南遣迎院 (遣迎院) (京都市東山区) 
Minami-kenko-in Temple
南遣迎院 南遣迎院
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「西山国師御終焉之地」の碑




左は毘沙門天、右は地蔵堂




裏の竹藪、かつて安倍晴明の塚があったともいう。
 南遣迎院(みなみ-けんこういん/ けんごういん)は、遣迎院とも呼ばれる。東福寺の南西に位置し、証空の終焉の地になる。  
 かつて釈迦、弥陀の遣迎二尊の像を本尊としたことから遣迎院と称された。山号は慈眼山という。
 浄土宗西山禅林寺派、本尊は十一面観世音菩薩。
 西山国師(証空)遺跡霊場第10番札所。
◆歴史年表 鎌倉時代
、1201年/1234年、証空により開山された。(『西山上人伝』)。当初は、伏見大路の東(東福寺前三ノ橋南、東山区)にあったという。(『拾遺都市名所図会』『山城名跡志』)。証空に帰依した九条道家が住処し、後に仏閣としたともいう。浄土、天台、真言、律の四宗兼学道場となる。「四箇本寺」(ほかに、廬山寺、二尊院、般舟院)のひとつに数えられた。当初、発遣釈迦、来迎弥陀の二尊を本尊とした。(『拾遺都市名所図会』)。
 1247年、証空は遣迎院で亡くなる。
 安土・桃山時代、1575年、定額寺になる。(『山城名跡巡行志』)
 1583年、寺は二分する。当地では南遣迎院と称した。他方は2度の移転後、現在は北区鷹峰で浄土真宗の遣迎院となる。
 近代、1868年、南遣迎院は廃仏棄釈により廃絶する。(『京都府地誌』)。また、荒廃するともいう。
 1914年、再興された。(『坊目誌』)
◆証空 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。房号は善恵、善恵房証空、鑑知国師、西山(せいざん)国師、弥天国師。村上源氏の流れをくむ久我一門の加賀・源親季の子。1185年、内大臣・久我通親の猶子になり、道元の兄弟に当たる。1190年、14歳で出家した。当初、親季は許さず、一条戻橋での橋占いにより、僧が法華経普門品の偈を唱えながら橋を渡ったことから許したという。浄土宗開祖・法然の弟子になり、善恵房證空と名付けられた。浄土宗の教義を学び、円頓菩薩戒も相伝した。以後、法然臨終までの23年間師事した。1198年、法然が九条兼実の請により浄土宗の根本聖典『選択本願念仏集』を撰述した際に、勘文の役を務めた。1199年、師に代わり、関白・九条兼実に同書を講じた。日野の願蓮に天台学、政春に台密を学ぶ。1204年、法然が『七箇条起請文』を記した時、4番目に署名した。1207年、「七箇條起請文」を制定しその第4位に署名した。日野の願蓮に天台学、政春に台密も学ぶ。1207年、承元の法難の際に、法然とともに遠流になる。兼実の弟・青蓮院門跡の慈円に預けられ京都に留まる。1211年、太子御陵に二重の塔を建て仏舎利を納めた。1212年、法然の死去により、仰木の公円より伝法灌頂を受ける。善峯寺中尾・蓮華寿院に入る。1213年、東山小坂から慈円の譲りを受け、善峯寺中尾・蓮華寿院に入る。道覚法親王に譲り、慈円から譲り受けた北尾往生院(三鈷寺)に移った。1215年、「観経玄義分観門義」を開講する。1217年、仁和寺経蔵より善導大師の「般舟讃」を発見した。1221年、往生院で初の不断念仏を行う。1225年、慈円の臨終の善知識になる。1227年、嘉祿の法難に際し流罪を免がれる。西園寺公経の北山邸で念仏勧進をする。1229年、奈良・当麻寺の観経曼陀羅に感得した。寛喜年間(1229-1231)、関東から陸奥へ游化した。1230年、西山・三鈷寺塔を建てる。1231年、浄蓮寺、鵜野木光明寺を開基、復興する。1243年、第88代・後嵯峨天皇に円頓戒を授け、その勅により歓喜心院を創建する。1244年、生瀬浄橋寺の梵鐘鋳造になる。1247年、後の天台座主・道覚法親王のために「鎮勧用心」を述べる。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。著『観門要義鈔』など。白河・遣迎院で亡くなる。70歳。
