妙伝寺 (京都市左京区八瀬)  
Myoden-ji Temple
妙伝寺 妙伝寺
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本堂


本堂、「覚法山」の山号扁額












 八瀬の妙伝寺(みょうでんじ、妙傳寺)は、山号を覚法山という。朝廷の慶事に出仕した八瀬童子(やせ-どうじ)の菩提寺になる。
 天台宗、本尊は鍍金菩薩半跏思惟像(如意輪観音)になる。
◆歴史年表 江戸時代、1616年、覚法妙伝により創建された。八瀬童子の菩提寺になる。
 現代、1992年、近くにあった念仏堂は老朽化に伴い解体された。堂に安置されていた仏像、位牌が妙伝寺に移された。
 2017年、本尊・半跏思惟像は、7世紀に朝鮮半島で作られた仏像・出土品の特徴と一致するとの見解が発表される。
◆覚法妙伝 江戸時代前期の天台宗の僧・覚法妙伝(?-?)。詳細不明。1616年、八瀬に妙伝寺を創建した。
◆仏像 ◈本尊の「鍍金菩薩半跏思惟像(ときん-ぼさつ-はんかしい-ぞう)」は、かつて如意輪観音菩薩像とされていた。当寺創建、江戸時代前期の模古作と考えられていた。2017年に、像の様式、金属組成の分析により、朝鮮三国時代、7世紀に朝鮮半島で作られた金銅仏の可能性が高いことが判明した。この頃は、日本に仏教が伝わってまもない時期になる。渡来仏が妙伝寺に伝わった経緯については分かっていない。
 像は、思索にふける姿を表している。台座に腰を降ろし、背をやや屈める。右足を曲げ左足の膝頭に載せる。右手は曲げて指先を頬に当てる。左手は組んだ右足を握る。額に水平に刻まれた毛筋、装飾品の精巧な龍の意匠も見られた。
 大阪大学の藤岡穰教授、東京国立博物館による蛍光X線分析での金属成分調査が行われた。金属成分は銅90%、錫10%、鉛はほとんど含まれていなかった。日本・中国の仏像に比べ、錫成分が多かった。これらは、7世紀の朝鮮半島で作られた仏像、出土品の特徴と一致した。
 像高50.4㎝、座高37㎝、青銅製、大津市歴史博物館寄託。現在、寺には模像が安置されている。
 ◈「木造十一面観音立像」(重文、1984年)は、旧念仏堂に伝わる。1992年に、堂は老朽化に伴い解体され妙伝寺に遷されている。作風から、平安時代中期、10世紀末作の遍照寺(右京区)の十一面観音像(重文)に近く、やや先行すると見られている。
 等身大で頭はヒノキの一材から彫出し、内刳りはない。頭上面はほぼ当初のまま残され、奥行がある。左右の肩、手首、左臂を矧ぐ。体躯は太造りで、表情は柔和、上唇が突き出た横顔を見せる。衣文の彫りくちには穏やかさがある。着衣に襞の数が多く、装飾性に富む。
 京都国立博物館寄託。
 ◈「木造天部形(てんぶぎょう)立像」(京都市指定有形文化財、1984年)は、平安時代後期、12世紀作と見られる。
 旧念仏堂に安置されていた。1992年に、堂は老朽化に伴い解体され妙伝寺に遷されている。等身大で、穏やかな相貌、身のこなしで、花形の彫り文様の手法などが見られる。
 京都国立博物館寄託。
 ◈「木造毘沙門天立像」(京都市指定有形文化財、1984年)は、鎌倉時代前期作という。
 表情は少年のような面差しで穏やか、気品あり、平安時代後期の様式を基調にする。腰以下は太造りで、裳は動きを見せる。表面各所に細かい部材を加える。作風に鎌倉時代の表現、手法もあり、新旧両様を取り混ぜている。
 京都国立博物館寄託。
 ◈「木造薬師如来像」(京都市指定有形文化財、1984年)は、鎌倉時代前期の作という。高い肉髻、穏やかな衣文の流れなどに平安時代後期の様風を残す。頭部・体部の接合部にかなりの損傷がある。
 ヒノキ材、寄木造、漆箔、彫眼。京都国立博物館寄託。
