大酒神社・木枯神社 (京都市右京区) 
Osake-jinja Shrine
大酒神社・木枯神社 大酒神社・木枯神社 
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「蠶(蚕)養機織管絃楽舞之祖神」「太秦明神、呉織神(くれはとりのかみ)、漢織神(かんはとりのかみ)」と刻まれた石標。江戸時代、1842年建立。


本殿


本殿


本殿




手水舎
 渡来系氏族・秦氏に関わる広隆寺の東に、同じく秦氏と関わりある大酒神社(おおさけ じんじゃ)がある。かつて「大辟(おおさけ)神社」、「大裂(おおさけ)神社」とも記され、「大いに荒ぶる神」とされていた。
 かつて広隆寺の桂宮院(けいくういん)内にあり、伽藍神として祀られていた。ただ、社の創建は寺よりも古いという。この地に秦氏の移住後、氏族の崇敬する社になったとみられている。旧村社。現在は広隆寺の境外社。
 祭神は本殿に、秦氏に関わるという秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆずきのおう)、秦酒公(はたのさけのきみ)を祀る。別殿に呉織神(くれはとりのかみ、呉織女[くれはとりめ] 、兄媛命[えひめのみこと] )、漢織神(あやはどりのかみ、漢織女[あやはとりめ] 、弟媛命[おとひめのみこと] )を祀る。
 本殿に木枯(こがらし)神社が合祀されている。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 古墳時代、356年、195年、第14代・仲哀天皇(在位:192-200)の頃とも、伝承として秦始皇帝子孫という功満王(こうまんおう、秦氏の祖)が、戦乱を避け日本に渡来した。始皇帝の神霊を勧請したことに始まるという。祀られた大辟(避)(おおさけ)神より、災難除け、悪疫退散の信仰が生れたという。(『広隆寺由来記』)
 372年、功満王の子・弓月王は、百済より127県の民18670人とともに渡来し、金銀玉帛などの宝物を朝廷に献上したという。(『新撰姓氏録』『日本書紀』) 
 弓月王の孫・秦酒公は、秦氏諸族を統率し、養蚕を広め、絹綾錦などを織り、朝廷に献上した。呉服漢織の神霊を祀った社は、大酒神社の境内に祀られていたという。(『日本書紀』)
 飛鳥時代、603年、広隆寺の建立以来、当社は境内の桂宮院(けいくういん)に、鎮守の社として永く祀られていた。また、平安時代初期以前、広隆寺境内(桂宮院)に祀られたともいう。「大辟の神」と呼ばれた。
 平安時代、849年、大辟神が従五位下を授与したと記されている。(『続日本書紀』)
 972年、「延喜式」神名帳の葛野郡20座中に「大酒神社」の名があり、かつての名を「大辟神」としたと記されている。
 1068年、正一位を授けられたという。(『広隆寺縁起』)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、「大酒明神」とも呼ばれた。桂宮院にあった石を神体として祀ったともいう。桂宮院の守護神になったともいう。
 江戸時代、明暦年間(1655-1685)、呉服漢織の神霊を祀った社は破壊される。その後、合祀されたという。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈以後、広隆寺境内より大酒神社は現在地に遷された。
 現代、1970年、道路開通により境内は二分され、北西半分が現在の境内になる。
 近年、境内に木枯(こがらし)神社が祀られていたという。台風により社殿倒壊し、その後、大酒神社の本殿に合祀された。
◆始皇帝 中国・秦の初代皇帝・始皇帝(しこうてい、BC259-BC210)。BC221年、中国を初めて統一した。皇帝を称し、絶対王制を敷く。BC246年、秦王として即位した。郡県制、度量衡・貨幣統一、焚書坑儒を行い、万里の長城修築、阿房宮、帝陵・兵馬俑坑などの大規模土木を行う。死後、帝国は崩壊した。
◆功満王 弥生時代の伝承上の渡来人・功満王(こうまん おう、 ?-?)。秦の始皇帝の子孫(皇帝14世の孫)とされ、子は弓月君(ゆづきのきみ)。199年、渡来したという。(『新撰姓氏録』)。また、284年、渡来ともいう。(『日本三代実録』『日本書紀』)。太秦(うずまさ)氏、秦(はた)氏の祖とされる。
◆弓月君 古墳時代の伝説上の渡来人・弓月君(ゆづき の おう、 ?-?)。父は功満王。融通王ともいう。372年、百済より127県の民衆18670余人とともに渡来し、金銀玉帛などの宝物を朝廷に献上したという。
