京都大学基礎物理学研究所(湯川記念館) (京都市左京区)  
Yukawa Institute for Theoretical Physics, Kyoto University
京都大学基礎物理学研究所 京都大学基礎物理学研究所
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西側





西側、正面


西側、正面


西側、正面


湯川秀樹像
 京都大学の北部構内に、京都大学基礎物理学研究所(きょうとだいがく-きそぶつりがく-けんきゅうしょ)はある。湯川記念館とも呼ばれている。日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹を記念して設立された。
 設計は、建築家・建築研究者・森田慶一による。
◆歴史年表 現代、1949年、湯川秀樹は、日本人として初のノーベル物理学賞を受賞した。
 1952年、7月、「湯川記念館」が竣工する。
 1953年、8月、京都大学附置の「京都大学基礎物理学研究所」の創設に伴い、湯川は初代所長に任じられた 。当初は、「場の理論」「中間子論」の2部門が発足する。
 1960年、 3月、北側に「研究棟」が増築される。
 1969年、6月、共同利用研究者宿泊施設の「北白川学舎」設置される。
 1979年、8月、「湯川記念館史料室」が発足する。
 1990年、広島大学理論物理学研究所(1944)と合併した。宇治キャンパス内にも部屋、図書室が確保された。
 1995年、7月、「新研究棟」が竣工する。
 2008年、3月、湯川記念館の耐震改修工事が完了する。4月、湯川記念館に「パナソニック国際交流ホール」が竣工した。
 2011年、 4月、「北部総合教育研究棟」、「益川ホール」が竣工する。
◆湯川秀樹 近現代の理論物理学者・湯川秀樹(ゆかわ-ひでき、1907-1981)。東京生まれ。地理学者・小川琢治の三男。1908年、父が京都大学教授になり、京都で育つ。第三高等学校を経て、1929年、京都帝国大学理学部物理学科を卒業した。1932年、湯川スミと結婚し湯川姓になる。1933年、大阪帝国大学講師になった。1934年、第1報「素粒子の相互作用について」で、核力とβ崩壊を媒介する場の量子として、新粒子(中間子)の存在を予言した。1936年、「K電子捕獲の理論」を提唱する。1937年、アメリカ合衆国の物理学者・アンダーソンが中間子の存在を宇宙線に発見し、物理学者・坂田昌一らと「中間子場理論」を展開した。1939年、京都大学教授になる。1940年、素粒子論で学士院恩賜賞を受賞した。1942年、東京帝国大学教授を兼任する。 1943年、文化勲章を受章する。1945年、戦後すぐに欧文専門誌『Progress of Theoretical Physics』を創刊し、高い評価を受けた。1947年、素粒子に時空的な広がりをもたせた「非局所場の理論」を提唱した。1948年、プリンストン高等研究所客員教授になる。1949年、 コロンビア大学教授になる 。日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した。1953年-1970年、京都大学基礎物理学研究所の創設に伴い、初代所長に任じられた 。1955年、日本ユネスコ国内委員会委員、社団法人日本物理学会会長になる。核兵器に反対したロンドンでの「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名(11人)の一人になる。「世界平和アピール七人委員会」を結成した。1956年-1557年、原子力委員会委員を務めた。1957年、ラッセル・アインシュタイン宣言に基づき、カナダでの「第1回パグウォッシュ会議」(22人)に、友人・物理学者・朝永振一郎、核物理学者・小川岩雄とともに出席した。1962年、天龍寺で、朝永、坂田とともに呼びかけ人になり、日本版パグウォッシュ会議の「科学者京都会議」が開催される。1967年、「素領域理論」を提唱した。1975年、京都で「第25回パグウォッシュ・シンポジウム」(36人)が開かれ、完全核軍縮の「湯川-朝永宣言」を発表した。著『素粒子』、『湯川秀樹自選集』など。74歳。
 原子核は陽子と中性子からなる。さらに、陽子・中性子を互いに結び付ける何らの力として、新粒子があるとした。新粒子の中間子は、核子(陽子・中性子の総称)の間に働く、核力を媒介する素粒子として導入された。さらに、中間子が電子とニュートリノに崩壊し、原子核のβ崩壊も統一的に説明する可能性を与えた。以後、素粒子論の領域が発展する。
 反核・平和・世界連邦運動にも積極的に関わる。
 墓は知恩院(東山区)にある。
◆森田慶一 近現代の建築家・建築研究者・森田慶一(もりた-けいいち、1895-1983)。三重県生まれ。三重県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年、 東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。石本喜久治ら東大同窓の建築家ら6人で、「分離派建築会」を結成した。日本での建築文化運動の先駆であり、建築は科学技術ではなく「建築は一つの芸術である」を主張した。内務大臣官房都市計画課に入る。1922年、京都帝国大学教授・武田五一の招聘により同大学助教授として赴任した。建築材料学、設計製図を指導する。1928年、『月刊建築学研究』に「ヴィトルヴィウスの10のカテゴリーに対するヨルレスの説」を発表し、建築論の礎を築く。1934年、「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士を取得した。1934年-1936年、フランス、ギリシアに留学する。1936年、京都帝国大学教授になる。1958年、京都大学を退官した。1950年-1957年、京都府建築審査会委員、1951年-1957年、奈良県建築審査会委員、1953年、京都国立博物館調査員などを歴任した。1963年-1979年、東海大学教授になる。1974年、日本建築学会大賞を受賞した。古代ローマの『ウィトル=ウィウス建築書』の日本語訳、著『西洋建築史概説』、『建築論』など。87歳。
 西洋建築の歴史的研究、ギリシア・ローマの古典精神、ドイツ・表現主義建築(諸芸術の総合、斬新な形態の試行)に影響を受けた作品も手掛けた。近代日本の建築論・建築学の創始者であり、確立者だった。多くの後身を育てた。
 主な作品は京都帝国大学楽友会館(1924年)、京都帝国大学農学部表門・門衛所(1924年)、北野病院(1928年、現存せず)、京都大学基礎物理学研究所湯川記念館(1952年)、京都国立博物館新陳列館(1965年、現存せず)など。
◆建築 湯川記念館は、1952年に竣工した。設計は森田慶一による。2008年に耐震改修工事が完了する。同年に、1階中庭にパナソニック国際交流ホールが竣工した。
 西面している。外観は、柱梁のフレームにより、水平垂直の直線で構成されている。平面は矩形をしている。古典主義の様式が見られ、鉄筋コンクリート構造開拓者のフランスのオーギュスト・ペレ(1874-1954)の影響があるといわれている。
 施工はミラノ工務店、鉄筋コンクリート造3階建、地下1階。


*内部は通常非公開
原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 ウェブサイト「京都大学 基礎物理学研究所 湯川記念館史料室」、ウェブサイト「大阪大学総合学術博物館 湯川記念室」、ウェブサイト「世界連邦運動協会」、『もうひとつの京都-モダニズム建築から見えてくるもの』、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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