十念寺 (京都市上京区) 
Junen-ji Temple
 十念寺 十念寺 
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本堂






鳳凰




地蔵堂、江戸時代、1715年建立。1993年に新造された。十念寺地蔵は像高2m、木像彩色。江戸時代には上下寺町三十六地蔵めぐり第5番札所。
 寺町通にある十念寺(じゅうねんじ)には、室町時代の医師・曲直瀬道三の墓所がある。また、現代の建築家、高口恭行設計の本堂が異彩を放っている。
 山号は華宮山、院号は宝樹院と号する。
 西山浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 室町時代、1431年、真阿(しんあ)のために、帰依した6代将軍・足利義教が誓願寺(元誓願寺小川、油小路一条上ル)に住房宝樹院(ほうじゅいん)を建てたことに始まる。
 文明年間(1469-1487)以前、十念寺の寺号に改まる。その経緯については不明。
 1536年、焼失している。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の都市改造に伴い、現在地に移転になる。
 江戸時代、1673年、あるいは1675年の大火、1788年の天明の大火後に再建されたという。
 1788年、天明の大火後、本堂が再建された。
 現代、1993年、僧で建築家・高口恭行の設計により本堂が竣工した。
◆寺号 寺号の十念寺とは、真阿が帰依した6代将軍・足利義教に、十念を授けたことによるという。浄土宗での十念は、導師が信者に「南無阿弥陀仏」の名号を唱え授け、仏縁を得させることをいう。 
◆真阿 室町時代の僧・真阿( しんあ、1385-1440)。第99代、南朝第4代・後亀山天皇皇子。1410年、誓願寺で出家し義恩と称した。通称は帥宮。阿弥陀仏の夢告により真阿弥陀仏の名を授けられたとして真阿と号したという。同寺住職となる。義教に請願寺を授けて十念寺を開山した。1437年頃、一念寺を再興する。
 一念寺(伏見区)門前の下鳥羽の鴨川畔は、真阿ヶ淵(しんあがぶち)と呼ばれている。1440年、没した真阿の魚の餌食にして欲しいとの遺命により、遺骸は鴨川で水葬に処されたという。以後、付近は真阿ヶ淵と呼ばれ、殺生禁断の地とされたという。
◆足利義教 南北朝時代から室町時代の6代将軍・足利義教((あしかが よしのり、1394-1441)。3代将軍・義満の子。1403年、青蓮院に入り、1408年、得度して義円と称した。大僧正、准后の宣下を受ける。1419年、天台座主。1428年、4代将軍・義持の急死により、くじにより義円が後嗣となる。1428年、還俗して義宣と名乗り、1429年に6代将軍義教となる。1438年、永享の乱で足利持氏を討ち、守護を粛清、専制となる。最期は大名・赤松満祐により斬殺された。(嘉吉の乱)。墓所は十念寺に胴塚とされるものがあり、首塚は崇禅寺(大阪市)、安国寺(兵庫県加東市)に存在する。
◆曲直瀬道三 室町時代の医師・曲直瀬道三(まなせ どうさん、1507-1594)。京都生まれ。近江佐々木氏庶流の堀部親真の子。幼少の頃、両親を失う。1516年、相国寺の喝食となる。1528年、関東の足利学校に学ぶ。1531年、明留学した医師・田代三喜斎に入門し李朱医学(漢方医学)を修める。1546年、京都で還俗し医業を開く。将軍・足利義藤(義輝)、細川晴元などを診て医学塾・啓迪院(けいてきいん)を創建した。日本初の系統的な医学教育になる。1566年、毛利元就の病を診療し、『雲陣夜話』を記す。1574年、正親町天皇診療を行う。織田信長の診察も行う。1584年(1587年とも)、豊後でイエズス会宣教師・オルガンティノ(別の宣教師とも)を診察し、1585年、洗礼を受けたとされる。洗礼名ベルショール。門弟300人も入信したともいう。1592年、後陽成天皇より橘姓と今大路の家号を賜る。日本医学中興の祖「医聖」と称された。『啓迪集』8巻を著す。十念寺境内に墓、顕彰碑がある。
◆施薬院全宗 室町時代-安土・桃山時代の医者・施薬院全宗(せやくいん ぜんそう、1526-1600)。宗忠の子、近江国に生まれた。名医丹波康頼の20世の末裔。幼くして父を失い比叡山薬樹院の住持となる。1571年、織田信長の叡山焼き討ち後、還俗し曲直瀬道三に入門し漢方医学を学ぶ。豊臣秀吉の侍医、天正年間(1573-1592)勅命により施薬院使に任命、京都御所一画に施薬院を建てた。従五位下に叙され昇殿を許される。姓を施薬院とした。秀吉の側衆として政治にも参画した。権大僧都法印。十念寺に墓がある。