◆秦酒公 古墳時代の伝説上の渡来人・秦酒公(はた の さけのきみ、 ?-?)。弓月君の孫、普洞王の子という。468年、第21代・雄略天皇(418-479)が、木工・闘鶏御田(つげのみた)を処刑しようとした際に、琴を弾き歌を歌い、その無実を諭し命を救ったという。471年、天皇の詔を受け、分散していた秦氏部民を統括し、首長に就く。その数、秦部、秦人、秦人部92部、18670人を数えたという。472年、部民は日本各地に分置され、税である庸・調の絹、絹織物を宮中に献上した。それらはうず高く積み上げられたため、天皇が「埋益(うずまさ)」と表した。その後、禹豆麻佐(うつまさ)の姓を与えられ、太秦(うずまさ)の地名の語源になったという。(『日本書紀』)
◆大酒神社 大酒(おおさけ)神社は、「大辟」、「大避」、「大裂」、「大荒」とも記された。中世(鎌倉時代-室町時代)には「大酒明神」とも呼ばれていた。
 大酒神社は、治水・灌漑事業などを行った秦氏の秦酒公(はたの さけのきみ)の功績を讃えて祀った。後に「大酒」に改められたという。
 また、「辟」とは、「境・境界」を意味しており、その転訛ともいう。また「裂」、「割」、「放」、「離」ともされ、「断ち切れる」、「引き離す」として、「溝」を象徴するともいう。
 なお、播磨国にはいまも大避神社があるという。秦河勝は、播磨国に流れ着いたという伝承があり、「大荒(おおさけ)神」として祀られたという。(金春禅竹『明宿集』、世阿弥『花伝書』)
◆秦氏 秦氏は、古墳時代、5世紀後半に日本に渡来したとみられている。秦始皇帝の子孫と伝えられた。(『新撰姓氏録』)。近年では、朝鮮半島の新羅・伽耶からの渡来ともいう。秦は、朝鮮語の海を意味する「パタ」の転訛ともいう。飛鳥時代、6世紀後半、深草から葛野(かどの)に移住したとみられている。山城国には、この付近の北部秦氏とともに、南部高麗(狛)氏が勢力を誇った。さらに、京都のほか、関東、九州北部までに広がった。
 603年、広隆寺を創建した北部秦氏の秦河勝は、秦酒公の6代目の孫とされる。その子孫・秦忌寸都理により、701年に松尾大社が創建された。さらに秦伊呂具により、713年に伏見稲荷大社が創建され、嵯峨野、深草一帯で勢力を伸張させた。
 794年の平安京遷都の際には、秦氏による朝廷への財政面、技術面での援助、協力もあったとみられている。だが、やがて歴史の表舞台から消えてゆく。
◆呉織神・漢織神 呉織神・漢織神は、渡来した4人の織女のうちの2人とされている。(『日本書紀』)。「秦(はた)」とは、「機(はた)」を意味するとも、機織りした献上の絹が、「膚に温かい」ことから「秦(はだ)」と称されたともいう。
◆建築  ◈「本殿」は、一間社流造になる。
◆木枯神社 木枯(こがらし)神社は、かつて、広隆寺境内に祀られていた。近年、大酒神社境内に遷され、境内北西隅に祀られた。祭神は木枯明神になる。その後、台風により社殿が損壊し、現在は大酒神社の本殿に合祀されている。
 平安時代、第56代・清和天皇(在位:858-876)の頃、広隆寺の旧本尊・薬師如来像は、向日明神の作により造立されたという。勅により、仏像が乙訓郡より広隆寺に迎えられた際に、明神は広隆寺門前、西南の大槻に影向(ようごう)した。忽ちその木が枯死したため、神霊を遷して祀った。その後、木は再び繁茂する。以後、「古木の明神」、「木枯明神」と称されたという。(『広隆寺縁起』)
 なお、木枯神は、平安時代の第54代・仁明天皇の女御・藤原順子(809 -871、五条后)の東五条院内にも祀られていた。平安時代、862年にこの木枯神は、無位より従五位下に叙せられている。(『三代実録』)
 木枯神社は歌枕にもなった。
◆牛祭 かつて広隆寺では牛祭(10月10日)が行われていた。京都三大奇祭(ほかに鞍馬の火祭り、今宮神社のやすらい祭り)の一つとされている。
 かつては、当社の祭礼であり、旧暦9月12日丑の刻に行われた。平安時代、1012年、長和年間(1012-1017)とも、恵心僧都(810-869、源信)が、国家安泰、五穀豊穣、悪魔退散を願い、摩多羅(まだら)神を勧請して始めたという。それ以前に、円仁(えんにん、794-864)は唐より勧請し持ち帰ったとされ、天台宗の常行堂の護法神になる。
 摩多羅神は、牛に乗り、赤鬼、青鬼の四天王に守護されながら、松明の火の下練り歩く。薬師堂前で祭文を読み上げ、堂内に逃げ込み、四天王もその跡を追う。


*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都の寺社505を歩く 下』『洛西探訪』『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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