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春日潜庵先生邸宅跡 (京都市上京区) Site of Kasuga,Senan Residence |
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春日潜庵先生邸宅跡 | 春日潜庵先生邸宅跡 |
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![]() 「春日潜庵先生邸宅趾」の石標 ![]() |
御所の西側、烏丸通一条上ルに、「 春日潜庵先生邸宅趾(かすが-せんあん-せんせい-ていたく-あと)」の石標が立てられている。 この地には、江戸時代末期-近代の儒者・春日潜庵(かすが-せんあん)の邸宅があった。尊皇譲位論者であり、公卿の政治運動に強い影響を与えた。 ◆歴史年表 江戸時代後期、儒者・春日潜庵(1811-1878)は、自宅(烏丸通一条上ル)に塾を開き子弟の教育にあたった。 年代不詳、石標が立てられた。 ◆春日潜庵 江戸時代後期-近代の儒者・尊攘派志士・春日潜庵(かすが-せんあん、1811-1878)。名は仲襄、字は子賛、号は潜庵。京都に生まれる。久我家諸大夫の筑前守・春日仲恭の子。崎門学派・鈴木遺音(恕平)らに学ぶ。五十君南山らに朱子学を学ぶ。公卿・久我(こが)家に仕え、諸大夫になり、久我通明・建通父子らに仕えた。讃岐守に任じられた。陽明学者として知られ、自宅(烏丸通一条上ル)に塾を開き、子弟の教育にあたった。1853年、安政の開国で建通を動かした。1858年、幕府と水戸藩へ出された勅諚の幕政を批判する「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)降下」に、重要な役割を果たした。このため、安政の大獄に連座し、江戸・岸和田藩邸に永押込になる。その後、紫野・雲林院村の別邸に閉居になる。1862年、赦免され久我家に戻る。1863年、七卿落ちで東久世通禧が京都を離れた後、東久世家の家事を兼掌した。維新後、1868年、大和鎮撫総督・久我通久(みちつね)に参謀として従う。奈良県知事になった。晩年、門亭教育に関わる。著『陽明学真髄』など。68歳。 大塩平八郎、山田方谷、佐藤一斎、横井小楠、梁川星巌、頼三樹三郎、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らと親交があった。 墓は法蔵寺(右京区)にある。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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