立命館草創の地・清輝楼 (京都市上京区)  
Land of creation of Ritsumeikan
立命館草創の地・清輝楼 
立命館草創の地・清輝楼 
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立命館草創の地の碑


副碑


精輝楼、立命館草創の地の碑より
 東三本木丸太町上ル東側に「立命館草創の地(りつめいかん-そうそう-の-ち) 京都法政学校設立(きょうと-ほうせい-がっこう-せつりつ)」の碑が立つ。近代に、中川小十郎は、旗亭(きてい、料理屋・宿屋)「清輝楼(せいきろう)」で開校した。
 旗亭は、桂小五郎(木戸孝允)と幾松(後の木戸夫人)の逸話がある「吉田屋(よしだや)」の後継ともいう。
◆歴史年表 近代、1900年、5月19日、官僚・教育家・中川小十郎は、私立「京都法政学校」を開校した。旗亭「清輝楼」を仮校舎として講義が行われる。立命館大学の前身になる。
 1901年、12月、京都法政学校は新校舎(広小路河原町)に移転した。
 
現代、1997年まで、清輝楼の後継とされる旅館「大和屋」は現在地に存在していた。
  2000年、3月、立命館創立100周年を記念し、学校法人 立命館により石碑・副碑が立てられた。
◆中川小十郎 江戸時代後期-近代の官僚・教育家・中川小十郎(なかがわ-こじゅうろう、1866-1944)。本名は重興。京都生まれ。父・中川禄左衛門、母・さきの長男。6歳の時、中川武平太の家に養子に入る。養父が佐賀から招いた漢学者・田上綽俊の私塾に、書生として住み漢詩などを学ぶ。1878年、東京の叔父・中川謙二郎から学問修業の誘いを受けた。1879年、叔父・中川謙二郎の自宅で、岡田良平(後の文部大臣)、一木喜徳郎(後の東京帝国大学教授)らと同居した。夏目漱石(小説家)と帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を目指した。1893年、東京帝国大学で法学、経済学を修めて卒業する。恩師・木下廣次(後の京都帝国大学初代総長)の紹介で文部省へ入省する。文部省大臣・井上毅文部大臣のもとで官立学校の制度作りに参加した。1894年、西園寺公望(きんもち)が文部大臣に就任し、秘書官に抜擢される。1897年、廣次とともに京都帝国大学の創立に参加し、初代事務局長になる。教官選任、会計事務を取り仕切る。1898年、成瀬仁蔵とともに、日本女子大学の創立に関わる。同年、政権交代を契機に文部省を退職した。成瀬の紹介で実業家に転身し、経営不振の大阪・加島銀行理事として再建に尽力した。1899年、10月、私立「京都法政学校」の創立のために、加島屋の実業家・広岡浅子、西園寺の実弟・住友友純からの大口寄附などを得る。1900年、京都法政学校が鴨川河畔「清輝楼」で開校した。1900年-1913年、立命館の学監になる。1905年、京都法政学校は西園寺から「立命館」の名称を受け継ぐ。1906年、西園寺の首相就任に伴い、小十郎は首相秘書官、その後も元老の私設秘書として仕えた。その後、朝日生命副社長、再び京都帝大書記官、樺太庁事務官などを歴任する。1912年、台湾銀行副頭取、1913年-1931年、立命館館長になる。1920年、台湾銀行頭取になる。1925年、貴族院議員になった。1928年、近衛隊を組織し国家主義に傾注する。1931年-1944年、立命館初代総長になる。1933年、滝川事件の際に、京都帝国大学を辞職になった憲法学者・佐々木惣一教授らを立命館に迎えた。同年、貴族院議員などを歴任した。79歳。
◆中川謙二郎 江戸時代後期-近代の教育者・中川謙二郎(なかがわ-けんじろう、1850-1928)。丹波桑田郡の生まれ。中川小十郎の叔父になる。1868年、西園寺公望の山陰道鎮撫使総督に従軍する。1869年、西園寺が創設した家塾「立命館」に学ぶ。後に東京開成学校を卒業した。1879年、向学のために中川を誘い、東京の自宅に預かる。新潟学校、学習院、東京女子師範の教諭を歴任した。1901年、文部省視学官に任じられる。後に、仙台高工校長、東京女高師(現お茶の水女子大)校長になる。79歳。
