橘諸兄公旧跡・供養塔(公蹟) (京都府井手町)
grave of Tachibana no, Moroe
橘諸兄公旧跡・供養塔(公蹟)  橘諸兄公旧跡・供養塔(公蹟)
50音索引,Japanese alphabetical order   Home 50音索引,Japanese alphabetical order   Home

参道の石段


橘諸兄公旧責の碑


供養塔


井手火山灰層



井手火山灰層
 井手町南開の竹林に、奈良時代の橘諸兄の墳墓とされる地がある。かつて、北王塚と呼ばれていた。近年に碑、墓が立てられている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 現代、1974年、奈良大学考古学研究会による調査が行われる。
 1976年、井堤保勝会により、井手左大臣橘諸兄公墳の碑が立てられる。
◆橘諸兄 飛鳥時代-奈良時代の貴族・政治家・橘諸兄(たちばな-の-もろえ、684-757)。本名は葛城(かつらぎ)王、井出左大臣、西院大臣。第30代・敏達(びだつ)天皇の玄孫・美努(みの/みぬ)王の子、母は県犬養橘三千代 (あがた-の-いぬかい-の-たちばな-の-みちよ) 。光明皇后の同母兄で奈良麻呂の父。室は藤原不比等の娘・多比能(むすめたひの)。710年、従五位下、729年、班田使に任じられた。731年、諸司の挙により参議になる。732年、従三位に昇叙した。736年、臣籍に下り、母の氏姓を継ぎ橘宿禰諸兄(すくね-もろえ)と称することを許される。737年、天然痘の流行で藤原不比等の4子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) 、中納言・多治比県守など多くの議政官が亡くなる。大納言になり、第45代・聖武天皇を補佐した。738年、右大臣になり、唐から帰国した玄昉(げんぼう)、吉備真備(きび-の-まきび)らを顧問に起用した。740年、諸兄排斥の藤原広嗣の乱が九州で起こる。恭仁京遷都の推進役になる。749年、生前にもかかわらず正一位左大臣に昇る。750年、朝臣姓を賜った。755年、聖武上皇への不敬との讒言により、756年、職を辞した。『万葉集』の撰者の1人ともいう。自らも入首している。74歳。
 初代橘氏長者。晩年は藤原広嗣の乱、恭仁京造営失敗、大仏造立の困難などにより、台頭した藤原仲麻呂に押された。
 諸兄は、井手(井出)の里を本拠地とし、高台に館を構えていた。付近に、橘氏氏寺の大寺、井手(井堤)寺も建立した。
◆公墳 この付近には、6世紀-7世紀初期、飛鳥時代-奈良時代にかけての古墳群が多くみられるという。近代以前には、墳丘らしきものが存在していたという。(『綴喜郡誌』)。
 近代以降、孟宗竹の栽培が盛んになり、墳墓は破壊されたため遺構の確認はできなくなっている。1974年、奈良大学考古学研究会による調査では、断面の盛土、6世紀(501-600)初期の埴輪なども発見された。この地に、建築物があったとも推定され、古墳を後世に諸兄の墳墓にあてたものともいう。
井手火山灰層 墳墓の近くに井手火山灰層という地層が崖地に露呈している。150万年前(新生代、第四紀、更新世)、長野で起きた大規模な火山噴火により降灰があり、それが堆積したものという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『井出町の自然と歴史』、『井出町の古代・中世・近世』、『井手町の近代Ⅰと文化財』、『井手の里を歩く』、『井出町歴史愛好ロマンのしおり』、『橘氏のふるさと 井手』 、ウェブサイト「コトバンク」   

関連・周辺井手寺(井堤寺)  関連・周辺六角井戸  周辺  関連    
橘諸兄公旧跡・墳墓 〒610-0302 京都府綴喜郡井手町井手弥勒1
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  ©2006- Kyotofukoh,京都風光