馬町空襲の地の碑 (京都市東山区)  
Umamachi Air Raid Monument
馬町空襲の地の碑 馬町空襲の地の碑
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「馬町空襲の地」の碑


副碑、銘板


銘板「馬町空襲犠牲者名」
 東大路通渋谷下ルの馬町(うま-まち)に、京都市立東山総合支援学校がある。同校の正門左脇に、「馬町空襲の地(うままち-くうしゅう-の-ち」碑が立てられている。
 太平洋戦争末期に、馬町付近にアメリカ軍爆撃機による爆弾が投下され、死傷者が出ている。
◆歴史年表 近代、1945年、1月16日、午前11頃、B29機1機が馬町上空に飛来し爆弾投下した。
 現代、2013年、「馬町空襲を語り継ぐ会」が発足する。
 2014年、1月16日、修道自治連合会・馬町空襲を語り継ぐ会により碑が立てられ、除幕式が行われた。
 2018年、1月16日、碑前で最後の慰霊式が執り行われる。
◆馬町空襲 近代、 1945年1月16日午後11時頃に、京都では震度3の地震があり、強い揺れだったという。震源地は愛知県の渥美湾であり、前年の12月7日以来余震が続いていた。その後、午後11時19分/20分頃に、京都市東山区馬町上空にアメリカ軍の大型戦略爆撃機B-29機1機が飛来した。
 アメリカ軍による当初の爆撃目標地は、造兵廠のある熱田製造所(名古屋市)だったという。同機はサイパン島を発ち、天候が曇りで視界不良のため、急遽、目的地の名古屋を回避して京都市上空に飛行した。高度約2万9000ft(フィート、9000m)上空から、「高性能爆弾」250lb(ポンド、113㎏)20発を馬町一帯に投下した。その後、同機は上空から京都市中心部で爆発が起こるのを確認している。(米陸軍第21爆撃機団報告書「作戦概要12号」)。なお、馬町の住民間では、「モロトフのパン屑」といわれていた小型爆弾が投下されたとみられていた。
 推定されている爆弾投下地点は、現在地(旧・修道国民学校)の南西150mの東山通以西(東山区妙法院前側町付近)と、現在地とその東側(渋谷通南一帯)の民家に集中していた。爆撃機は渋谷通の南に沿う形で、西から東へ絨毯爆撃(被弾地の長さ300m・幅100m)を行っている。被弾・爆風による被害とともに、建物倒壊による生き埋め、火災も起きている。
 被害状況について「馬町空襲を語り継ぐ会」によると、即死者40余/41人、負傷者50余人、全半壊家屋140戸になる。京都府の記録によると死者34人、負傷者56人、全焼・全壊31戸・半壊112戸になるという。 被災者総数792人ともいわれている。
 語り継ぐ会による即死者41人の内訳は即死者32人、重症後の死亡者9人になる。判明している年齢は2歳-60歳で、死傷者の大部分は、碑がある現在地の東側、渋谷通南一帯の民家の住民だった。主に馬町・上馬町・下馬町の人々であり、ほか西陣・宮津の人もあった。この頃、馬町に疎開していた人もあったという。なお、重症後の死亡者9人には氏名不詳者もある。
 当時の修道国民学校(元・修道小学校、元・東山小学校、現・東山総合支援学校)では、学校の隣地に爆弾が投下されたという。校舎東北隅の民家に火災が発生し、校舎への類焼は免れたものの、講堂・北校舎(東から階上・階下とも3教室)・東校舎(階上3教室)の窓ガラスすべてが爆風により飛散した。講堂の屋根は破れ、柱の破損が多かった。在学していた児童9人が犠牲になったという。  
 投弾地点の一つは、東大路通西の法院前側町だった。ここには、壬生某の爵位ある西本願寺関係者の広い邸宅があり、庭には防空壕が掘られていた。この防空壕に爆弾投下されたという。この夜、空襲警報は出ていなかった。このため壕には誰も入っておらず、家屋の倒壊もなかった。ただ、この家の北隣民家2階に寝ていた母と乳飲み子のうち、母親は爆弾破片を頭部に受けて即死している。赤ん坊は亡くなった母親の腕の中に一晩中抱かれたままで、明け方に救出されたという。壬生家の南向かいの住民が負傷している。
