年に模写した「井堤郷旧地全図」がある。隆盛時の寺、橘諸兄の別業、玉井頓宮(かりのみや)の様子なども描かれている。ただ、後年、江戸時代の作ともいわれている。高知県土佐市の正念寺には、平安時代前期作の梵鐘が伝えられ、「井手寺」の銘がある。井手寺の梵鐘が流出したものと推定されている。
 2001年、府道工事の際に7基の柱穴が発見された。一辺1m前後の四角形の柱穴で3mごとに一列に並んでいた。柱穴内に柱跡、柱を支えた根石も発見されている。
 橘氏は一時期、源平藤橘の四姓のひとつに数えられていた。だが、藤原氏の勢力が復するとともに、平安時代後期になり衰退し寺運も傾いた。
◆山背大兄王
 飛鳥時代の王族・山背大兄王(やましろ の おおえのおう、?-643)。父は厩戸王(聖徳太子)、母は蘇我馬子の娘刀自古郎女。岡本宮(のちの法起寺)で生まれ、斑鳩宮に移る。628年、推古天皇没後、田村皇子(後の舒明天皇)と皇位継承を争った。629年、王は敗れ皇子が即位した。643年、蘇我入鹿は上宮王らを廃し天皇の子・古人大兄を立てようと王らを斑鳩寺に襲った。王は馬の骨を寝殿に投げ置き、妃や子弟らと生駒山へ逃れたという。王らは斑鳩寺に戻り一族とともに縊死した。
◆橘諸兄 奈良時代の貴族で政治家・橘諸兄(たちばな の もろえ、684‐757)。第30代・敏達天皇の孫、曾孫という栗隈王の孫で美努王の子。母は橘三千代。光明皇后の同母兄で奈良麻呂の父。井出左大臣、西院大臣と号した。初代橘氏長者。葛城王と称した。729年、山背国班田司に任じられる。731年諸司の挙により参議となる。737年天然痘の流行で藤原四兄弟など多くの議政官が亡くなるが生き残る。大納言になり、聖武天皇を補佐した。736年、臣籍に下り、母の氏姓を継ぎ橘宿禰諸兄と称することを許される。740年、恭仁京遷都の推進役となる。749年、生前にもかかわらず正一位となる。750年、朝臣姓を賜られる。755年、聖武上皇への不敬との讒言により、756年に職を辞した。『万葉集』の撰者の1人ともいい、自らも7首選ばれている。
 諸兄は、井手(井出)の里を本拠地とし、高台に館を構えていた。また付近に、橘氏氏寺の大寺、井手(井堤)寺も建立した。
◆橘氏 奈良時代中期、井手左大臣と称された橘諸兄により、橘氏は中央政界に台頭し、井手を拠点とした。だが、諸兄没後の757年、その子・橘奈良麻呂(721-757)は、伸張した藤原仲麻呂に対して不満を抱き抗しようとしたが、事前に発覚し捕えられ拷問死したとみられている。その後、橘氏は勢力を喪う。
 平安時代、815年、奈良麻呂の孫・嘉智子(壇林皇后、786-850)が第52代・嵯峨天皇皇后となり、第54代・仁明天皇を産む。橘氏は再び隆盛となる。嘉智子の弟に右大臣・氏公(783-848)がいる。従兄に三筆の一人の逸勢(?-842)、参議・文章博士の廣相(837-890)がいる。その後、橘氏は地方豪族として活躍し、鎌倉時代から南北朝時代に楠木正成(1294?-1336)も輩した。
◆梅宮大社 井手寺境内には、橘諸兄の母の橘三千代(665? -733)が、奈良より遷したとされる梅宮社が祀られていた。国土開発、醸造の守護神である酒解の神を祀り、橘氏の氏神でもあった。
 平安時代、815年、諸兄の曾孫・壇林皇后(橘嘉智子、786-850)が嵯峨天皇皇后になると、弟・井手右大臣・氏公とともに、梅津(右京区、現在の梅宮大社)に梅宮社を遷し、二十二社のひとつとなる。井手寺は梅宮社の神護寺となったとみられている。梅宮大社の宮司は代々、橘氏によって務められているという。
◆小野小町伝承 平安時代の小野小町(815?/826?-898?)と井手寺についての伝承がある。
 小野小町は山城の井手の里に住し、井手寺の別当の妻になり、69歳で井手寺で亡くなったともいう。(『冷泉家記』『冷泉家流 伊勢物語抄』)
 現存する小野小町之塚(井手町)の4つの四角い石積みの石は、井手寺(井堤寺、光明寺)の礎石を利用したものという。
◆井手 地名の井手(いで)について、古くは「兎手(うで)」と記された。「井手」、「井堤」、「井堰」とも書かれた。木津川支流の一つである玉川の扇状地に堰を設けて灌漑用水に利用した。井手とは、その井堰に由来する。
◆井手の玉水 「井出の玉水(いでのたまみす)」は、「山城の井出の玉水手にむすびたのみしかひもなき世なりけり」(『伊勢物語』122段)に見られる。藤原俊成は「いかにしてかきたえぬらむもろともに井出の玉水むすびしものを」(『長秋詠藻』347)と詠った。
 井出の玉水とは、奈良から京都に向かう途中にあった清水、また、井出にあった「玉の井」を意味したともいう。蛙塚には、「玉水」という湧水があったという。1872年に廃寺になった井出の玉井寺には湧水があり、その井水の名ともいう。さらに、玉川の清らかな流れを指したともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『井手町の自然と歴史』『井手町の古代・中世・近世』『井手町の近代Ⅰと文化財』『井手の里を歩く』『井手町歴史愛好ロマンのしおり』『橘氏のふるさと 井手』『京都の地名検証』


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井手寺(井堤寺)跡 〒610-0302  綴喜郡井手町大字井手小字西高月 
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