 門弟により遺骸は西山三鈷寺の華台廟に葬られた。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。建立した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院など11寺になる。浄土宗西山義の派祖。
 晩年の証空は、この地に住み、東山九条にあった九条道家の邸に赴き講義していたという。この地が臨終地になった。
◆九条道家 鎌倉時代前期の公卿・歌人・九条道家(くじょう-みちいえ、1193-1252)。幼名は三寅丸、通称は光明峯寺殿、法名は行慧、東山。良経の子、母は一条能保の娘(源頼朝の姪)。最勝光院の道智上人は子息、第87代・四条天皇の外祖父になる。1205年、従三位、非参議になる。1206年、良経の没後、家督を継ぐ。1212年、内大臣、1215年、右大臣、1218年、妹・立子の産んだ皇子(第85代・仲恭天皇) が皇太子になり東宮傅になる。1219年、第3代将軍・源実朝が暗殺され、幕府の要請により4男・頼経を後任として鎌倉へ送る。1221年、仲恭天皇の摂政、氏長者になる。後鳥羽上皇(第82代)の討幕の挙兵、承久の乱が起こり辞任した。1226年、子・頼経が4代将軍になる。岳父・西園寺公経により道家は復権し権勢をふるう。1228年、関白・摂政になり、九条・西園寺両家の提携によって進められ、家は栄えた。1236年、東福寺を建立した。1238年、法性寺で出家し、引き続き政務に携わる。1244年、公経の没後は関東申次(もうしつぎ)になり朝廷と幕府との間の連絡にあたった。頼経が将軍職を北条氏に追われ、1252年、孫・5代将軍・頼嗣も追われた。道家自身も失脚した。日記『玉蘂(ぎょくずい)』。60歳。
 仏教を篤く信仰した。勅撰集に多くの和歌を収められた。毘沙門谷光明峰寺に葬られた。
◆二河白道 寺名の遣迎院とは、中国の僧・善導が説いた「二河白道(にがびゃくどう) 」のたとえに因む。
 東から西に向かう旅人がいた。だが、目の前に「二河」が現れる。南の「火の川」と、北の「水の川」であり、火は怒りを、水は貪る心を象徴している。その間に西に向かう一筋の細く白い道が通じている。だが、両側より水火が迫り、後ろより煩悩の象徴である盗賊、猛獣・毒蛇が追い迫る。
 西岸より阿弥陀が迎える言葉をかけ、東岸より釈迦が対岸に遣ろうと励ます。旅人は一心に白道を前に進む。ついに対岸に辿り着くことができた。白道とは此岸から彼岸に、極楽浄土に到る清浄な心を表している。たとえ煩悩にまみれた人間であったとしても、念仏に専心するとすれば、誰もが彼岸に到ることができることを説いた。(『観経疏(かんぎょうしょ)』散善義)。
 遣迎とは、阿弥陀と釈迦の来迎と発遣(ほっけん)、西方極楽浄土へ迎え送る姿を意味している。
◆晴明塚 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921-1005)に関わるという晴明塚は、遣迎院の後方、仏殿南の竹林の内にあったという。(『雍州府志』『山州名跡誌』)。また、塚は寺の南裏にあり、1868年の廃仏毀釈により壊されという。1912年頃ともいう。
 また、付近には晴明を師と仰ぐ下級陰陽師・唱門師(しょうもんじ)の作業地があった。彼らは、街道筋の橋畔で運勢を占い、付近に住み、晴明を祀る神社もあった。塚は彼らに因むものだったともいう。
◆井町 門前路は井の町と呼ばれた。かつて弘法大師空海(774-835)は、この地で護摩を修した。独鈷杵により井戸を掘りあて、閼伽(あか)の水としたという。以後、井町と呼ばれたという。(『雍州府志』)
◆墓 証空の墓がある。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『事典 日本の名僧』、『證空辞典』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』 、ウェブサイト「コトバンク」  


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南遣迎院 〒605-0981 京都市東山区本町19丁目400-1  075-941-9564
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