◆西園寺公望 江戸時代後期-近代の貴族・政治家・西園寺公望(さいおんじ-きんもち、1849-1940)。幼名は美麿、号は陶庵。京都の生まれ。公家・徳大寺公純の次男、母は斐子。西園寺家を継ぐ。1868年、王政復古で、1867年、参与になる。戊辰戦争(1868-1869)に山陰道鎮撫総督などとして従軍した。1869年、邸内に家塾「立命館」を創設した。1871年/1870年、パリ・コミューン渦中のパリ第4大学(ソルボンヌ)に留学し、後に卒業した。クレマンソー、中江兆民らと交わる。1880年、帰国する。1881年、参事院に入る。明治法律学校(現・明治大学)を創立した。明治法律学校講師になる。東洋自由新聞社長になり、自由民権を主張する。兄・侍従長・徳大寺実則の説得で辞職した。1882年、憲法調査のために、伊藤博文に随いて渡欧した。以降、各国公使、賞勲局総裁になる。1884年、公爵、1885年、オーストリア公使などを歴任した。1891年、貴族院副議長、1894年から、第2次・第3次伊藤内閣文相になる。1900年、枢密院議長、1903年、立憲政友会総裁に就任した。1906年、第1次内閣、1911年、第2次内閣を組織した。1912年、元老になる。2個師団増設問題で陸軍と対立した。1914年、総裁を辞職する。1919年、ベルサイユ講和会議首席全権を務めた。1920年、公爵になる。著『西園寺公望自伝』など。92歳。
 晩年、軍部と対立した。国葬が執り行われた。
◆富井政章 江戸時代後期-近代の民法学者・富井政章(とみい-まさあきら/まさあき、1858-1935)。京都の生まれ。京都聖護院侍・富井政恒の子。1877年、東京外国語学校卒業後、フランス・リヨン東洋博物館に勤務し、リヨン大学で法学を学ぶ。1883年、帰国する。1885年/1884年-1918年、東京大学教授になり民法講座を担任した。1891年、貴族院勅選議員、帝国学士院会員、帝室制度審議会委員、宮内省御用掛、議定官などを歴任した。1892年、民法典実施に反対の大演説をする。1893年より、法典調査会主査委員として、梅謙次郎、穂積陳重と民法典の起草に参与する。1895年、帝国大学法科大学長、1900年、京都法制学校(立命館大学)校長、1903年、和仏法律学校(法政大学)教頭になる。1918年、枢密顧問官になる。1919年-1935年、臨時法制審議会の民法親族編・相続編改正調査の主査委員長、臨時法制審議会民法親族編、相続編改正調査の主査委員を務めた。1926年、男爵叙爵。1928年、同改正案起草委員長に就く。著『民法論綱』『民法要義』。78歳。
 フランス法学者、ドイツ法学者であり、民法学界の長老になった。民法典、商法、民事訴訟法の起草にも尽力した。日露開戦論を唱えた七博士の一人になる。
◆中川家 1868年1月4日、西園寺公望は、新政府の山陰道鎮撫使総督に任命された。薩長の軍勢を率い山陰地域に派遣される。丹波馬路村(亀岡市)に進軍し、地元の有力郷士・中川家に従軍を求めた。小十郎の実父・中川禄左衛門、養父・武平太、叔父・謙二郎、叔父・中川百助らが応じた。公望に若い謙二郎(18歳)、百助(20歳)が仕え従軍した。
 公望は任務後の1868年9月に、京都御苑の私邸内に、家塾「立命館」を開校した。謙二郎、百助の2人も学んでいる。謙二郎は、公望に認められ、公望とともに開成学校(現在の東京大学)で教育を受けた。
◆吉田屋・清輝楼・大和屋 料亭「清輝楼(せいきろう)」は、料亭「吉田屋(よしだや)」のあとを受け継いだ料亭という。
 後継ではなく、同時代に存在した別の料亭ともいう。吉田屋の場所については異説がある。吉田屋は三本木通の山紫水明処の少し北に行った東側にあり、さらにその北に清輝楼があったともいう。 南の湯浅邸が吉田屋の跡ともいう。
 ◈「吉田屋」は、幕末に尊攘派の志士が密会の場として利用したという。新撰組に踏み込まれた長州藩・桂小五郎(木戸孝允、1833-1877)を、吉田屋に籍を置いた勤皇芸妓・幾松(1843-1886)が河原伝いに逃した。幾松は、隊士に毅然と応対したという。吉田屋は、桂小五郎の捕縛未遂地とされている。
 なお、南に30mほど下がった地点には、幾松の置屋「難波屋」があった。
 ◈佐幕派の会津藩藩士も一部、三本木に入っている。1868年に、三本木の芸妓・駒野(?-?)は、三条河原で晒された新撰組組長・近藤勇(1834-1868)のために、講釈師に追悼の一席を演じさせたという。
