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湯川秀樹「世界は一つ」の碑 (京都市左京区) Monument of Yukawa,Hideki |
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湯川秀樹「世界は一つ」の碑 | 湯川秀樹「世界は一つ」の碑 |
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![]() ![]() 「世界は一つ」 ![]() 「湯川秀樹書」 ![]() World Peace Through World Law(世界法を通じた世界平和) ![]() 奥に比叡山が見える。 ![]() ![]() ![]() |
国立京都国際会館の北東の道路脇に、「世界は一つ(せかい-は-ひとつ)」と刻まれた大きな石碑が立つ。 理論物理学者・湯川秀樹の揮毫による。核軍縮・平和・世界連邦運動にも関わった。 ◆歴史年表 現代、1975年、2月、世界連邦京都婦人の会(会長・湯川スミ)により、石碑「世界は一つ」が寄贈され建立された。 1975年、8月、国立京都国際会館で「第25回パグウォッシュ・シンポジウム」が開かれた。湯川が主催し、開会式に参加している。 ◆湯川 秀樹 近現代の理論物理学者・湯川 秀樹(ゆかわ-ひでき、1907-1981)。男性。東京の生まれ。父・地理学者・小川琢治、母・小雪の3男。1908年、父が京都大学教授になり、京都に移る。1913年、京極尋常小学校に入学した。1919年、京都府立第一中学校に入学する。1923年、一中4年を修了し、第三高等学校に入学した。1926年、同校を卒業し、京都帝国大学理学部物理学科に進学する。1929年、帝大を卒業し、同大学理学部副手として理論倫理学の研究に従事した。1932年、湯川スミと結婚し湯川姓になる。京都大学理学部講師になり、量子力学の講義を担当する。1933年、大阪帝国大学講師になった。西宮市苦楽園に移り住む。1934年、大阪大学理学部専任講師になる。第1報「素粒子の相互作用について」で、核力とβ崩壊を媒介する場の量子として、新粒子(中間子)の存在を予言した。1936年、大阪大学助教授になる。「K電子捕獲の理論」を提唱する。 初著『ベーター線放射能の理論』を出版した。1937年、アメリカ合衆国の物理学者・アンダーソンが中間子の存在を宇宙線に発見した。湯川は物理学者・坂田昌一らと「中間子場理論」を展開した。1938年、共著『素粒子の相互作用について』を発表し、理学博士を授与される。服部報公賞を受賞した。1939年、京都大学教授になる。1940年、素粒子論で学士院恩賜賞を受賞した。1941年、 野間学術賞を受ける。1942年、東京帝国大学教授を兼任する。 1943年、文化勲章を受章する。1945年、戦後すぐに欧文専門誌"Progress of Theoretical Physics"を創刊し、高い評価を受けた。1947年、素粒子に時空的な広がりをもたせた「非局所場の理論」を提唱した。1948年、プリンストン高等研究所客員教授として渡米した。1949年、 7月、コロンビア大学教授になり、ニューヨークに移る。10月、日本人として初めて、核力に関する中間子理論によりノーベル物理学賞を受賞した。1953年、帰国する。京都大学基礎物理学研究所の創設に伴い、初代所長に任じられた。 京都市名誉市民になる。1954年、アメリカ合衆国の水爆実験に衝撃を受ける。1955年、日本ユネスコ国内委員会委員、社団法人日本物理学会会長になった。7月、核兵器に反対したロンドンでの「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名(11人)の一人になる。「世界平和アピール七人委員会」を結成した。1956年-1557年、原子力委員会委員を務めた。1957年、7月、ラッセル・アインシュタイン宣言に基づき、カナダでの「第1回パグウォッシュ会議」(22人)に、友人・物理学者・朝永振一郎、核物理学者・小川岩雄とともに出席した。パリ大学名誉博士を授けられる。1958年、京都市左京区に移る。1962年、天龍寺(右京区)で、朝永、坂田とともに呼びかけ人になり、日本版パグウォッシュ会議の「科学者京都会議」が開催される。1966年、 「原子論と空間時間の分割性」を発表し、素領域理論を提唱した。1967年、 西ドイツ国プール・ル・メリット勲章を受賞した。モスクワ大学名誉博士を授けられる。1970年、京都大学を定年退官し、同大学名誉教授になる。1971年、 『湯川秀樹自選集』全5巻を出版した。