牛若丸誕生井・源義経産湯井ノ遺跡・胞衣塚 (京都市北区)
Ushiwakamaru-tanjoi(well for first bath)
牛若丸誕生井  牛若丸誕生井
  Home   Home

牛若丸誕生井


牛若丸誕生井、「牛若丸産湯井」とある。


牛若丸誕生井、井水は涸れていない。


牛若丸胞衣塚、室町時代「応永二年(1395)調之(これをちょうず)」の銘


胞衣塚は松の木の根元にある。


近くにある「源義経産湯井ノ遺跡」碑 
 北区紫竹牛若町とその周辺には、平安時代末-鎌倉時代の牛若丸(源義経、1159-1189)に関わる遺跡が点在している。
◆歴史年表 平安時代、この付近には武将・源義朝(1123-1160)の別邸があったという。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、大徳寺の末寺・大源庵が創建された。 
 やがて荒廃し、竹林になったという。
 近代、1878年、大源庵が廃寺になる。
 1925年、紫竹地区の土地改良事業で、井泉の原形が取り壊される。
 1926年、大源寺跡に「源義経産湯井ノ遺跡」碑が建立された。
◆源義経 鎌倉時代初期の武士・源義経(1159-1189)。義朝の子。幼名牛若丸、 遮那王とも名乗った。1159年、父が平治の乱で敗死、平氏より逃れる。母・常盤御前は捕えられ、三人の子が寺に入ることを条件に命を許される。義経は、公卿の藤原長成の援助により鞍馬寺・東光坊阿闍梨蓮忍に預けられる。後、禅林坊の覚日のもとへ移る。金商人・吉次にとともに奥州に移る。1180年、兄・ 頼朝の挙兵し呼応、1183年、頼朝の代官として畿内近国に派遣される。1185年、壇の浦で平氏を滅ぼした。だが、三種の神器の宝剣を回収できず兄・頼朝との対立、畿内近国の支配権を奪われる。後白河法皇による頼朝追討宣旨を得て挙兵するが失敗し、愛妾・静御前と共に吉野に、さらに奥州藤原秀衡を頼り逃れた。だが、その没後、藤原泰衡により衣川の館で討たれ自刃した。
◆常盤御前 平安時代末期の女性・常盤御前(ときわ ごぜん、1137-?)。詳細は不明。美しい人であったという。近衛天皇皇后・九条院藤原呈子(ていし)の雑仕女となる。16歳で源義朝の側室となり、今若(全成)、乙若(円成、義円)、牛若(義経)らを生む。1159年、平治の乱で義朝が敗れ謀殺された。1160年、常盤御前は3人の子とともに平清盛の追手から逃れ大和に匿われた。京都に残した母を平氏に人質としてとられ、六波羅へ子連れで自首した。清盛に見初められ、子らの命を救うために妾となる。子と別れ、一女・廓御方(左大臣藤原兼雅女房)を生む。後に、清盛の世話により大蔵卿・藤原長成に嫁ぎ、能成ら数人を産んだという。晩年は一人で生まれた常盤に暮らしたという。
◆誕生井 牛若町の「牛若丸誕生井」碑と「胞衣(えな)塚」は、現在は畑地にある。
 この地は、義朝の愛妾だった常磐御前(1138-?)が、牛若丸を出産した場所ともいう。『都名所図会』(1780)には、「常盤の古跡、義経誕生水」と紹介されている。
 また、義朝が身ごもった常磐御前の保護のために、上野新兵衛に土地を与えた。常磐御前は新兵衛の屋敷で牛若丸を産んだともいう。
 現在も、牛若丸の産湯に使ったといわれる井戸、石碑(かずら石、1.5m)が屋敷跡にある。井水はいまも涸れていない。江戸時代末までは、牛若丸産湯弁財天女社が祀られていたという。琵琶湖の竹生島、弁財天が勧請されたという。明治期(1868-1912)以降に農地になった。
 誕生井のある同じ畑の松の木の根元には、牛若丸の臍(へそ)の緒を祀ったとされる「胞衣塚(えなづか)」も残されている。小さな碑に 「牛若丸胞衣塚」と刻まれている。
◆産湯 誕生井碑の南東近くの住宅地に、「源義経産湯井ノ遺跡」碑がある。ここにも、牛若丸の産湯に使ったという井戸跡があり、いまは石碑のみが残されている。
 源義朝の別荘があり、常盤御前が住した。義経誕生に際して井戸は産湯に使われた。その後、竹林になった。1925年、紫竹地区の土地改良事業で、井泉の原型が取り壊された。そのため、1926年、紫竹土地区画整理組合により碑が立てられた。
◆常磐地蔵 周辺には常盤御前に関わりのある言い伝えも残されている。
 常徳寺(北区紫竹栗栖町、非公開)には、常磐御前が牛若丸の安産祈願した、常磐地蔵とも呼ばれる地蔵尊がある。寺はかつて平安時代後期の関白・藤原忠実の邸宅で、邸内の地蔵菩薩に常盤御前が安産祈願をしたことから以後常磐地蔵と呼ばれるようになったという。
 光念寺(北区紫野上野町、非公開)には、常磐御前の守り本尊と伝えられる腹帯地蔵もある。
◆遺跡 周辺からは平安時代、鎌倉時代の布目瓦(ぬのめがわら)が出土している。布目瓦は、瓦の裏側に布目が付けられていた。これは、木型から粘土を剥し易くするための工夫で、木型との間に布を挟んだために生じた。平安時代-鎌倉時代に見られ、室町時代に入ると次第に見られなくなったという。
 安土・桃山時代、明の瓦師・一観は布の代わりに雲母粉(きらこ)を用いた。これは、花崗岩の薄片状の結晶(うんも、きらら)のうち、白雲母を粉末にしたものをいう。一観は、福建省から肥前平戸に渡った。安土・桃山時代、1576年、織田信長による安土城築城の際には、明風の城郭瓦を焼いて用いたという。
◆大源庵 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、大徳寺148世・玉室宗珀を開基として蜂須賀家が塔頭・大源庵を創建した。その場所は、源義経の旧跡地だったという。1878年、廃寺になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『新版 京のお地蔵さん』『京都隠れた史跡の100選』『京を彩った女たち』『京都歩きの愉しみ』

 
   
光念寺       常徳寺        総神社       大徳寺        鞍馬寺              
 「牛若丸誕生井」碑 京都市北区紫竹牛若町
     「源義経産湯井ノ遺跡」碑 京都市北区紫竹牛若町 

より大きな地図で 牛若丸遺跡 を表示
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光