六角井戸・玉井頓宮跡 (京都府井手町)
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六角井戸・玉井頓宮跡 六角井戸・玉井頓宮跡 
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橘諸兄の歌碑(1995年建立)、「むぐら延(は)ふ 賤(いや)しきやども 大君(おほきみ)し まさむと知らば 玉敷かましを」(752年、「万葉集」、巻19、4270)
 むぐらの広がるみすぼらしい家でも、大君がお出になると分かっていたら、玉をお敷きいたしましたのに。

 井出町の石垣地区の安養寺近くに、六角井戸(ろっかくいど)といわれる井戸跡がある。奈良時代に、この地は古北街道という平城京から近江、北陸へ通じる道筋に当たっていた。井戸は、玉井頓宮跡に残されたものといわれている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 奈良時代、727年、第45代・聖武天皇は橘諸兄の別業に滞在する。
 740年、聖武天皇は相楽別業に入った。恭仁京遷都にともない、諸兄はその推進役となる。恭仁京に近い井手の地で政務に就く。
 752年、別業に聖武天皇を迎える。
 現代、1953年、南山城大洪水までは、井戸には湧水があり地元で利用されていたという。
◆橘諸兄 飛鳥時代-奈良時代の貴族・政治家・橘諸兄(たちばな-の-もろえ、684-757)。本名は葛城(かつらぎ)王、井出左大臣、西院大臣。第30代・敏達(びだつ)天皇の玄孫・美努(みの/みぬ)王の子、母は県犬養橘三千代 (あがた-の-いぬかい-の-たちばな-の-みちよ) 。光明皇后の同母兄で奈良麻呂の父。室は藤原不比等の娘・多比能(むすめたひの)。710年、従五位下、729年、班田使に任じられた。731年、諸司の挙により参議になる。732年、従三位に昇叙した。736年、臣籍に下り、母の氏姓を継ぎ橘宿禰諸兄(すくね-もろえ)と称することを許される。737年、天然痘の流行で藤原不比等の4子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) 、中納言・多治比県守など多くの議政官が亡くなる。大納言になり、第45代・聖武天皇を補佐した。738年、右大臣になり、唐から帰国した玄昉(げんぼう)、吉備真備(きび-の-まきび)らを顧問に起用した。740年、諸兄排斥の藤原広嗣の乱が九州で起こる。恭仁京遷都の推進役になる。749年、生前にもかかわらず正一位左大臣に昇る。750年、朝臣姓を賜った。755年、聖武上皇への不敬との讒言により、756年、職を辞した。『万葉集』の撰者の1人ともいう。自らも入首している。74歳。
 初代橘氏長者。晩年は藤原広嗣の乱、恭仁京造営失敗、大仏造立の困難などにより、台頭した藤原仲麻呂に押された。
 諸兄は、井手(井出)の里を本拠地とし、高台に館を構えていた。付近に、橘氏氏寺の大寺、井手(井堤)寺も建立した。
◆六角井戸・玉井頓宮 現在の井筒は石板(幅90㎝、高さ40㎝、幅10㎝)6枚により六角形に組まれている。
 井戸は、玉井頓宮内にあったとされ、公(橘諸兄)の井戸と呼ばれていた。その位置は、玉川の南、石垣の中央の頓宮跡とされ、六角井とも呼ばれていたという。(『山城綴喜郡誌』、1908)。また、『山城国井堤郷旧地全図』(1143)にも、現在の井戸付近に玉井頓宮が描かれているという。ただ、図の正確さについては不確定とされている。なお、橘諸兄の建てた相楽(さがら)別業と玉井頓宮は別の建物とみられている。
 740年、太宰府で挙兵した藤原広嗣の乱後、聖武天皇は平城京を発ち東国行幸を行う。これには橘諸兄も同行している。伊賀、伊勢、美濃、近江を経て、10月14日に玉井頓宮に入った。一泊し、翌15日に恭仁京へ向かい遷都を明らかにした。(『山城綴喜郡誌』、1908)
 また、斎宮が伊勢神宮よりの帰洛の際には、玉井頓宮に立ち寄り休憩の所として使っていたという。(『山城綴喜郡誌』)。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『井手町の近代Ⅰと文化財』、『井手の里を歩く』、『井手町歴史愛好ロマン』 、ウェブサイト「コトバンク」

 
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六角井戸  京都府綴喜郡井手町大字井手石垣字宮ノ本 
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