岩倉具視幽棲旧宅 (京都市左京区岩倉)
Old Retirement House of IWAKURA Tomomi
岩倉具視幽棲旧宅 岩倉具視幽棲旧宅 
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表門


表門、石標


通用門


通用門





主屋


中門



主屋、式台、玄関



主屋



主屋、茅葺屋根



主屋、次の間



主屋、次の間のガラス障子



主屋、座敷



主屋、沓脱石



主屋前の庭
 東に比叡山を望む洛北・岩倉に、幕末より近代に活躍した政治家・岩倉具視が5年間を過ごした岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみ ゆうせいきゅうたく)(国指定史跡)が公開されている。 
◆歴史年表 江戸時代、1825年、9月、生後間もない岩倉具視は、岩倉花園村の山本九兵衛宅に預けられる。
 近代、1862年、9月、具視は、朝廷内攘夷派の台頭により辞官し、落髪、蟄居し、霊源寺、西芳寺を経て、洛中からの追放令により失脚した。10月、当初は、洛北・岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて幽棲した。具視の次男・具定を里子として預っていた農夫・三四郎の世話による。藤五郎は当初、具視に家を貸すことに難色を示したため、実相院門跡・坊官芝昇澄が藤五郎の説得に入る。
 1863年、具視宅に「四奸」の一人、千種有文の家臣・賀川肇の斬り落とされた腕が届く。具視は刺客に狙われ、岩倉花園村の山本九兵衛宅に一時隠れた。
 1864年、具視は、大工・藤吉の居宅(現在地の附属屋)を購入し移り住む。その後、現在の主屋と繋屋を増築した。
 1865年、尊攘派の志士、松尾相永、藤井九成が訪れる。しだいに反幕府的王政復古論に傾く。
 1867年、坂本竜馬、中岡慎太郎、大久保利通、品川弥二郎らが居宅を訪れ、具視と密議を行った。11月、具視は、洛中帰洛を許される。
 1877年、具視が生前に岩倉村に寄付した300円の記念事業により、金井谷池(権土地)、花園のはぶ池が造られる。
 1902年、附属屋の屋根の一部が茅葺より瓦葺に改築された。
 1928年、武田五一の設計により現在の対岳文庫が建てられる。
 1932年、敷地が国指定史跡となる。
 現代、2007年、対岳文庫は国の登録有形文化財に指定された。
 2008年-2012年、京都市により旧宅などの修理が行われた。
 2013年、1月、旧宅を長年にわたり維持・管理、公開してきた財団「岩倉公旧蹟保存会」の解散に伴い、保存会は旧宅を京都市に寄付した。以後、旧宅は京都市による維持・管理になる。5月、一般公開が始まる。
◆岩倉具視 江戸時代後期-近代の公卿、政治家・岩倉具視(いわくら ともみ、1825-1883)。京都生まれ。前権中納言、参議正三位・堀河康親(やすちか)の次男。1838年、公卿・岩倉具慶(ともやす)の養子となり具視と称した。従五位下に叙せられ、昇殿を許された。1853年、関白・鷹司政通により歌道を学ぶ。1854年、第121代・孝明天皇の侍従、従四位下。1857年、天皇近習。1858年、日米修好通商条約締結に反対し、維新公卿88人で参内して抗議した。(「廷臣八十八卿列参事件」)。意見書「神州万歳堅策」を孝明天皇に内奏した。1860年、公武合体派として、天皇の妹・和宮の将軍家降嫁の上申書を提出した。1861年、正四位下、和宮に随行し江戸へ向かう。1862年、朝廷内攘夷派の台頭により具視は佐幕派と見なされ、「四奸二嬪」とされ弾劾により辞官、落髪、蟄居、霊源寺、西芳寺、岡崎・永陽庵(井窪寺)を経て、洛中よりの追放令で岩倉村に移る。1865年、公卿・中御門経之、薩摩・水戸・土佐藩士と交流した。1866年、近衛忠煕の復職に働き、幕命により桑名藩に監視下に置かれる。1867年、洛中帰洛を許され、王政復古に尽力した。1868年、明治新政府の議定兼輔相、1871年、外務卿、右大臣、特命全権大使として欧米歴訪(岩倉使節団)、1873年、太政大臣代理となり、西郷隆盛の征韓論を排した。1874年、赤坂喰違坂で暴漢に襲われ負傷。1880年、伊藤博文は大隈重信解任と国会開設の勅諭了承を具視に求め、具視は大隈を罷免する(明治十四年の政変)。1883年、京都御所保存の計画を立てたが、病により東京で没した。日本初の国葬が執り行われた。正一位太政大臣を追贈。「維新十傑」に数えられた。
◆岩倉槇 江戸時代後期-近代の女性・岩倉槇子(いわくら まきこ、1827-1903)。大津の膳所藩勘定組・野口為五郎賀代の次女。兄の賀柔が岩倉具視に仕え身辺警護に当たる。槇子は具視の身の回りの世話をした。岩倉が志士に追われた際に膳所の実家に匿う。具視の密書を兄とともに京へ届けた。1874年具視の正室・誠子没後、継室となり二男三女をもうけた。墓は東京・海曇寺にある。
◆岩倉具定 江戸時代後期-近代の政治家・岩倉具定(いわくら ともさだ、1852-1910)。京都生まれ。岩倉具視の第3子(次男)、母は野口槇子。1868年、戊辰戦争勃発後、東山道先鋒軍総督として転戦。1870年、アメリカ留学、帰国後は政府に出仕。1882年、伊藤博文の憲法調査に欧州随行。1884年、岩倉家の家督を継ぎ、公爵。帝室制度取調委員、貴族院議員、学習院院長。1900年、枢密顧問官、1909年、宮内大臣。
