はぶ池 (岩倉具視公御加恩之池) (京都市左京区)  
Habu pond
はぶ池 (岩倉具視公御加恩之池) はぶ池 (岩倉具視公御加恩之池)
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はぶ池


「岩倉具視公御加恩之池」の石標


堤防

 洛北岩倉の「はぶ池」は、「岩倉具視公御加恩之池(いわくら-ともみ-こう-おんかおん-の-いけ)」とも呼ばれている。
 近代に、公卿・政治家・岩倉具視が開いた農業用ため池という。
◆歴史年表 近代、1876年、岩倉具視が貯水池を開削した。
 現代、2017年、10月、台風21号によりため池の一部が決壊した。
 2018年、3月、復旧工事が終わる。
◆岩倉具視 江戸時代後期-近代の公卿・政治家・岩倉具視(いわくら-ともみ、1825-1883)。幼名は周丸(かねまる)、号は華竜、対岳、法名は友山。京都の生まれ。前権中納言、参議正三位・堀河康親(やすちか)の次男。1838年、公卿・岩倉具慶(ともやす)の養子になり具視と称した。従五位下に叙せられ、昇殿を許された。1853年、関白・鷹司政通により歌道を学ぶ。1854年、第121代・孝明天皇の侍従、従四位下になる。1857年、天皇近習になる。1858年、日米修好通商条約締結に反対し、維新公卿88人で参内して抗議した。(「廷臣八十八卿列参事件」)。意見書「神州万歳堅策」を孝明天皇に内奏する。1860年、公武合体派として、天皇の妹・和宮の将軍家降嫁の上申書を提出する。1861年、正四位下、和宮に随行し江戸へ向かう。1862年、朝廷内攘夷派の台頭により具視は佐幕派と見做される。「四奸二嬪」とされ弾劾により辞官し、落髪、蟄居した。霊源寺、西芳寺、岡崎・永陽庵(井窪寺)を経て、洛中よりの追放令で岩倉村に移る。1865年、公卿・中御門経之、薩摩・水戸・土佐藩士と交流した。1866年、近衛忠煕の復職に働き、幕命により桑名藩に監視下に置かれる。1867年、洛中帰洛を許され、王政復古に尽力した。1868年、明治新政府の議定兼輔相に就く。1871年、外務卿、右大臣、特命全権大使として欧米歴訪(岩倉使節団)した。1873年、太政大臣代理になり、西郷隆盛の征韓論を排した。1874年、赤坂喰違坂で暴漢に襲われ負傷する。1880年、伊藤博文は大隈重信解任と国会開設の勅諭了承を具視に求め、具視は大隈を罷免する。(明治十四年の政変)。1883年、京都御所保存の計画を立てたが、病により東京で没した。59歳。
 正一位太政大臣を追贈。「維新十傑」に数えられた。日本初の国葬が執り行われた。
◆はぶ池 「はぶ池」は「岩倉具視公御加恩之池」とも呼ばれている。近代、1876年に岩倉具視が開いた田畑用の貯水池になる。
 三方を山に囲まれ、北側に堤が築造されている。道沿いの北側から東側、南側に広がり、それぞれ堤があり4つのため池で構成されている。
 

年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 碑文、ウェブサイト「大西ケンジオフィシャルブログ」、ウェブサイト「コトバンク」


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map はぶ池(岩倉具視公御加恩之池) 〒606-0024 京都市左京区岩倉花園町 岩倉
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