 京都女子専門学校(現・京都女子大学)の小松寮南寮新館が被爆した。寄宿生120人の内5人が生き埋めになり、重症者はいたものの死者はなかったという。同校関連の京都幼稚園園舎も被災している。別棟の職員室・用務員室が倒壊し、2人が下敷きになり救出されたという。
◆被爆後 被爆後、警察署員・警防団員・在郷軍人会などによる救護活動が行われている。当局による箝口令が敷かれ、流言飛語・写真撮影なども禁止になり、渋谷通は封鎖された。修道国民学校には応急救護所が設けられ、重軽症者を収容し、その後、市内の各病院に送られた。死者は応急救護所から智積院(東山区)に移され、1月18日に合同慰霊祭が行われている。
 なお、18日付の新聞報道は「被害は極めて軽微」「若干の犠牲者を出した」などと報じている。
◆空襲関連資料  ◈馬町空襲関連資料の内、写真資料は3種発見されている。
 ⋄爆弾投下現場を撮影したネガフィルム(写真は12枚)が発見された。当時、「アサヒ写真」(東山区今熊野椥ノ森町)の経営者・村中秀光は、写真撮影・材料販売店を開いていた。爆撃の数日後に報道管制下で撮影したとみられている。投下後の現場、住民たちの後片付けの様子なども撮影されていた。
 秀光は生前に空襲を撮った写真のことを周囲に語っていたという。没後に、その孫が煤けた黒箱の中に古いネガフィルムを発見している。フィルムケースには「空襲」と書かれていたという。
 ⋄戦前に京都幼稚園に通っていた地元の嶋本勢津子の手元にあった写真は、近代、1943年頃のものという。園庭に爆弾は投下されている。写真は投下以前のものであり、被爆場所・被害状況などの特定に用いられた。
  ⋄地元で写真館を経営していた長谷川哲也が撮影した写真14枚は、知人が譲り受け、後に修道小学校創立100周年を記念して同校に寄贈された。その後、立命館大学国際平和ミュージアム(北区)に寄託されている。
 ◈現物資料として、石田家(東山区妙法院前側町)のものが2点ある。家は爆心地の北100mの地点にあったという。
  ⋄座敷の板戸には、爆風で真二つに裂けたものが残る。高さ170㎝、厚さ1㎝。
  ⋄その際の、鋭利な爆弾破片も残されていた。
◆碑 「馬町空襲の地」碑は、現代、2014年1月16日に、修道自治連合会・馬町空襲を語り継ぐ会により碑が立てられた。自治会による建立は珍しいという。
 ◈碑には「馬町空襲の地」と刻まれている。十津川石の自然石、高さ1m。
 ◈「副碑」には修道自治連合会・馬町空襲を語り継ぐ会により、馬町空襲で起きた事実のみが記されている。自然石、高さ60㎝。
 ◈銘板「馬町空襲犠牲者名」には、亡くなった犠牲者41人の氏名・年齢が記されている。金属製。
◆馬町 付近の馬町の語源は、「名馬を繋いだ場所」「馬市のあった場所」との説がある。
 この付近は渋谷街道の入口であり、輸送用の馬・馬屋とも関係があるともいう。


*敬称は略しています。
年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都の災害をめぐる』、ウェブブサイト「馬町空襲を語り継ぐ会」、ウェブブサイト「修道校創立百周年記念誌 修道』、ウェブブサイト「伝えたい記憶・写真に見る 京都・馬町空襲被害地図-京都女子大学文学部史学科」


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map 馬町空襲の地の碑 〒605-0932 京都市東山区妙法院前側町441,東大路通渋谷下ル 京都市立東山総合支援学校内  
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