◆岩倉具経 江戸時代後期-近代の政治家・岩倉具経(いわくら ともつね、1853-1890)。岩倉具視の3男、母は野口槇子。1868年、戊辰戦争で東山道鎮撫副総督(総督は兄・具定)として江戸へ進撃、江戸開城後、奥羽征討白川口副総督(総督・兄具定)、兄と共にすぐに辞した。1870年、兄と共に米国へ留学、1878年、帰国、太政官、大蔵省、外務省勤務、1884年、男爵、外務書記官として駐ロシア日本公使館、1888年、帰国後北白川宮別当、帝室制度取調委員、宮中顧問官を歴任。
◆松尾多勢子 江戸時代後期-近代の女性・松尾多勢子(まつお たせこ、1811-1894)。信濃国生まれ。豪農・竹村常盈(つねみつ)の長女。1829年、庄屋・松尾左次右衛門元珍に嫁ぐ。10人の子を育てた。平田国学に傾倒し、1862年、52歳で単身上洛し、平田門下の京染取次商「伊勢久」池村久兵衛の世話になる。岩倉具視の密偵となり、具視が王政復古を目指していることを報告した。1863年、木像首梟事件後、京都を脱した。1868年、鳥羽・伏見の戦いで上京し、子、孫を征討軍に従軍させ、自らは岩倉邸で家政をする。1881年、一度、東京へ出る。その後、故郷に戻り、余生を送った。具視は生涯、命の恩人として遇した。
◆武田五一 近代の建築家・学者・武田五一(たけだ ごいち、1872-1938)。父は元備後福山藩士(広島県福山市)で司法官。1897年、東京帝国大学工科大学、大学院に進学。1900年、東大助教授、1901年-1903年、ヨーロッパ留学。1903年、京都高等工芸学校教授、1908年、大蔵省臨時建築部技師を兼任、国会議事堂建築のため欧米視察、1916年、法隆寺壁画保存会委員、1918年、名古屋高等工業学校校長、1920年-1932年、京都帝国大学建築学科教授。
 「関西建築界の父」といわれた。平等院などの古建築修復にも関わる。
◆建築 敷地(1553㎡)は、ほぼ方形になっている。敷地の南に南土塀が築かれ、西よりに表門が開く。東に通用門が設けられ、見学者はここより入る。表門より母屋に向かう小石を敷き詰めた小道が付けられている。右手に中門があり、主屋、南庭に通じる。
 居宅は南の茅葺の主屋(60㎡)と、その北の桟瓦葺の附属屋(67㎡)、二棟の間を繋ぐ繋屋(9㎡)があり、いずれも簡素な造りになる。
 「主屋(鄰雲軒、りんうんけん)」は、当初からのものではなく、1864年の増築により建てられた。東西棟で西側に式台を設けている。玄関、その奥に次の間(6畳)、床の間、床脇、天袋、地袋のある座敷(6畳)が東へと続いている。座敷には具視の孫・東伏見宮妃周子(かねこ、1876‐1955)書の「鄰雲軒」の額が掲げられている。南に手延ガラスを使用したガラス障子が立てられており、当時としては珍しいものという。北と南側に縁側を設け、中庭、南の庭に面している。
 「繋屋」も後の増築による。浴室、便所が設けられ、東に縁がある。 
 北の「附属屋」は、当初よりあり、西の勝手口より入ると炊事場、台所がある。東、南に3室の居室(4畳半)がある。東と南に縁を廻し、南は中庭に面している。
 敷地の東北にある洋館「対岳文庫(たいがくぶんこ)」(国登録有形文化財)は、建築家・武田五一の設計による。名は、岩倉具視の雅号「対岳」により、比叡山と対峙する岩倉村を表している。主屋に切妻妻入の玄関を南側に突出し、外壁上部はスクラッチタイル貼(タイル表面を櫛引きとし平行の溝とした粘土タイル)になる。扉上部はアーチ型になっており、鉄格子にガラス板が嵌められている。内部は、陳列室と収蔵室があり床板敷、板張の壁になる。鉄筋コンクリート、平屋建て、瓦葺。
◆庭園 主屋の南に、岩倉具視手植えという松の大木が植えられている。石段を通用門へ降りると池が造られ、楓なども植えられている。
 主屋と附属屋の間にある中庭に、簡単な石組みがある。
◆文化財 敷地内の「対岳文庫(たいがくぶんこ)」には、岩倉具視遺品類、明治維新関係文書などの一部を展示・収蔵している。
 現在、「岩倉具視関係資料」(重文)1011点、「岩倉具視関係資料」(京都市指定有形文化財)109点は、京都市歴史資料館(上京区)に収蔵されている。
 「岩倉具視関係資料」(江戸時代-明治期)は、岩倉具視の書状、記録、詠草、遺品、伝記編纂関係資料などによる。著作「叢裡鳴虫(そうりめいちゅう)」は、1865年頃の幽居中に書かれた。1871年-1873年の欧米歴訪の際の書簡集「万里風信(ばんりふうしん)」は、遣外使節の実情を記した。1869年-1875年に子・具綱宛の書簡「長閑玉章(ちょうかんぎょくしょう)」。「岩倉公関係文書」30巻には、著作「神州萬歳堅策(しんしゅうばんざいけんさく)」、日記、自筆書状、意見書、建議案、書簡、建白書がある。遺品には、幽居中に使用していた日用什器類、1874年に旧土佐藩士族に襲撃された「赤坂喰違事件」で身に付けていた紋羽織、袴、紋服、角帯、脇差、そのほか、遣外使節団として訪欧した際に入手した懐中時計などがある。
 「伝記編纂関係資料」は、1906年に刊行された『岩倉公実記』に関連した資料であり、1883年の岩倉没後、勅命により編纂着手された。
◆墓 主屋の東に岩倉具視遺髪碑、その右脇に継子の槇子(1827-1903)夫人の碑が立つ。
 遺髪碑の北に次男・岩倉具定(ともさだ、1852-1910)、3男・岩倉具経(ともつね、1853-1890)の碑が立つ。
◆年間行事 岩倉具視遺髪碑慰霊祭(7月20日)。