1975年、京都で「第25回パグウォッシュ・シンポジウム」(36人)が開かれ、完全核軍縮の「湯川-朝永宣言」を発表した。1977年、勲一等旭大綬章を授けられる。1978年、 東京で開催された「第19回エネルギー物理学国際会議」の会長になる。1979年、英文学術論文集"Hideki Yukawa Scientific woks"を出版した。1981年、京都市の自宅で亡くなる。74歳。 原子核は陽子と中性子からなる。さらに、陽子・中性子を互いに結び付ける何らの力として、新粒子があるとした。新粒子の中間子は、核子(陽子・中性子の総称)の間に働く、核力を媒介する素粒子として導入された。さらに、中間子が電子とニュートリノに崩壊し、原子核のβ崩壊も統一的に説明する可能性を与えた。以後、素粒子論の領域が発展する。 反核・平和・世界連邦運動にも積極的に関わる。著『素粒子』、『湯川秀樹自選集』など。 墓は知恩院(東山区)にある。 ◆湯川 スミ 近現代の湯川 スミ(ゆかわ-すみ、1910 -2006)。女性。本名は湯川澄子。大阪市生まれ。父・医師・湯川玄洋、母・みちの次女。1928年 、大阪府立大手前高等女学校本科(現・大阪府立大手前高等学校)を卒業した。1932年、 小川秀樹と結婚し、夫・秀樹は入り婿になり湯川に改姓する。1933年、 長男出産、1934年、 次男を出産した。1948年、秀樹がプリンストン高等科学研究所の教授として招かれ、スミも渡米し理論物理学者・アインシュタインと出会う。1956年、 世界連邦京都婦人の会を設立した。1958年、 世界連邦全国婦人協議会会長になる。1963年、 世界連邦建設同盟会長になった。1966年、ダームコマンデール勲章を受賞した。1977年、 世界連邦建設同盟名誉会長、1988年 、 WFM(世界連邦運動,World Federalist Movement)名誉会長、1996年、 世界連邦運動協会名誉会長になる。著『苦楽の園』。96歳。 墓は知恩院(東山区)にある。 ◆パグウォッシュ会議 「パグウォッシュ会議」の正式名称は「科学と国際問題に関する会議(Conference on Science and World Affairs)」 という。イギリス人の数学者・哲学者・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell,1872-1970)、ドイツ生まれの理論物理学者・アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)、湯川ら11人の科学者が、核兵器と戦争の廃絶を訴えた国際科学者会議「ラッセル・アインシュタイン宣言」を契機に開かれた。 現代、1957年の第1回会議は 、カナダのパグウォッシュ(Pugwash)村で開かれ、名の由来になった。世界の科学者 22人が参加し、日本からは湯川、物理学者・朝永振一郎(1906-1979)、核物理学者・小川岩雄(1921-2006)の3人が参加した。原水爆実験を禁止の声明が出される。以後、毎年場所を変えて会議が開かれ、軍縮問題、平和問題について討議され声明が出されている。 1962年に湯川は朝永、物理学者・坂田昌一(1911-1970)と、天龍寺で「科学者京都会議会議」を主催した。ラッセル・アインシュタイン宣言に共鳴する科学者・文化人が集った。 1975年に第25回「パグウォッシュ・シンポジウム」は、国立京都国際会館(8月28日-9月1日)で開かれた。湯川は、「完全核軍縮の新構想」を主催する。病気静養中のため、開会式では車いすでスミ夫人に付き添われて登壇した。この時、完全核軍縮を要求する「湯川‐朝永宣言」が発表された。 1981年6月には、京都で「第4回科学者京都会議」が開かれ、湯川は出席している。この年の9月に、湯川は亡くなっている。 1995年にパグウォッシュ会議は、会議の創設者・物理学者・ロートブラット(Joseph Rotblat,1908-2005)とともにノーベル平和賞を受賞している。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「『朝日新聞』1975年8月28日付」、『京都大事典』、ウェブサイト「大阪大学総合学術博物館 湯川記念室」、ウェブサイト「京都大学 基礎物理学研究所 湯川記念館史料室」、ウェブサイト「世界連邦運動協会」、ウェブサイト「ネットミュージアム兵庫文学館」、ウェブサイト「WEB金蘭会」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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