◆八瀬童士 八瀬童子(やせ-どうじ)は、京都北方の八瀬里(京都市左京区八瀬)の男性の古称になる。この地は、比叡山延暦寺西麓にあたり、京都側からの登り口になっていた。八瀬童子には「鬼の子孫」との伝承も残り、瓢箪崩山中腹に「鬼洞(おにがほら)」という洞穴もある。八瀬の里人は、古くより杣夫として山林伐採し従事し、京都に対し薪商売を行っていた。
 八瀬童子の「童子」とは、本来は寺院内の実務労働する階層の人々をいう。古くこの地は、比叡山延暦寺青蓮房(しょうれんぼう)が支配した。道案内、警護などで寺に貢献し、雑役を免除されていた。平安時代、11世紀には延暦寺青蓮院門跡領八瀬荘(やせのしょう)になる。平安時代末期には、延暦寺に奉仕する一方で、禁裏の警護にも就いた。
 南北朝時代、1336年に、足利軍の入京があった。北條氏に追われた第96代・後醍醐天皇(1288-1339)を、八瀬童子が助けたという伝承がある。里人は弓矢を持ち、輿を担いで天皇一行を比叡山へ導いた。天皇は京都を脱出し、吉野で南朝(大和国吉野行宮)を開く。以来、南朝と北朝(山城国平安京)の2つの朝廷が並存する南北朝時代(1336-1392)が続いた。
 この時の八瀬童子の天皇への貢献により、13の国名(くにな、「河内」「和泉」「丹後」「但馬」など当初は13、江戸時代には92)が与えられ、諸役免除の特権も得ている。免租の綸旨(りんじ、天皇の意向文書)は第122代・明治天皇の代まで25通が残されている。
 特権は以後も引き続き、江戸時代中期には年貢諸役免除になる。天皇の皇居内移動の際に乗る輿(こし)を担ぐ、臨時の駕輿丁役(かよちょうやく)など、朝廷への奉仕活動を行なった。近代まで、八瀬童子の家々では、枕元に提灯と草鞋を置いて寝た。御所で何らかの異変があると、すぐに対応するためだったという。
 近代、1868年以来の明治維新の際には、御所に詰めて宮中の御用に奉仕した。明治期(1868-1912)以降は、駕輿丁役とともに、大役の大喪、大礼の際の駕輿丁奉仕が加わる。明治天皇、第123代・大正天皇の大喪の礼で、八瀬童子は葬送輿を担いだ。1989年の第124代・昭和天皇の大喪の際には、駕輿丁役奉仕はなく、参列・霊柩奉仕が行なわれ、棺を移動する作業を手伝った。
 1928年に皇室とのつながりを残すために、「八瀬童子会」(現在の会員は100人ほど)が結成されている。会により歴史資料が整備保存されている。八瀬童子に対する何らかの特権は、第2次世界大戦の終戦時まで続いた。現在も天皇、皇后、皇族が京都訪問の際には、八瀬童子が出迎える。葵祭「路頭の儀」では八瀬童子の行列奉仕も行なわれている。
◆年間行事 念仏講(八瀬童子が歴代天皇を供養し念仏を唱える。)(毎月28日)。 


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
❊年間行事は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
参考文献・資料 ウェブサイト「文化財データベース-文化庁」、ウェブサイト「京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課」、『京都市の地名』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都発見三 洛北の夢』、ウェブサイト「大津市歴史博物館」、「東亜日報 2017年1月9日付」、「朝日新聞 2017年1月14日付」、「朝日新聞 2018年9月7日 」、「朝日新聞 2019年3月25日」、ウェブサイト「コトバンク」


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