◆曲直瀬道策 江戸時代後期の医師・尊攘派の曲直瀬道策(まなせ どうさく、1838-1867)。山城国の向日神社の社家六人部是香の次男。禁裏医官曲直瀬正元の娘を娶り養子となる。是香に平田派皇学を学ぶ。加賀藩勤王派の有志に同藩の世子前田慶寧の上洛をうながす。小松帯刀、三上兵部らと船舶運輸業により利益をあげ志士救済する。募金運動中、大坂難波新地で幕府刺客により暗殺された。十念寺に墓がある。
◆高口恭行  現代の建築家で僧・高(髙)口恭行(1940- )。神戸市に生まれる。5歳まで上海で過ごす。1945年、終戦と共に上海より引き揚げ、京都大学工学部建築学科卒、京都大学助手、1975年、奈良女子大学家政学部住居学科助教授、1987年、同学部教授。1980年より、設計事務所、造家建築研究所を主宰。2003年、関西建築家大賞を受賞。浄土宗寺院一心寺の長老。一心寺の伽藍をはじめ建築を手掛ける。一心寺シアター「倶楽」(2002)を開設し小演劇拠点となる。
◆仏像 本堂に、平安時代の作で旧雲居寺(うんごじ)にあった仏像の頭部をもつ丈六の「阿弥陀如来坐像」が安置されている。空海(774-835)作とも、恵心(942-1017)作ともいう。(『雍州府志』、1684年) 
 開基の真阿像などが安置されている。 
◆建築 本堂は、1993年に高口恭行・造家建築研究所の設計により建てられた。西面している。ビザンティン様式を取入れた。東ローマ帝国下で興きた建築は、4世紀にキリスト教の儀礼空間となり、その後の修整を経て現在でも正教会の聖堂、イスラム教のモスクにも見られる。集中式ドームの仏教寺院になっており、堂内は三方のハイサイドライトから採光し本尊の阿弥陀像を浮かび上らせる。
 鉄筋コンクリート構造、鉄骨構造、1階建て。敷地面積6048㎡、建築面積361㎡、延床面積273㎡、コンクリート打放し、屋根は日本瓦葺、八注屋根(八角堂)、屋根に鳳凰が乗る。
◆文化財 室町時代の説話絵「紙本著色仏鬼軍絵(ぶっきぐん)巻1巻」(重文、京都国立博物館寄託) は、十念寺本といわれ、4図3段の紙本淡彩の絵巻になっている。16世紀頃の作。真阿と一休は学友であったといい、伝一休作というが詳細は不明。第一図「地獄の図」、第二図「阿弥陀勢出陣の図」、第三図「薬師勢の出陣の図」、第四図「釈迦勢の出陣の図・蓮華を生じる地獄の釜、不動明王らの加勢、逃げまどう獄卒と浄土と化す地獄」がある。絵巻は仏菩薩と地獄の冥官の合戦を描き、大日の加勢により閻魔王庁は炎上する。
 十念寺像一休像、「十年寺縁起」は「洛陽誓願寺」縁起と重なる。「十年寺歓進帳十念寺縁起」、「足利将軍諸士念仏講名帳」。
 書院障壁画「雲龍図」4面(京都市有形文化財)は、江戸時代、1778年に曽我蕭白(そが しょうはく、1730-1781)筆による。晩年の水墨画であり、市内に残る数少ない作品例になる。
◆墓 足利義教墓はその胴塚ともいう。真阿上人墓。
 安土・桃山時代の医学者・曲直瀬道三墓。室町時代-安土・桃山時代の医者で道三の高弟・施薬院全宗(せやくいん ぜんそう、1526-1600)。その養子・三雲宗伯。
 江戸時代の第107代・後陽成天皇第8皇女の高雲院宮(1610-1612)。江戸時代の絵師・海北友雪(1598-1677)。鋳造師・金座後藤家、銀座後藤家、江戸時代の公家・徳大寺公城(とくだいじ きんむら、1729-1782)の墓がある。
◆碑 曲直瀬道三の顕彰碑が立つ。
 江戸時代の神道家・尊王論者の竹内式部(たけのうち たかもち、1712-1768)贈位の碑がある。 越後国の医者・竹内宗詮の子。1728年に上京し徳大寺家に仕える。崎門学派で垂加神道、軍学も学ぶ。家塾を開き公家らに教えた。1758年の尊王論者への初の弾圧事件・宝暦事件により京都追放となり伊勢に移る。1766年の明和事件により無関係ながら捕えられ、八丈島流刑となり三宅島で病死した。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都 歴史案内』『増補版 京都の医史跡探訪』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』、サイト「室町時代物語『仏鬼軍』について 新出本の紹介を兼ねて」(本井牧子、「京都大学国文学論叢」より)サイト「日経アーキテクチュア」『京都発見二 路地游遊行』『京都の寺社505を歩く 上』『新選組と幕末の京都』


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庫裏

玄関


鐘楼

鎮守社、おそらく稲荷社

「初代曲直瀬道三顕彰碑」、1990年建立、日本東洋医学会、日本医史学会、東亜医学協会による。鞍馬石、2.3m×1.5m

曲直瀬道三墓

足利義教墓


高雲院御墓

施薬院全宗の墓、木堂に覆われた複数の墓石の一つ。

施薬院全宗の墓
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