 ◈1867年6月22日、「吉田屋」で薩摩藩の小松帯刀(1835-1870)・西郷隆盛(1828-1877)、大久保利通(1830-1878)、土佐藩の後藤象二郎(1838-1897)・寺村左膳(1834-1896)ら首脳、坂本龍馬(1836-1867)、中岡慎太郎(1838-1867)が陪席し、薩土盟約が結ばれた。幕藩制に代わる国家のための政治同盟だった。
 ◈料亭「清輝楼」は、1864年の禁門の変の直前に、薩摩藩・西郷隆盛(1828-1877)が長州藩討伐を諸藩に訴えた場所という。
 ◈近代、1900年5月19日に、中川小十郎により私立「京都法政学校」(現・立命館大学の前身)が開校された。初めての講義が行われたのは「精輝楼」3階/2階の大広間であり、間借りし利用された。1901年12月には、新校舎(広小路河原町)に移転している。
 
◈「精輝楼はその後、席貸「茨木屋」になる。大正年間(1912-1926)には洋食屋「あづまや」に変わった。さらに、1927年に「大和屋」になり、現代、1997年までこの地に旅館として存在した。
◆京都法政学校・立命館 近代、1869年に、西園寺公望(1849-1940)は、御所の自邸内に家塾「立命館」を創始した。「立命館」とは、『孟子』「尽心章」に由来し、「人の生死は天命で決められ、生ある間は学問をし続け、天命を待つのが人間の本分である」の意味になる。
 中川小十郎(1866-1944 )は、京都帝国大学の井上密(1867-1916)、公法学者・織田萬(1868-1945)、民法学者・岡松参太郎(1872-1922)らと私立「京都法政学校」の創立をはかる。設立趣意は、官立校のみでは不十分な教育の機会均等を私立学校が担うためとされた。1899年に、実業家・広岡浅子(1849-1919)より5000円の無担保融資、西園寺公望の実弟・実業家・住友友純(1864-1926)からの大口寄附などを得る。1900年5月19日に、京都法政学校(校長・富井政章)が認可される。鴨川河畔の旗亭(きてい、料理屋・宿屋)「清輝楼」(上京区中之町,東三本木丸太町上ル)3階/2階大広間に仮校舎が置かれた。
 第1期入学者は305人(卒業者57人)あり、6月5日に開校される。講義は就業者が通学可能な夜間学級の形態をとり、夕方5時-9時の夜間4時間制で開校した。京都帝国大学法科大学の教授・助教授らを講師とし、法律・政治/経済の2科が開講している。民法、商法などの実用法学を学べた。正規の教育課程を経ていない者にも門戸が開かれ、講義録が刊行され地方在住者も講義が受けられた。
 入学予定者100人を上回る学生数になり手狭になったため、1901年12月30日に京都御所の清和院御門の東側にある広小路学舎(上京区広小路通河原町中御霊町410番地、現在の京都府立医大西構内)に移転した。敷地は412坪(1360㎡)あり、1棟3教室の校舎が建てられる。「付属清和普通学校」も開設され、1902年には「立命館中学校」と改称した。
 その後、1903年に、私立「京都法政専門学校」に組織変更している。1904年には、私立「京都法政大学」を設立した。1905年、中川は西園寺に申し出て、私塾「立命館」の名称を受け継ぐことを許されている。1913年に、私立「立命館大学」と改称した。1922年に、大学令による旧制「立命館大学」と改称し、法学部・専門学部・予科を置いた。1933年に、滝川事件で京都帝大を追われた末川博(1892-1977)ら多数を講師に迎える。1940年に、西園寺が亡くなる。中川の発案により、西園寺は立命館大学の学祖とされた。
 現代、1948年に新制大学へと移行し、法学部、経済学部、文学部を設置する。1981年3月に広小路から衣笠(北区等持院北町)に移転した。その後も、学舎、学部などの拡大を続けている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「立命館草創の地」の副碑、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、京都市の駒札、ウェブサイト「立命館の灯 -中川小十郎、立命館創立ものがたり-立命館大学」、『京都大事典』『京都 歴史案内』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 立命館草創の地・清輝楼 〒602-0864 京都市上京区中之町,東三本木通丸太町上ル東側
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