横井小楠殉節地 (京都市中京区)  
The Assassination of the land Yokoi, Shonan
横井小楠殉節地 横井小楠殉節地
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横井小楠殉節地
 寺町丸太町下ル東側に、「横井小楠殉節地(よこい しょうなん じゅんせつち)」の石標が立つ。
 この付近で、江戸時代後期-近代の思想家・政治家・横井小楠が暗殺された。
◆歴史年表 近代、1869年、1月5日、横井小楠は京都御所から帰る途中、この付近(寺町丸太町角)で尊攘派志士に暗殺された。
 1916年、石標が立てられた。
 1932年、石標損壊により京都市教育会は新しく再建立した。
◆横井小楠 江戸時代後期-近代の思想家・政治家・横井小楠(よこい しょうなん、1869-1809)。名は時存(ときあり)。肥後藩士・横井時直の次男、母はかず。子に時雄。熊本藩士。藩校「時習館」で朱子学を学ぶ。居寮長に進む。1839年、江戸遊学し、佐藤一斎、藤田東湖らを知る。酒で失敗し、帰藩後、熊本に家塾「小楠堂」を開く。塾生第1号は徳富蘇峰の父・一敬だった。門人に嘉悦氏房らがいる。1843年頃より、長岡監物、元田永孚らと学問と政治を一致させた肥後実学党を結成した。藩政改革に失敗する。1851年、北陸遊歴、1852年、越前藩から求められ『学校問答書』を記した。1853年、ペリー来航後、攘夷論を唱えた。1854年、兄の死により家督相続する。1858年以来、7年間、4回にわたり越前藩主・松平慶永(春岳)に招かれ、藩校明道館で講学した。生糸の大量輸出など富国策の藩政を実施した。この経緯は『国是三論』に著した。1862年、江戸で春岳が幕府政事総裁職に就き、その政治顧問になる。幕府の公武合体、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。肥後藩江戸留守居役・吉田平之助宅で刺客に襲われ福井に戻る。肥後藩より、逃げたことが士道に背くとして帰国を命じられた。知行没収、士籍剥奪、蟄居の身になる。1868年、新政府に招かれ上京、徴士、参与、制度局判事になり、岩倉具視の信任を受けた。洋風化によりキリスト教を広めると誤解され、京都で尊攘派の十津川郷士・津下四郎左衛門らに暗殺された。勝海舟、坂本龍馬らが敬服した。
 墓は、南禅寺・天授庵(左京区)にある。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 横井小楠殉節地 〒604-0995 京都市中京区下御霊前町,寺町丸太町下ル東側 
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