淳和院跡 (京都市右京区) 
ruins of residence of junnain(Palace)
淳和院跡 淳和院跡 
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門前に立つ「淳和院跡」の石標


高山寺


【参照】春日神社境内にある旧淳和院の礎石
 高山寺(こうざんじ)の門前に第53代・淳和天皇の離宮だった「淳和院跡(じゅんないんあと)」の石標が立つ。この地は、淳和院の東南端に当たる。
◆歴史年表 平安時代前期、この地、右京二条には、第53代・淳和天皇(786-840)の離宮が営まれた。皇太子時代より御所として用いられた。当初は南池院(なんちいん、西院)と呼ばれる。
 833年、淳和上皇は譲位後、皇太后・正子(まさこ)内親王とともに離宮を整備した。後院(天皇即位後の御所)とし、淳和院(西院)と名を改めた。
 840年、上皇没後、皇太后(正子内親王)の御所になる。皇太后は出家し、院は仏道修行の道場になる。 
 874年、焼失した。皇太后は、松院に一時避難する。その後、洞裏殿に戻る。
 879年、皇太后没後、遺命により院は寺に改められた。
 近代、大正期(1912-1926)前半まで、飯ノ山と呼ばれる築山(淳和院の築山遺構とされる)が残っていた。
 1927年、淳和院の推定地、西端、中央南で発掘調査を行う。
 1992年-1993年、淳和院の南西隅で発掘調査を行う。
◆淳和天皇 平安時代の第53代・淳和天皇(じゅんな-てんのう、786-840)。大伴(おおとも)、西院帝、日本根子天高譲弥遠天皇(やまとねこあめたかゆずるいやとおのすめらみこと)、後太上天皇とも称された。第50代・桓武天皇の第3皇子、母は藤原百川の娘・松子(贈皇太后旅子 [たびこ])。810年、平城太上天皇の変(薬子の変)により、兄・平城上皇(第51代)は失脚し、その皇子・高岳(たかおか)親王(真如)は廃太子された。第52代・嵯峨天皇の信頼篤く、皇太弟になる。823年、嵯峨天皇の譲位により即位した。冷然院(冷泉院)に住む嵯峨上皇は影響力を残し、皇太子に上皇の皇子・正良親王(後の第54代・仁明天皇)が立つ。大伴氏は、天皇への配慮から「伴氏」に改めた。824年、左右検非違使庁を設置し、制度を強化した。826年、上総、常陸、上野を親王任国に定める。833年、皇太弟時代の離宮南池院(西院とも)を整備した淳和院に移り、第54代・仁明天皇に譲位した。淳和上皇の皇子・恒貞(つねよ)親王が皇太子になる。
 治水事業、律令制再建、令外官の勘解由使(かげゆし)の復活、検非違使制度の強化を行う。勅旨田、親王任国を置き皇室財政を強化した。漢詩に長じた。詩文集『経国集』(827)、滋野貞主による百科事典『秘府略』(831)、清原夏野らの令(りょう)の公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』(833)の編纂などに努めた。
 温厚な性格だったという。当初、上皇の称号、待遇を辞退する。上皇が二人のため、嵯峨上皇を「先(前)太上天皇」、淳和上皇は「後太上天皇」と称した。遺言により山陵は築かれず、大原野山中に天皇初の散骨が行われた。御陵は大原野西嶺上陵(西京区)になる。
 なお、842年、嵯峨上皇没後、皇子・恒貞親王は廃位になった。(承和の変)。
◆正子内親王 平安時代前期の第53代・淳和天皇皇后・正子内親王(せいし/まさこ-ないしんのう、879-809)。父は第52代・嵯峨天皇、母は橘嘉智子。825年、淳和天皇の第2皇子・恒貞親王を産む。827年、淳和天皇皇后となる。831年、旱に際して囚徒を録し、作役を廃するよう天皇に勧め降雨したという。833年、第54代・仁明天皇が即位、恒貞が立太子となる。840年、夫没後、出家し尼になる。842年、承和の変では謀反首謀者とされ恒貞親王は廃太子、摘発者は母・嘉智子だった。860年、菩薩戒を受け、法名は良祚と称した。876年、大覚寺を建立し、僧尼の病い治療のための済治院を建てた。淳和院を道場とし尼の居所とした。孤児の養育を行う。
◆淳和院 平安時代、四条大路(現在の四条通)の東北一帯に、淳和天皇の営む離宮「淳和院」があった。平安京右京四条二坊十一町-十四町の4町(「拾芥抄」)とも、九-十六町の8町ともいう。広さは東西約230m、南北約250mと広大だった。池に面した御所で、現在の高山寺の東北に位置した。
 淳和天皇の皇太子時代より御所として用いられた。当初は南池院(なんちいん、西院)と呼ばれる。833年、淳和上皇は譲位後、皇太后・正子内親王とともに離宮を整備する。後院(天皇即位後の御所)とし、淳和院(西院)と名を改めた。840年、上皇没後、皇太后(正子内親王)の御所になる。皇太后は出家し、院は仏道修行の道場になる。 874年、焼失する。皇太后は、松院に一時避難し、洞裏殿に戻る。879年、皇太后没後、その遺命により院は寺に改められた。
 苑池は敷地中央にあり、中島も造られた。中庭、苑池の北に後山(飯ノ山、築山)も築かれた。(『続教訓抄』)。鎌倉時代の第88代・後嵯峨上皇らも行幸し、文人による遊宴も催される。
 1927年の発掘調査により、苑池から西の道祖大路に水を流す木樋(深さ1.5m、東西方向)が見つかった。1992年-1993年の発掘調査により、9世紀前半の大型の建物(7間3間、西廂付南北棟)、道路、銅鋳物所、西門(八角形柱跡、柱間4m)などが見つかった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『平安の都』『京都市文化財ブックス28集 平安京』『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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淳和院跡 〒615-0012 京都市右京区西院高山寺町18   075-311-1848
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