宝樹寺 (京都市右京区)
Hoju-ji Temple
宝樹寺 宝樹寺 
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山門脇の地蔵尊



地蔵尊
 有栖川(ありすがわ)に面して小庵の尼寺、宝樹寺(ほうじゅじ)はある。山号は熊谷山という。
 西山浄土宗。本尊は阿弥陀三尊像を安置する。 
 江戸時代、善光寺四十八願所巡礼の一つに数えられ3番札所だった。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代後期-鎌倉時代の武士・熊谷直実(1141-1208)の開創という。かつて、粟生・光明寺(長岡京市)ととともに大寺として知られた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、兵乱により焼失した。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、浄因が第112代・霊元天皇の大乳人・按擦局(あぜちのつぼね)光現院殿の寄進により再興したという。光明寺より観音像を遷し、以来、常行念仏道場となる。(「堂塔再建勧進帳(嵯峨誌)」)
 江戸時代、1852年、善光寺四十八願所巡礼の一つとして3番札所と記されている。(『善光寺四十八願所巡礼記』)
◆熊谷直実 平安時代後期-鎌倉時代の武士・熊谷直実(くまがい なおざね、1141-1208)。武蔵国に生まれた。幼くして父・直貞を亡くし、兄とともに叔父・久下直光に養育された。平知盛に仕える。1180年、石橋山の戦で、平家方として源頼朝を攻め、その後、頼朝の配下となる。佐竹秀義の成敗の功により、本領・熊谷郷の地頭職に補任された。1184年、義経に従い宇治川、壇ノ浦、一ノ谷と転戦、16歳の平敦盛(清盛の弟・経盛の子)を討った。1187年、鶴岡流鏑馬所役を怠ったとのかどで領地を減じられる。1192年、直光との領地争いでの頼朝裁決を不当として、吉水の法然の門に入り、出家、法力坊蓮生と改名した。たとえ人を殺めても、ただ念仏を唱えれば極楽浄土で往生できるという教えに感化されたともいう。1196年鎌倉に戻り頼朝に伝道兵法を説く。その後、帰洛、晩年は武蔵国で暮らし、没したとも、東山の草庵で没したともいう。
◆仏像 本堂に本尊の「阿弥陀三尊像」を安置している。熊谷直実(蓮生法師)の自刻ともいう。
 脇の「釈迦涅槃像」(像高60cm)は、鎌倉時代作という。「寝釈迦」とも呼ばれる。近くにあった阿刀氏の菩提寺、教興寺より遷されたともいう。
 慶長年間(1596-1615)、浄因が第112代・霊元天皇の大乳人・按擦局光現院殿の寄進により当寺を再興した際に、光明寺安置の恵心作という観音像の夢告があり、当寺に遷したという。観音は「安堵せり」と告げたため、俗称としてこの地は、安堵町と呼ばれたという。なお、現在、境内近くの有栖川に架かる橋は、安堵橋と呼ばれる。以来、三尊を本尊とし、脇壇に蓮生の像を安置、常行念仏道場になったという。
◆善光寺四十八願所 江戸時代、1852年刊の信阿著『善光寺四十八願所巡礼記』は、山城国嵯峨野の清涼寺より、信濃国(長野県)善光寺に至る四十八願所巡礼の御詠歌が記されている。
 京都の寺院としては1番・嵯峨五台山清涼寺、2番・清涼寺の栖露寺、3番・嵯峨野の熊谷山宝樹寺、4番・太秦の広隆寺、5番・五条の來迎堂新善光寺、6番・佛性山真如海院本覚寺、7番・大仏方広殿広福寺などの名が挙がる。
◆安堵橋 当寺の直ぐ西に、有栖川が流れ旧安堵橋(あんどばし)が架かる。現在は甲塚橋(かぶとづかばし)とも呼ばれる。この安堵とは、阿刀(あと)の転訛ともいわれている。
 かつて、嵯峨・清凉寺で火災が起こり、赤栴檀の香木で作られた本尊が焼けた。その香は比叡山まで漂ったという。比叡山衆徒は驚きこの地に駆けつけた。橋の袂まで来て、宝樹寺の本尊が無事であることを知り、安堵したことから安堵橋と名付けられたともいう。(『都名所図会』巻4)



*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 4 洛西』


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安堵橋(甲塚橋)の袂にある道標「左 あたご 右 三条通」などと標されている。
宝樹寺 〒616-8341 京都市右京区嵯峨甲塚町18  075-871-4245
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