*対岳文庫内の撮影禁止
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献
 京都市パンフレット、『京都府の歴史散歩 中』『洛北岩倉誌』『京都隠れた史跡の100選』『おんなの史跡を歩く』『女たちの京都』『京都歩きの愉しみ』


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主屋前の庭

主屋前の庭、鉄燈籠

主屋の庭、鉄燈籠

繋屋

繋屋

附属屋、右は繋屋

附属屋、勝手口

附属屋、勝手口のポンプ

附属屋、炊事場

附属屋、炊事場の竈

附属屋、居室

附属屋、遣り掛

附属屋、台所

附属屋、居室

主屋、繋屋、附属屋の間の中庭

中庭

対岳文庫

対岳文庫、具視の孫・東伏見宮妃周子筆

対岳文庫

歌碑、(丸山)海道「手植松 こゝに 岩倉踊 かな」、「万の蝉 維新文筥に こゑをたむ」(丸山)佳子

岩倉具視遺髪碑

岩倉具視遺髪碑

岩倉具視遺髪碑

岩倉槇子(1827-1903)の碑

岩倉具定(ともさだ、1852-1910)の碑

3男・岩倉具経(ともつね、1853-1890)の碑


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岩倉具視幽棲旧宅 〒606-0017 京都市左京区岩倉上蔵町100  075-781-7984  9:00-17:00 月曜休館(祝日は開館、翌日休館)、休館 12月29日-1月3日。
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